――隼人が、数ヶ月ぶりにイタリアへ帰ってきた。
日本での仕事に追われていた隼人が、イタリアの本部に顔を出すのは数ヶ月に一度だけ。ボンゴレの守護者の一員である彼と、ただのファミリーの一員である私とは、仕事量にもその重さにも、決定的な差がある。だから、いくら"恋人同士"といえど、会える時間は数ヶ月の内、たったの二、三日だけ。
それでも、私は幸せだった。隼人が、私の為にボスへ無理を言って、どんな雑用でもイタリアでの仕事を自主的に作ってくれていることを、私は知っていたから。
待ち合わせは、いつもの公園。イタリアにある隼人の住まいの、すぐ近く。いつもの時間に私が行けば、時間にきっちりとしている彼は、もう既にいつものベンチへ腰掛けていた。
「隼人」
名前を呼ぶ。けれど、彼は俯いたまま、地面から私に視線を移そうとしない。
「隼人、」
二度目の呼び掛けに、隼人は深い溜め息を吐いた。何だかそれは酷く絶望的で、私の胸は不安感でざわざわと唸る。
「・・・ファーストネーム、お前、マジ有り得ねぇ」
俯いたまま吐き出された言葉に、胸がチクりと痛んだ。
「ホント・・・有り得ねぇよ」
私が小さく「ごめん」と呟くと、隼人はいきなりベンチから立ち上がり、スタスタと歩き出してしまった。私も慌てて、彼の後を追い掛ける。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
ただ無言で歩く隼人。今日は何だか、いつもより早足な気がした。
「・・・土産、持ってきたから」
「お土産?」
私がそう問い掛けるも、隼人は私を振り向きもしない。私はただ黙って、彼の後へ着いて行くことにした。
そうして歩くこと数分、辿り着いたのは見慣れた隼人の家。手慣れた様子で鍵を開ける隼人は、先にも増して無表情だ。
久々にに訪れた家の筈なのに、塵や埃は一切見当たらない。いつもならば、愚痴ぐちと文句を言い合いながら、二人で掃除をしていたのに。もしかして、待ち合わせ場所に来る前に、隼人が一人で片付けたのだろうか?一見面倒臭がりに見えて、意外とマメな彼なら、有り得るかもしれない。
ただ、どうして、今日に限って、そんなことをしたのだろう?
私は、いつも文句を言っていたけれど、隼人と二人で掃除をしている時――二人で過ごせる時間を何よりも大切にしていたのは、彼が一番良く知っている筈なのに。
ずんずんと身勝手に歩く隼人が向かったのは、特に置くものもなく、いつしか"開けずの部屋"と化していた、持て余された一室だった。
「う、わぁ・・・・・」
何の躊躇いもなく開かれたドアの向こうには、日本のアジトに訪れた時、何度か見掛けたグランドピアノ。それは、隼人が幼少の時から使っていたという思い入れの深いピアノ。
「・・・お前さ、日本に来る度、俺に"何か弾け"ってねだってたよな」
骨張った、リングだらけの隼人の指が、ピアノの鍵盤を弾く。ポーンと一つ鳴ったその音に、今まで無表情を崩さなかった隼人の顔が綻んだ。
「ははっ・・・相変わらず、高いソの音は外れたままなんだけどな」
柔らかく笑う隼人に、私の心も緩和していく。今までの不安が嘘みたいだ。
「ねぇ、また、何か弾いてよ」
ねだる私の言葉には答えず、隼人はきしりと椅子を引き、腰掛けた。ゆっくりと鍵盤に乗せた両手。左手の薬指には、厳つい他の指輪とは違い、何の効力も持たないプラチナのシンプルなリングがはめられている。それは、私の左手薬指にはめられたリングとお揃いの、私と隼人を繋ぐ"誓い"。
隼人は鍵盤に指を乗せたまま、少しだけ、躊躇う表情を見せた。私はただ黙って、そんな隼人を見つめるしかない。
――・・・ ♪ ♪♪
いつもよりぎこちなく始まった隼人の奏でる旋律は、彼が即興で作った曲の中でも、私が一番好きな曲だった。
――♪ ♪♪
徐々に滑らかに滑り出す隼人の指。私はその音色に酔いしれる。
―― ♪ ・・・
途端、隼人の指が止まった。
――ジャーン
鍵盤へなだれ込むように伏せた隼人へ、私は思わず駆け寄る。
「・・・隼人?」
しかし、彼は顔を上げようとはしなかった。よくよく見詰めると、肩幅の広い背中が震えている。
「ファーストネーム・・・・・・」
「どうした、の」
「な、んで・・・」
「何でいねぇんだよ!」
差し延べ掛けた右手が止まった。隼人の重力に押さえ付けられたままの鍵盤へ、はたりはたりと雫が落ちる。
――・・・私はもう、彼に触れることが出来ないのだ。
一ヶ月前の今日、私の命は泡になって、消えてしまった。
理由は単純明快で、"暗殺任務の失敗"。その時、一命は取り留めたものの、運ばれた先の医療室で、同僚に見守られながら私の短い生涯は尽きた。
世界一愛した人の 笑顔だけを瞼に浮かべて。
「ねぇ、隼人、私は此処にいるよ」
けれど、私は、ただの残留思念。
「お願いだから、泣かないで」
私はむせび泣く彼の背中を、抱きしめることさえできなくなった。
家族より、友人より、仲間より、何よりも大切で、誰よりも愛した人。
隼人に私の死の知らせが届いたのは、私がこの世から消えて数日経った後だった。任務中だった彼は、私の葬儀にすら参加できずに。それはそうだ、所詮私たちは恋人同士といえど、ファミリーの幹部と下っ端の一部下だったのだから。
「最期も看取れなかった」
「死に顔すら見れなかった」
「お前がいなくなったことすら知らずに、俺はのうのうと生きている」
「こんなに、」
「こんなに愛していたのに」
隼人から放たれる後悔の言葉が、一つひとつ、私のもうない胸に突き刺さる。嗚呼、こうなることを、私は恐れていたというのに。
「お願いだから、」
「お願いだから、悔やまないで」
私はね、隼人。すごくすごく、幸せだったんだよ。
貴方に出逢えて、
貴方を愛することを許されて、
きっと世界で一番、幸せな女の子だったよ。
――・・・だから、
「・・・ねぇ、弾いてよ」
「ファーストネーム・・・?」
包み込むように、隼人と私の身体が重なる。
「あの曲が、聴きたいな」
外れた高いソの音すら心地良い、君が作ったあの曲。"お前の曲だ"って、照れながら言ってくれた、優しいあの曲を。
――柔らかな旋律が鳴る。全てが溶けてしまいそうな、感覚。
いつも戦う強い手が、ピアノと私に触れる時だけ優しいこと、ずっとずっと気付いてたよ。
最期の夢を、叶えてくれてありがとう、愛しい人。
いつか命が朽ちる時、貴方のピアノで眠ることが
私の唯一の願いだった。
終戦
こんな拙い曲だけど、お前にちゃんと届いたのかな。
もしもこの指がズタズタになったとしても、
一生俺は、お前の為だけに弾きつづけるよ
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