[聖なる夜は奇跡あればこそ](89→37)





人がようやく擦れ違えるような狭い階段を降りると、もうすっかり夜になっていた。
夕日と同じ色をした街灯が舗道やビルを照らし出しているものの、まるで街を飲み込んばかりに影は濃く、そして継ぎ目無く空へと繋がっていた。
竦めていた首を上げ、わざと熱の籠った息を吐く。塾の蛍光灯を反射し、しろじろと浮かんだ吐息の向こうには青いイルミネーションが穏やかに点滅していた。
12月25日、クリスマス。数時間前に通った街角に流れ続けていた賑やかな声達は、勉強に集中している間に足取り軽く何処かへと行ってしまった。
この世界の、自分ではない他の誰かが楽しげにしている様を想像して、今度は短く息を吐く。誰であれ、今自分が考えているよりももっと多い人々が幸せであることを思えば、それはそれで幸せなことなのだろうと柳生はマフラーの中で微笑む。
今自分が見上げている空の下では、色々な人が様々な幸せを噛み締めている。友人と語り合ったり、子供たちと笑い合ったり。人によっては、恋人との優しい一時を過ごしているのだろう。
最後の意味では確かに少し残念かも知れないと考えつつも、柳生は同じく階段を降りてきた塾のクラスメイトと別れの挨拶を交わし、一人帰り道を歩き始める。
後2時間と少しで明日を迎える街は、昼間とはまるで違う世界に見えた。行き交う人も車も少なく、ただ自分が歩くことだけを考えられる空間。暖房が効いた部屋ですっかりのぼせあがってしまった脳ですら、冬独特の切り詰めるような寒さの中を歩き続けていると普段よりも冴えていくようだった。
横断歩道の赤信号で立ち止まり、脇に立つビルの隙間から空を臨む。当然のことながら何も見えない。もう何度目とも知れないこの行為に自分自身で少し笑ってしまいながら、柳生は目を伏せ地面の白線を見つめる。
目の前の道には車どころか、バイクも自転車も何も通らない。これから自分が帰る先が最寄り駅から大分離れた住宅地なこともあってか、周りには人影すらない。
ただ濃い橙色の光と点灯したままの赤色がいつもよりも深く広がった黒に反射している。駅の方角から聞こえる遠くのざわめきは、湿度の低い空気の中で平坦に、そして不快ではない程度の音量で囁きかけてくる。
決して無ではない、しかし明確に何かがある訳ではない。そんな不思議な体感に居心地の良さを感じた柳生は目を閉じ、深呼吸を数度繰り返した。
思いきり吸い込んだ息は身体中の熱を沈めさせ、吐いた息は暫しの間学校指定のマフラーと襟を立てたコートの首元を暖める。それからゆっくり瞼を開けると、引き続き地面に反射する赤色が見えた。
信号はまだ青にはならない。いつ変わるだろうかとぼんやりと柳生が考えていると何台かの車が通り過ぎ、ようやく信号はその役目を果たした。
最後の車のテールランプが目の端から消えたのと同時に、横断歩道の信号が青になる。再び柳生は歩くことに意識を集中させ、白線の向こう側へと進んでいく。
重いオレンジ色の光は途切れることなく進む道を照らし出している。その色合いと道先に安堵の念を抱きつつ、普段よりも若干遅い足取りで柳生は再度帰路を進んでいく。
夜の街は確かに寂しい。しかしその寂しさは、自分にとって何が大事なのかを再認識できる、貴重な時間だった。まぁいつもは、と柳生は普段の騒々しい面々を思い出すと、つい小さく噴き出してしまった。
騙されやすい後輩を騙しにかかる親友、それを諌める同級生とまるで興味の無い元クラスメイト。その光景を内心楽しんでいるNo.3に声をあげて笑っている部長。そして最後に現れた『彼』が怒鳴る。
『お前ら―――』。生真面目で自己研鑽の鬼である彼は、いつ何時とも気を緩ませない。揺るぎようの無い強い芯がそこにあるからこそ、『あの』チームはより自由に輝けたのだ。
芥子色のジャージを翻し、黒い帽子の庇に圧倒的な熱を噴き出す双眸を宿らせて。剛胆に、そして鮮明に、彼は存在する。柳生はふと立ち止まり、夏の太陽の陽射しを受け止める背中を道の先に見た。

