[その唇に](8937)





その唇に噛み付くと、苦い味がした。どうも自分の唇が切れているらしいと柳生は思った。
身体を離すと名残惜しそうに細められた目が見えた。名残惜しい、と思っているのは自分だけかも知れないと心の中で誰かが囁く。

「―――柳生。」

真田の武骨な指が眼鏡に触れる。そのまま何もせずにいると、まるで壊れ物を扱うように静かな仕草で薄いレンズのそれを外された。
動作に合わせるように目を閉じ、開く。目の前の恋人に焦点が適するまで、暫しの時間がかかった。

「真田君は、」
「何だ?」
「何故毎度私の眼鏡を外されるのですか?」

ベッドサイドのテーブルに眼鏡を置いた真田が横目で柳生を見る。さぁな、と短く答えると、壁に背をもたらせる。

「眼鏡が割れたら困るだろう?」
「歪みはしますが、そう簡単には壊れませんよ。」

柳生の指が真田の頬を包む。真田は目を閉じてしばらくしてから、柳生の手をそのまま上から覆い、半分だけ瞼を開ける。
それが合図だったように柳生が身体を近付ける。真田が立てた左脚の下に右膝を滑り込ませ、右の太股を左足で跨ぐ。身をもう少しだけ前に乗り出すと、ボタンダウンシャツの襟元に唇が触れた。
柳生が真田の胸に耳を寄せる。静かながらも力強い拍動が筋肉の奥底で脈打っている。左腕を背中側へ回し、少し高い体温に身を任せると柳生は目を閉じた。

厚手のカーテンを引いた隙間から射し込む光が部屋を2つに分ける。壁に背を預け、懐に柳生の頭を収めた真田はその光景を見つめていた。
穏やかな昼の日差しが四角に切り取られ、細長く横たわっている。淡い彩りが、磨き上げられた白いテーブルの上に置いてあるノートのページに掛かっている。
目を移せば、色の薄い柳生の髪にも、そことない反射があった。空いた右手を寄せると、艶と張りのある感触が伝わる。その感覚に真田は何かしらの心地よさを覚える。

何を話す訳でも無く、何をする訳でも無い。ただ無言の時を過ごすだけの休日。
クラスメイトとして、同じ委員と委員長として、チームメイトとして。普段から接する時間は長いものの、こうして触れ合うことは皆無だった。それだけに柳生はこの時間を待ち遠しく、そして愛おしく想っていた。
触れたくても触れられない硝子細工の様な存在。ずっと見つめているのも悪くは無いが、時折触れて、その温度を感じたい。
まぁ、と自嘲する。そんなことを考え、求めているのは自分だけだろう。応えてくれる真田の優しさに私は甘んじているのだと。うっすらと瞼を上げ、柳生は思った。

練習も無い休日の昼に柳生に逢う。稀にしか訪れないこの時を真田は楽しみにしていた。
同じクラス、同じ委員会、同じ部活でありながら、平時は顔を見合わせて話すことさえほとんど無い。普通であれば、付き合っているどころか仲が良いのかすら把握出来ない組み合わせだろう。実際、親友の柳でさえ自分達の仲を正確に表現出来るかと言われれば、真田は疑問符を付けざるを得なかった。
依存、に近いのかも知れない。柳生の気配が無いとどこか落ち着かない気分になることを思い出し、つい笑ってしまう。
流石に自惚れている。心のどこかでずっと一緒に居られると考えている自分をそう戒め、光を反射させる髪を撫でた。
爽やかなシャンプーの匂いに混ざる甘い香り。薄く日焼けした細く綺麗な指先。そして、厚みは無いまでも形の整った唇。その唇が自分のそれに触れ合う度、自分は柳生のことを心底好きなのだと認識させられる。

「……お前の眼鏡を外すのは、」

しばらくして、真田が口を開く。沈黙に寄り添うかの如く呟かれた声は、柳生の顔を上げさせた。
髪の色と同じ薄茶色の瞳は、仄暗い部屋の中でも淡く煌めく。まるで光の様だと真田は思い、眩しく感じた。

「お前の目が好きだからだ。」

視線を外に向けられたまま、柳生は真田がそう言うのを見つめていた。気付いているのかどうかは知らないが、耳は赤く、口元は緩んでいる。
自己満足だと分かっている。しかしそれでもと柳生は身体を上へ動かした。

「…私は、」

ずっと頬に当てていた右手の力を抜き、首筋に下ろす。睫毛が髪の毛と重なりそうになるまで顔を近付けると、真っ赤になった耳元で囁く。

「貴方の総てを好いております。」

背筋に痺れが走り、無意識の内に体が跳ねた。
普段聞き慣れない澄んだ低音に全身が反応し、頭が酩酊したかのように熱を持つ。その事実を隠さんと眉間に皺を寄せ、真田は視線を戻した。
すると優しく細められた切れ長の眼に見つめ返された。これ以上は上がらないと思っていた顔の熱が更に上がり、目が離せなくなる。


例え自意識過剰でもいい、と柳生は考える。
例え思い上がりでもいい、と真田は考えた。
今この時は自分の方がより相手を好きだといえる。2人は口に出さず、そう信じ合っていた。



[Fin.]


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