[宵焦がれし春霞](ユキアカ)





放課後の図書室。
授業で使用する事典や辞書など最低限の蔵書しか置かれていないこともあり、人気は少ない。
実情は国語の準備室に近いその高校棟の図書室は、そもそも部屋自体の大きさも通常の教室の半分ほどしかない。更に背の高い本棚に阻まれ、一日に一度も陽を浴びない本があるほどで、部屋の中には常に湿った匂いが漂っていた。
言うなれば、古びた本の香りに満ちた小さな部屋。他の学校に比べて広大な敷地を誇る立海大附属中学校の中でも、幸村はささやかなこの場所を好んでいた。

2月。入院で遅れていた分の追試験を終えた幸村は久々に図書室へやって来ていた。
肌寒い土曜日とあって、時折窓枠が風に身を震わせる以外に音は無い。恐らく自分以外の生徒は居ないであろう学舎はしんと静まり返っており、つい昨日の騒々しさが懐かしく感じられた。
いつも通り幸村は窓側の机に学校指定の革鞄を乗せ、ゴム足の椅子に座る。読みかけの詩集を取り出しながら、幸村はふと窓の外を見た。
春ながら陽の色が薄い曇り空。暗くもなく、しかし明るいとも特段にいえない景色はひどくぼやけており、曖昧だった。
もうすぐ春の嵐が来るのだろう。枝折れを起こす前に裏庭の剪定を済まそうと明日の予定を立てつつ、幸村はゆっくり視線を下ろす。
遠い街並みの次に立海大の敷地内を取り囲む小さな林があり、それを遮るフェンスの隣にはテニスコートがあった。
テスト期間中ということもあり、誰も居ないその場所は普段より小さく見えた。いや、現に自分が想像しているよりかは遥かに小さい世界なんだろうと他人事のように幸村は考えた。
小さく溜息をつく。それから気を取り直して詩集を手に取り、栞の部分で本を開いた。



空が銀色に煌めいている。
その眩しさに手で庇を作りながら思わず見上げると、白く柔らかい腹部が見えた。
魚だ。鰯や飛び魚ぐらいの大きさの魚が、青空一杯に広がって泳いでいる。
春の陽を受けた鱗は七色に輝き、ゆらゆらと流れていく。抜けるような青空に列をなして、何処までも続いている。
綺麗だ。綺麗な光景だ。ずっと上を向いて見惚れていると、その内に何かが視界の端に写った。
魚が流れる空から視線を右下に移す。伸びやかな陽射しを浴びて、薔薇の蔓が赤褐色の土の上を這っていた。
赤也が居る。土の上の蔓の中に、まるで閉じ込められたかのように横たわっている。
赤也はうつ伏せのまま動かない。目を閉じて身動き一つしない。薔薇の蔓は赤也の身体を雁字搦めにしている。
赤也。声を掛けてみても、動かない。赤也、赤也。何度も何度も呼び掛ける。
空には無数の魚。花の無い薔薇の蔓は赤也を絡めて、赤也は目を覚まさない。
あぁ耳鳴りがする。じりじりと、一定のリズムで、虻か蜂の羽音で。



ふっと景色が薄藍色に染まる。目が覚めてはじめて、幸村は自分が眠っていたことに気付いた。
重ねた手の下には読みかけの詩集。思ったより頭を使っていたみたいだと背筋を伸ばしつつ思う。そして目が覚める原因となったものに気付いた。
携帯電話のバイブレーション。幸村は詩集に再度栞を挟み、鞄に戻すついでに白色のそれを取り出す。
今日は追試の後、適当に街を巡る予定だと伝えていることを考えるとまず親からではない。青色のライトが点滅しているフリップを開くと、一瞬画面の光に目が眩んだ。
15:32。辺りが時間以上に暗いのは雲のせいかと頭の端で考えながら、新着メールを開く。

「―――もしもし。」

メールの差出人を見ると同時に幸村はその画面を待受状態へ戻し、電話帳からその名前を引き出す。
登録した名前が画面上に流れ、呼び出し音が1回鳴り切る前に電話が繋がる。耳に当てたスピーカー越しに『え?』と困惑した声が聞こえ、少し間が空く。