「……! ……柳生!」

突然、後ろから名前を呼ぶ声がした。反射的に立ち止まってしまった柳生は驚きのまま振り返り、恐らく声の主であろう人物がこちらへ走り寄る様を目にする。
遠目でも分かる均整のとれたストライド。淡々と漂う空気を切り裂くようにして現れ出るその姿は正に夢と見紛う程に現実味が無く、先ほどの幻の続きかと思わず柳生は我が目を疑った。
自分を呼び止めた相手は数メートル手前で走る速度を落とし、肩で息をしながら立ち止まる。柳生。間違いなく動いたその唇を見て、柳生は自分の拍動が徐々に早まり始めていることを自覚する。
肩口から濃橙に染まった白いセーターは足元に向けて影の黒へと色の階調を変え、さっきまでの明確な陽射しの中とはまるで違う『彼』が自分と向き合っていた。

「―――真田君?」

驚きを隠せない柳生がその名前を呼ぶと、真田は呼吸を整えるため一度長く息を吐き、改めて真っ直ぐ向き直る。

「帰りか?」
「え……え、えぇ。」
「そうか、遅くまで大変だな。」
状況に頭がついていかない。間を置くためわざとらしく柳生はコートのポケットから懐中時計を取り出してみせる。
21時33分。寝坊が多い後輩にですら『寝る時間が早過ぎる』と言われる彼の生活リズムでは考えられない時間帯に、今こうして向き合っている。偶然にしては出来すぎていると思えたところでようやく柳生は普段の冷静さを取り戻したことを把握した。
表情をいつものものに作り替え、若干穏やかな声色で真田に返答しようとする。しかし冷たい風に晒されていた身体は思うように動かず、些か声帯が強張ったノイズが混じってしまった。
「いえ…」
しまったと柳生は慌てて2度咳をして喉に絡んだ乾きを誤魔化す。真田は気付いていないらしく、柳生の返答を待たないまま右手に持っていた何かを差し出してきた。
「クリスマスなどというイベント事に惑わされず、己の道を進む姿は俺も見習わなければならんな。」
柳生は真田から見た目よりかは重みがある小さな紙袋を受け取り、袋の口を広げて中身を伺い見る。暗がりではよく見えないが、恐らくプレゼントらしきものが2つほど包装されているのが見えた。
透明なプラスチックの袋に入っているのはケーキだろうか? 若干色が薄いのと、箱ではなく袋に入っているのを見ると、少なくともクリームをデコレーションしたケーキではないだろう。
だとするとこの袋の重みはと柳生は隣の白い包装紙に視線を移す。手提げの無い小さな紙袋の裏側に貼られたチャイム型のシールで辛うじてここ最近購入された品とは予測できるが、内容物までは皆目見当がつかない。
現状ですら経緯が見えてこないのに。柳生は無意識の内に少しだけ眉間に皺を寄せて袋から顔を起こす。満足気に腕を組んでいた真田はその顔でようやく気が付いたらしく、多少気まずそうな表情で説明を始めた。
「今日は幸村の家で旧レギュラーが揃ってクリスマス会をやっていたのは知っているだろう?」
「えぇ、仁王君に誘われましたので存じ上げてはおります。」
「そのケーキはお前のために取り分けたものだ。」
作ったのは丸井だから味については心配するな。柳生が尋ねたいことより斜め上の回答をした真田は、まだ口を広げたままの紙袋を覗き込むため一歩柳生に近寄った。意識をしていないその行動に柳生はつい呼吸が止まりそうになる。
それからこれが、と真田は紙袋の中を指差しながら何事かを言っていたが、自らの強い鼓動で聞こえない柳生の反応は遅れる。その間を不思議に思ったであろう真田が上目遣いで自分を見かけたことで、ようやく柳生は『視線を逸らす』という選択肢を思い付いた。
慌てて真田から視線を逸らし、動揺を悟られないようにゆっくりと袋の口を閉じる。それから気付かれない程度に視線を戻すと、真田は少し首を傾げていたがどうにかこの場を乗り切れたことが分かった。
『プレゼント』。ようやく真田の発言を頭が認識した柳生は、真田が更なる言葉を続ける前に先んじて頭を下げる。ありがとうございます。震えそうになる一音目をどうにかして捕まえ、声のコントロールを再び意識しようとしたところで、その言葉を耳にしてしまった。



