[シャクナゲの花咲く頃](37→89)





未だ眠たげな白い朝日が街に降り注ぐ中、黒い帽子を被った真田は学校へ向かう。
板塀が並ぶ路地裏を抜けると、目の前に海が広がる。疎らな人影に合わせてか細波の音も何処か遠く聴こえ、透き通った空気だけがすぐ横を流れていく。
普段と何も変わらない登校風景、違うとすれば。右手に持ったそれに真田は目を遣る。
花を巻いた新聞紙。多く咲いたからと持たされたのはいいが、正直手に余している部分があった。
教室の花瓶をはじめ、学校中の花は園芸委員が管理している。つい2日前に大規模な入れ替えを行っている幸村を見かけたばかりの真田にとって、今手にしている花の行き場は何処にもないように感じられていた。
しかも、と真田は右腕を上げ、開いた花束の口から中を覗き込む。
白いシャクナゲ。同じ色の百合に比べれば問題ないとは思うものの、その薄く大柄な花弁や穏やかな白色から漂う灰暗さに真田は不祥な感覚を抱いていた。
単なるイメージの問題であることは真田自身理解している。しかし今の現状に白いシャクナゲの花は望ましくないように感じていた。
幸村が倒れてから数ヵ月。現在は小康状態を保っているが、成長期であることが災いして病の進行が多少早いらしい。
杞憂とは自覚しているものの、やはり今の幸村の周りに縁起の悪そうなものは置いておきたくない。だとすると部室にも置けない。どうしたものか。
一度風が大きく吹く。真田はよれた帽子の庇を戻しながら、花先を再び地面に向けた。


「おはようございます、真田君。」

海から離れた交差点に差し掛かったところだった。その声が聞こえた瞬間、真田の視界が急激に鮮やかになる。
まるで薄い雲に隠れていた太陽が身を現したかの様に、初夏の新緑は萌え、小鳥達は息を吹き返す。隣を行き交う車すら輝きに満ち溢れている様を目の端に映しながら、高鳴る鼓動を悟られないよう静かに真田は振り返る。
薄灰がかった朝日が淡黄へ色を変え、声の主を煌々と照らし出す。金に近い飴色の髪は揺れる度に光を受けて艶めき、柔らかな影は端整な輪郭をより緻密に彩る。その秀麗さに思わず口元が緩みそうになった真田は帽子の庇に手を当て、わざと視線を逸らす。
「おはよう。」
「本日も御一緒してよろしいでしょうか?」
「無論だ。」
真田の承諾を得た柳生は横に並んで歩みを揃える。その際に鼻先を流れた柑橘系の香りに内心落ち着かない気分になりながらも、真田は花束を左手に移し、引き続き前を見て足を振り出す。
「今日は数学の小テストですね。」
「そうだったな。」
「小森先生だと最後の問題が結構考えさせられるんですよね。」
「あぁ。だがあの応用問題を押さえておけば期末テストはそう難しいものではないからな。」
「そうですね。」
真田がなるべく自然に見えるように視線を送ると、柳生は優しい微笑みを返す。その日常的な感覚に真田の指先は無意識の内に痺れていた。
何処までも澄んでいて、それでいて陽だまりのような暖かい雰囲気。今まで自分が接してきたどんな相手とも違う空気を纏う柳生に、真田は好意を抱いていた。
柳生を視界に捉えた途端、世界は急激に広がり、名前を呼ばれるだけで身体中の血がざわめく。心は躍りながらも神経は安らぐといったよく分からない反応も、柳生を好きだと自覚した今となってはとても愛おしく思える感覚だった。
今回はどんな問題が出るのでしょうね。そんな小さな呟きですら、柳生の口を通ると真田にとっては心地よい子守唄の様に聞こえ、つい目を細めて次の言葉を待ってしまう。
「前回は二次方程式を使って食塩水の濃度を求めるものでしたね。」
「そうだな。」
「となると今回は空間図形ですから…証明は確実として、面積を求めるようになるのでしょうか。」
「あぁ…それはありそうだな。」
「そうなると中々手強いですね……期末前にはまた最後の問題のおさらいをしましょうか。」
「あぁ、助かる。お前の教え方は蓮二の御墨付きだからな。」
「いえ。仁王君にはよく切原君に教えられるレベルにはなっていないと言われますし、まだまだですよ。」

仁王君。柳生の流れるようなリードテノールから発せられたその言葉に、真田の眉がぴくりと動く。

眉間に走った不快な刺激を忘れようと真田は一旦柳生から視線を外し、キャップの庇を下げる。慣れてしまった感情の隠し方ながらも、念の為横目で柳生の表情を窺う。
変化は無い。それを確認した真田は安堵の息を一つ吐き出した。
「次の期末こそお前に面倒を掛けないよう、赤也は俺が見る。」
「…切原君もやれば出来るとは思うのですがねぇ……。」
「あいつはやらないから問題なのだろう。」
「それもそうですね。」
ふと、歩く先を見ていた柳生が真田に振り返る。内心に生じた負の感覚に気付かれたかと真田は反射的に身を硬くしたが、どうもそういうことでは無さそうだった。
それは、と柳生は指を差す。視線と指先を辿り、その先にあった左手を真田は上げてみせた。
「これか?」
「お花ですか?」
「あぁ。シャクナゲだ。」
真田は花束の先を柳生に差し出した。うわぁと感嘆の息を漏らす柳生を見て、真田は不快な感覚を抱いていた先程までの自分を恥じる。

