シグナル
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『あ、おかえり』
家のドアを開けた瞬間、ふわりと美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。
「……どういう風の吹き回しだい?」
『失礼ね、レン。気が向いたから少し料理してるだけ』
彼女は腰に手を当てて、鍋を見つめている。開きそうになる口を、慌てて抑えた。
オレが言うのもなんだが、彼女は極度の面倒くさがりで、そのくせ気まぐれだ。今まで散々振り回されてきたオレだけど、今回みたいに自分に嬉しい気まぐれは初めてで、正直驚きが隠せない。
「……キミ、料理できたんだね」
『当たり前でしょ、バレンタインだってチョコあげたじゃない』
以前の誕生日を思い返す。手作り感のあるチョコクッキーと、プレゼントをもらった。その時の彼女は、ただ喜ぶオレを見て、幸せそうに笑っていたっけ。
「…………そうだね。おいしかったよ、クッキー」
『そう、よかった。もうすぐできるから、座って待ってて』
「わかったよ。……あれ?」
部屋に入ると、見慣れないマグカップが置いてあった。飲みかけの紅茶が入っているオレンジのものと、その隣に同じ柄の水色のもの。
『あ、いいマグカップ見つけたから買ってきたの。水色のがレンのね』
「キミのはこのオレンジのやつかい?」
『そう』
「……オレが水色?」
『私の中でレンは水色なの。それに、私はレンの色がよかったから』
「…………」
『よし、できた』
お皿を持ってくる彼女を見つめると、どうしたの、と首を傾げた。普段全然甘えないキミが無意識に言う言葉に、オレがいつも嬉しく思うこと、キミは気付いてないんだね。
「ううん、なんでもないよ」
『そう。今日はにくじゃがとお味噌汁作ったから』
おふくろの味を意識したかのような献立に、内心笑みを浮かべた。根は真面目な彼女だ。そういう単純なところも、オレは好きだな。
「……ありがとう。じゃあさっそくいただくよ」
『うん』
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彼女の料理はおいしくて、疲れた体に染み渡るかのようだった。本当は彼女を抱き締めて甘えたいけれど、彼女があまりくっつくのを好まないことを知っているオレは、先にシャワー浴びてきたらどうだい、と彼女に声をかけた。荷物を持ってきているようだから、きっと今日は泊まる予定なのだろう。
『……いいの?』
「ああ。今日は泊まるんだろう?」
『そのつもり。じゃあお先に』
彼女の後ろ姿を見ながら、オレは少しだけ違和感を感じた。何かあったのだろうか。でも食事中の話題はいつもと変わらなかったし、どちらかというと仕事の愚痴が多いほどだったと思う。
ふと気になって、近くにあった雑誌を手に取った。普段買っても漫画くらいの彼女なのに、どうしてこんなものを。
開くと、自分の大きな写真が目に飛び込んできてオレは思わず軽く雑誌を閉じた。そういえば、これはオレがクローズアップされた記事がでかでかと載っていたやつだ。最近のものではないのに、それを彼女が、なぜ。
『………お先しました、って、レン!?』
「え?」
オレが見ている雑誌を見るなり、彼女は慌ててそれをオレの手から引き抜いた。
「…………」
『……勝手に見ないで』
「……雑誌を買うなんて、珍しいね?」
『……そんなことないわよ』
「もしかしてオレがいるから買った、とか?」
『……古本で安かったから、買っただけ』
「でも付録ついてるよ?」
『…………』
「……なまえ?」
『……もう一度見ようと思って、奥にあったやつを引っ張り出してきただけよ』
小さく、彼女はそう言った。
いつもは真っ直ぐ向けられる視線も逸らされて、彼女はそそくさと部屋を出ようとする。
「……なまえ」
ぴく、と肩が震えて、彼女の足が止まった。ゆっくり近付いてそっと抱きしめると、雑誌の落ちる音がする。
違和感の正体は、単純なことだったんだ。
『……レ、ン』
「キミは本当に、甘えるのが究極に下手だね」
『…………』
「……いくら言葉で言えないからって、これでわかってもらおうなんて」
『……そんなことは思ってないわ』
「そうだね。だからきっとオレにしか、わからないよ」
――もちろん、他人にわからせるつもりもないけどね。
最後の一言は飲み込んで、髪を撫でようと腕の力を緩めると、彼女がくるりとこちらに体を向けた。
『……ごめんなさい』
「え?」
『…………素直じゃ、なくて』
下を向いたままだった彼女が、ちらりとだけオレを見て、また視線を戻した。
素でこんなことをやっているんだとしたら、何てたちが悪い。
「……キミのせいだからね、なまえ」
『え?』
本当は、寂しくて仕方なかったんだろう?
意地悪く耳元でそう言ってやると、彼女はわかりやすく顔を真っ赤に染めた。
本当に、キミには勝てないよ。
シグナル
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わかりにくい、けれどオレにしかわからない、甘えるときのサイン。
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