そこから先の記憶はしばらく曖昧だった。
何度も繰り返して礼を言ってしまい、流石に困った真田が短く別れの挨拶を告げて来た方向へ走り去るのを見届けた後、何分か経ってから歩き出したのは覚えている。しかし実際に自分が何を言って、真田が何を言ったのかをまるで思い出せなかった。
頭の回路が焼き切れんばかりに熱を持っている。衝撃と興奮で自分が何を考えたいかすら分からない。足が覚えていたお陰で無事に帰宅は出来たものの、靴を脱ぐべく玄関先で座り込んだところでまた動けなくなってしまった。
普段と同じようにリビングから出てきた母親を見て何とか平常心を取り戻したものの、未だに思考はばらけたまま纏まる様子を見せない。しかしそれでもいつも通りの笑みを浮かべて『只今帰りました』と言えてしまう辺り、親友の言う通りあまり自分は良い性格ではないのだろうなと柳生は心の中で自省した。
キッチンに空になった弁当箱を出し、不自然にならない程度に父親と2、3言話してから脱衣所に入る。白いペンキで塗られた扉を閉めて背を向けたところで、柳生は膝の力が抜け、そのまま座り込んでしまった。
立てた両膝に組んだ両腕を乗せ、丁度体育座りの姿勢で深々と溜息をつく。初めは額が手の甲に当てられていたものの、気が付くと旋毛の辺りまで頭が下がってしまっていた。ここまで来ると『頭を抱えている』と表現した方が良いのかも知れないとまるで他人事のように考えながら、柳生はよろよろと立ち上がり一先ず着ていたセーターを脱ぐ。
恐らく、と着ているものを半分ほど脱いだところで柳生は考えた。恐らく彼は、本当に純粋な『友情』で以ってあのような発言をしたのであろう。
だからこそ始末に終えない。勿論彼ではなく私が始末に終えないのですが、と脱いで畳んだ服の上に外した眼鏡を置いて浴室のドアを開ける。
素っ気ない薄茶色の紙袋は塾用の鞄に納めたままになっている。もし彼が言っていたことが本当なら、と思ったところでその前提条件が間違っていることに柳生は自分でも少し笑ってしまった。
彼は本当のことしか言わない。全て本当だからこそ、私はここまで周章狼狽している。情けないですね、と普段通り中指で眼鏡を押し上げて表情を隠そうとしたところで何も身に付けていないことに気付いた。

はははははははは。色々なことが積み重なりすぎた柳生はとうとう声を上げて笑い始めてしまう。外に居る両親には僅かに聞こえているかも知れないが、思い出し笑いということにしておこう。急激な上機嫌のまま浴室のドアを閉めた柳生はシャワーのノブを回し、頭から熱湯を被る。
もう認めてしまおう。純粋に嬉しかったと、幸せなクリスマスだったと。
些か出来すぎとは思いますがねと、茶色の髪を濡らしながら柳生は真田の言葉を思い起こし再度笑う。顔に下っていく水滴を両手で拭い、その流れで前髪を掻き上げる。仰ぎ見た天井照明は街灯と同じ色をしていたが、いつもより格段に美しく見えた。



[Fin.]


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