真田が知っている限り、柳生比呂士という人間は清廉潔白且つ純然たる精神の持ち主だった。
誰に対しても公正であり、先入観を持つことなく相手と接することが出来る。己の中の正しさを前面に出してしまい他人と衝突することの多い真田にとって、そんな柳生の心慮は自省する部分であり、尊敬する箇所の1つだった。
それだけに真田は自分の想いを表に出すまいと堅く心に決めていた。柳生が誰かの名前を呼ぶだけで濁った炎が胃の底でのたうち回る自分自身が居ることを、どうしても知られたくなかった。

これは、と柳生の声が真田を思考から引き戻す。はっと我に返った真田は少し急いた気持ちのまま右へ振り向く。
「これは如何されたのですか?」
「あぁ、今朝母と義姉に持たされてな。ちょうど今盛りらしい。」
そこまで話したところで、不意に真田は閃いた。
新聞紙で外身を巻いたシャクナゲを右手に持ち直し、今度は全体を柳生に向けて差し立てる。花ではなく新聞の文字が見えた柳生は不思議そうに首を傾げた。
「あの」
「もし良ければ、お前が貰ってくれないか。」
この間園芸委員会が入れ替えを行っていたから、このまま学校に持っていっても仕方がない。だから、と柄にもなく言い訳を後付ける自分を情けないと思いつつ、真田は帽子を被り直すことで紅潮する頬を隠した。
柳生は突然の申し出に少し戸惑った様子で耳の裏をさすっている。それからそろそろと尋ねる。

「…であれば部室に置くというのは如何でしょうか? 花があればあの部室でも多少は穏やかになるのではないのでしょうか。」
予測していた範囲の返答に当然だろうなと真田は反射的に思った。と同時に予想以上に気落ちした自分に気付き、慌てて気を取り直す。
「そ、そうだな。やはり部室に―――」
「あ。いえ、やはり頂きます。」
え、と視線を外していた真田が振り向く前に、柳生はその手の中の花束を掴み取った。空になった右手を見開いた目で眺めることになった真田は数秒の後、顔を上げて柳生を見た。
両腕の中に横たわる新聞紙に平然とした横顔。相変わらず眼鏡の奥の瞳は見えないが、空気としてはさして先程までと変わりはない。真田の頭の上には疑問符が浮かぶ。

もしや、と真田ははっとして口元を手で隠す。もしやまた余計な気を回させてしまったのだろうか。
柳生は洞察力が高い。今の気落ちを察し、花束を取ったのだろう。何たる不覚、と羞恥で火照る顔に手を当て、真田は自分自身の軽挙な行動に内心で悄然とする。
「いや…いや、別に大丈夫だ。部室に置こう。」
「いえ、折角ですし私が頂きます。」
「柳生、」
「幸村君も、」

びりっと後頭部に電撃が走る。震える唇を奥歯を噛み締めることで覆い隠し、意識して呼吸をすることで激しくなった動悸をどうにかして抑える。
「幸村君も、今は少し見たくないかも知れませんね。」
補われた配慮ある言葉に真田は無言で頭を抱える。何故こうもコイツは鋭いのか。帽子の庇を握る手に力を込め、真田は今の自分の表情をどうにかして通常のものに戻そうとする。
「……押し付けたようで済まない。」
「いえ、こんなに美しい花を頂けて嬉しい限りです。」
そう言うと柳生は腕の中の新聞紙を持ち直し、花束の口に目を伏せる。たった数秒の動作ながらも流麗さを感じるその振る舞いに、平然さを取り戻すことも忘れ、真田は見惚れてしまっていた。

皐月の風が黄橡の髪筋をふわりと浮き上がらせる。あぁと真田の中に新鮮な感慨が生まれる。
逆光が解けた隙にだけ見える切れ長で繊細な目元。凛然と響く声。思慮深く静穏とした言葉。ありとあらゆる柳生の全てが好きだと真田は改めて実感する。
真田は一度帽子を脱ぎ、再度前髪を上げてから被り直す。気が付けば学校の敷地を囲う煉瓦の壁がすぐ近くになっていた。早いな、とは思ったものの心拍数を元に戻せた真田はもう落ち込まなかった。
また今日が始まる。一秒一秒が煌めくこの瞬間を決して無駄にすまいと真田は右手を握り締める。その手に降りかかる太陽の陽射しは何処までも暖かく、清朗としていた。



[Fin.]
おまけ:威厳、荘厳(89→37)


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