『も、もしもし?』
「赤也? 俺だけど。」
何か用?と話しつつ、幸村は手提げ鞄のベルトを閉じ心持ち手早い動作で立ち上がる。なるべく音を立てないように椅子を机の下に戻し、狭い通路を抜ける。
出口で幸村は藍色の図書室を振り返った。あぁそういえばそうだったなと今更ながらに気付いた事実に口元を緩ませながら、そっと引き戸を締める。
『いや別に用とかは無いんすけど』
「用が無いのにメールしてきたのかい?」
『…すんません。』
「何で謝るの?」
『え、だって今怒って』
「嬉しいんだけど、何でかなって思って。」
図書室と同じ色をした廊下を歩く。床と靴底が擦れ合う度に高い音が、空になった学舎に繰り返し反響している。
『…だから用無いって言ってるじゃないっスか。』
「用が無い、ねぇ。」
電話越しにでも分かるほどふてくされた赤也の声に若干笑いつつ、階段を降りる。
校内での携帯電話の使用は禁止だが、そもそも今日この場に居る人数は片手で足りるほどであるし、教師よりも厳格な風紀委員長が居ないのだから、あまり声が響かなければ気付かれないだろう。生徒用玄関に脱いだまま置いていた革靴を指先に引っ掛けた幸村はそんなことを考えながら、唯一の出入口である1号館1階端に足を向ける。
『じゃあさ、俺が用事作ってあげるよ。』
「は?」
『今から逢おうよ。』
「……は?」
一度目は『何言ってんだこの人』、二度目も同じだけど内容が違うかな。教職員用出口の前で靴を履き替えつつ、電話を右耳から左耳に当て直した。
『え、今どこに居るんすか?』
「学校。」
『そっからオレんちまで』
「バスで15分、電車と徒歩で25分、今日俺自転車で来てるから30分で着くよ。」
『いやそういう話じゃ、って自転車?』
「俺だって自転車ぐらい乗るよ。」
『いやだからそういう話じゃなくて』
自分の発言に尚も翻弄されている赤也に対し、幸村は電話のマイクに向かってふふふと口を開かずに笑う。
例え普段が真面目な元部長であったとしてもわざわざ春休み期間中まで校則を守ろうとは思わない。そこまで真面目じゃないよと心の中だけで正答を返しつつ、会話のリズム感だけで何も考えてない返答を続ける。
『部長チャリ通じゃないっしょ。』
「部長は君だねぇ。」
『…先輩、は自転車で学校来ないでしょ。』
「そうだね無許可だね。」
『いいんすかそれ。』
「バレなきゃいいんじゃない? 俺部長じゃないし。」
そうなんすかと妙なところで腑に落ちたような回答に、幸村は自分の言いたかった文脈が伝わっていなかったことを把握する。わざわざ言い直すことも無いし、その辺りは真田が言うだろうと考えたところで、幸村は自分の短所を自覚した。

「…部長はみんなの規範にならなくちゃいけないからね。
 見てないからって悪いこととかサボったりしちゃダメなんだよ。」

結局、言い直した。
言いたいことも言いにくいことも、きちんと口にしなければ何も変わらない。自分がそれを望んでいたとしても、『それ』ではダメなんだと教えてくれた相手に、今更自分の弱さを見せる訳にはいかない。
そこまで知らないとは思うけどと分かりきっている事実はさておき、外廊下を渡って自転車置き場に来た幸村は鍵を開け、鞄を前カゴに入れた。
『あー…やっぱ部長ってメンドいっすね。』
「分かってくれて何よりだよ。」
間違い無く意思の疎通が出来たと実感したところで、携帯電話を耳から離し、時間を確認する。
15:37。1、2時間ぐらいは話せるかなと概算した幸村は少し逸る気持ちを押さえながら、自転車のスタンドを跳ね上げる。
「じゃあそっちに4時頃着くから。」
『えっ、ってさっきの話マジなんすか!? オレ今日外出る気なかったからマジ着替えてな』
「君の部屋に上がっていいならそのままでいいんじゃない?」
『…着替えます外出ます。』
「うん。ならそれでよろしく。」
じゃあまた後ねと言った後の、電話を掛けた時のようにつまずきそうな答えを聞いた幸村は、満足げに終話ボタンを押し携帯電話を制服の胸ポケットに戻す。
30分って言ったけど20分ぐらいで着きそうかな。赤也の家までの最短ルートを頭の中で描きながら、ペダルを半回転させ足裏を乗せる。
そして空を見上げる。はっきりとしない薄灰色の空が現実の時間に合うまではまだ少し余裕があるように見えて、幸村は少しだけ微笑んだ。



[End.]


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