ふれないあの子(コラソン)
「コラソン、今度はどうしたんだよ?」
「さあ、急に椅子から転げ落ちて、飲んでた味噌汁ひっかぶっちまったんだってよ」

そんな会話が聞こえてくる。
コラソンのドジは今に始まったことではないので、誰もがこの出来事を不自然には思わない。
でも、これはドジじゃない。だってよく考えたら、ただ何もないところで転ぶとか、熱いお味噌汁でただ火傷しちゃうとかとは、ちょっと違うとは思わない?

何を隠そう、”急に椅子から転げ落ちた”その原因は、私なのだ。

「ねえ、ごめんってば。怒らないでよ、今日のごはんがおいしそうだったのと、お味噌汁の具が気になって、つい」
「…」

コラソンは、自室で着替え終わり、ぶすっとした顔で煙草に火をつけた。
最近私がよく気を付けて見てあげているので、どうやら服を燃やす回数が減ったと思われる。
感謝してほしい。お味噌汁一杯くらい、チャラにしてよね。

強気にそんなことを思ってみても、身体の大きなこの男にすごまれると、やっぱりちょっと悲しいやら怖いやらで、しょんぼりと彼を見つめてみた。
するとコラソンは、はあ、と一息、煙草の煙と一緒にため息を吐き出して(思いっきり見せた)、指をパチンと鳴らした。

「そうじゃねェ」

完全なる静寂の中、彼の唐突な一言が響いた。
そうじゃねぇ?首をかしげると、彼はもう一度ため息をついた。

「俺はな、突然出てくんなって言ってんだよ」
「う、うん…だからごめんって」
「あまつさえ人のメシの乗ったトレイから飛び出てくるやつがあるか」
「う゛…」

そう。土から顔を出した新芽のように、にゅっと、彼の目の前で、食卓から生えてきた私を見て、コラソンは仰天して椅子から跳び上がったのだ。

そんな私の正体。

実体のない、幽霊。

「ごめんなさい」
「…」
「便利なのよ、この身体」
「…便利?」
「どこでもいけるから」

コラソンは口がきけないふりをしている。
でも、私とは、こうして周りから隠れて、話をしてくれる。
そして、私はコラソンにしか見えないから、お互いが唯一の、話し相手なのだ。

「あまり人目を気にして移動してなかったから、すぐすり抜けちゃうのになれちゃって。癖になっちゃったんだよね」

えへへと笑う私に、それでも彼の顔は曇ったままだ。

「本当に、どこでもいけるのか?」
「えっ」
「…」

思いもよらない問いに、これまたすぐに答えられない私自身にも、驚いた。
どこでも、いけるよ。コラソンの部屋にも、子どもたちの部屋にも。
最近来たあの帽子の男の子のことが面白くて、ふわふわと漂いながら追っかけなんてしちゃってるし―。

「…れるな」
「なに?」
「慣れるなよ、そんなもん」
「でも、もうずっとこうだもの」

気がついたら、実体のないまま、誰にも見えないまま、ずっとここにいた。
そんなある日突然、貴方に出会った。
わたしがみえるひと。わたしとはなしてくれるひと。

「メシが気になるなら、一緒に来ればいい」
「!」
「もういきなり出て来るなよ」

味噌汁がもったいねぇ。

そう言って最後の一服を吸って、煙草をもみ消すと、彼がようやく私と向き合った。
私は今ベッドの上あたりでふわん、と宙を漂っているので、彼に見上げられる形になっている。
多くの人が拝むことのかなわない、彼の頭頂部を見るのが、私は好きだ。

「じゃあ、そうするね」

一緒に来いだなんて言われたのがうれしくて、にま、と笑ってしまう。
彼は「何笑ってる」と、私の頬をつまむしぐさをする。


彼の手は、私にその体温すら伝えずに、私の身体をすり抜けてしまった。