冷たい石
[ 1/1 ]
「うし。大体こんなところか……おいなまえ、お前この書類まとめとけ」
『ん、わかった』
なまえさんが、ランちゃんの言う通り書類を手に取り、眼鏡をかけた。一枚一枚紙をめくる細い指が、眼鏡から覗く鋭い視線が、いちいち綺麗で目が離せない。
「…………おいレン、聞いてるのか」
「……え、ああ。聞いてるよ、ランちゃん」
「……真斗、てめぇはこの照明が逸れたらすぐ移動。その後の動きはあの紙に書いてあるから、しっかり読んどけ」
くい、と顎で彼女の方を差す。聞こえていないかのように、なまえさんは持っているペンで手元の紙にすらすらと字を残していく。
「わかりました、黒崎さん。……しかし申し訳ありません、いくら人手が足りないとはいえ、わざわざなまえさんまで手伝いに……」
「気にするな、真斗。どうせあいつは今日も暇だ」
『……聞き捨てならないわね、蘭丸。今日がたまたま、時間あっただけよ。……はい、これ真斗くんのね。それと、これ』
青のペンで書き込まれた紙が、オレの目の前に現れる。
『はい、レンくんの』
「ありがとう」
『レンくんの動きは少しややこしいから、見づらくならないように気を付けたんだけど……わからないところ、あるかな』
眼鏡を外して、彼女は首を傾げた。耳にかけていた髪が、はらはらと落ちる。
「……これは、オレがランちゃんの後ろに動く、っていう意味だよね?」
『そう。このとき真斗くんも動いてるから』
すす、と聖川の動きに沿って動く彼女の指に、オレは指を絡ませた。
「ここでぶつからないように注意、だね?」
『ふふ、そう。照明当たってないから、服も踏まないようにね』
楽しそうに笑う彼女の先に、険しい顔をしているランちゃんが見える。絡めた指をそのままランちゃんに見えないところまで移動させたところで、彼女の指はあっさりとオレから離れた。
『さて、じゃあ私は帰るから。あとはみんな、本番頑張ってね』
「はい、ありがとうございました」
「……わざわざありがとう、なまえさん」
『いいえ』
「…………お前、ライブ見ていかないのか」
『残念だけど今日は行けないわ。さっき電話があって、ちょっと頼まれちゃったことがあるの。私がいないからって手抜かないようにね、蘭丸』
「……なめんじゃねぇよ。最高のライブにしてやるぜ」
にやりと笑ったランちゃんに、なまえさんが優しく微笑み返した。それを見てランちゃんがわずかにたじろぐ。
『じゃあね』
彼女の足音が聞こえなくなるまで、オレはドアから目を離せなかった。彼女の揺れる髪やわずかに香った香水が、まだオレの中に残ってる。歩き出した聖川がオレとドアの間を横切って、視界が一瞬遮られた。
「黒崎先輩、衣装の確認ですが……」
「……あぁ」
もう彼女の面影が残っていないドアに、オレはもう一度目を向けた。何をしてたって、頭に浮かんでくるんだ。優しい手つきの細い指先が、集中するときに見せる伏せた瞳が、ランちゃんに向ける彼女の笑顔が。
「…………レン、お前もそのひらひらした裾だけ、注意しとけ」
「……うん。なまえさんが、言ってたもんね」
「そういえばそうだったな」
「…………お前のために踊るから見ていけって、言えばよかったのにね、ランちゃん」
「なっ……」
「なんてね。今日のライブ、頑張ろうね」
後ろからかかる声にわざと聞こえてないふりをして、オレは控え室を出た。
たまに二人の間で交わされる視線に、違和感があった。ランちゃんが彼女にかける言葉に、差を感じていた。彼女がランちゃんの前だけで見せる表情に、オレは気付いていた。気付いていたのに、彼女に関しての記憶だけがこんなに鮮やかで、目に、耳に、こびりついて離れてくれない。
「…………あ」
歩いていると、大きな歓声が耳に入ってきた。そろそろ、オレたちの出番も近い。オレのことが好きな子たちはあんなにいるのに、一番好かれたい人には別に特別な人がいて。よく聞く言葉だけど、まさか自分にそれが当てはまる時が来るなんて、ね。
尊敬する先輩の不器用な優しさも、好きな人の幸せそうな笑顔も、いい子を演じる自分の皮も、全て壊せたなら、何か変わったのだろうか。結局そんなことをする勇気さえなく、想いだけが増していくばかりで止められもしない。いい加減、見ないふりをすることにも疲れた。どうしたって彼女の姿が離れなくて、目を瞑ったって、消えないんだ。
『……あれ、レンくん?』
いつの間にか、不思議そうに彼女がオレを見ていた。間違えて持ってきちゃったの、と控え室のペンを持つ彼女の手が、オレの手に軽く、触れた。
必死で大切に守ってきたものが、崩れる音がした。
冷たい石
-----------------------
prev / next