1.溺れて沈め(ユキアカ)





腕を広げ、足の力を抜く。ペンキ塗りの地面から足が離れて、肌の輪郭が揺らぐのを感じる。
アーチ状の天井越しに見える空は墨が薄く塗り広げられたようにぼんやりと暗い。やがて膜が張られたような微動が聞こえた後、日常音がミュートされていく。
固定化された視覚と消音された聴覚の後には切り取られたような意識だけが最後に残っていた。ただ、それすらも意識であることを『意識する』と把握できる程度で、何もしなければこの身体のように空洞に満ちているものだった。
目を閉じる。ちゃぷ、という水が揺れる音が断続的に三半規管を震えさせる以外、何もない。僅かに薄い光が差し込む瞼の裏は完全の黒では無いが、空虚のようだった。

どぶん。重い水音に幸村は目を開ける。続いた水を掻き分ける荒く鈍い音を耳にし、足先に重心を集めて、プールの底に足を着いた。
向かってくる音の方向を見ると、早速肩で息をしている切原が立っていた。その全力疾走後のような俯き加減の表情に幸村は首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……もう入られてたって思ったら……ちょっと」
「だって赤也遅いから。準備体操は?」
「………えーっと…」
もうと幸村は切原の手を取り、地面を跳ねる。ゆっくりとした波を起こしながら数メートル先に着地すると、もう一度身体が浮かぶ。
移動を数回繰り返して、幸村の左手がプールの縁を掴む。ほら、と逆の手を引き上げると、促された切原は水から上がる。掴むものが無くなった幸村も両手を突いてプールから浮き上がる。
「足が攣ったらどうするんだい?」
「へへ…すいません。」
「ほら、ストレッチするよ。」
犬のように身を振って水滴を落としていた切原にわざと大袈裟に溜息をついた振りを見せて幸村は両腕を組む。あらかた水を払った後、切原は指を組んで背を伸ばし始めた。
「だってオレちょっと遅れただけなのに部長がもうプール入ってんの見えたからマジ焦ったんすよ?」
「だって1時間しか入れないんだから赤也来なくても入るよ。」
「何すかその言い方。」
いやオレだって遅刻したのは悪いと思ってっスけどー。言葉の割りには対して謝る気が無さそうに唇を尖らせている恋人に幸村は思わず笑ってしまう。
「そんなのだから真田に怒られるんだよ。赤也は遅刻してもいいって考えてるから。」
「違いますって考えてないっすって!」
上腕の筋肉を伸ばしていたストレッチを止めてまで切原は抗議する。赤也、と幸村は名前を呼んでわざとにっこり微笑む。察した切原の勢いは急激にしぼみ、のそのそとストレッチの続きを再開する。
「…ただ、ちょーっと起きるのが遅くなっちまうというか…布団がオレから離れてくれない! みたいな…」
「そうか、赤也は俺より布団が好きなのか。」
「違いますって! 布団がオレを好きなだけで別にオレは布団のことなんて」
「? 赤也をこの世界で一番好きなのは俺だよ?」
言っている意味が分からないと幸村は不思議そうに再び首を傾げる。その謎の自信に満ちた言い回しにうっと切原は小さく呻いた。
「…何すかそれ。」
「だって俺は布団より何より赤也のことを好きでいるよ。」
「いや、だから何で布団と張り合ってるんすか?」
「赤也をこの世界で一番好きということにかけては俺は負けられない……それが例え布団でも。」
「意味分かんないっす。」
右手で握り拳を作ってまで語る幸村に、今度は切原が意味が分からないという顔になる。
「それだけ俺が赤也を好きってことだよ。」
「だから、意味分かんないっす。」
「分からないか……そうだな、俺の世界は赤也で出来てるって言ったら分かるかな。」
「出来てないっす。」
「いーや、分子レベルで出来てる。この世界に満ちる赤也の愛に包まれて俺は生きてるんだよ。」
「また変なコト言い出した……。」
うすら寒い幸村の言い草を無視しつつ切原は立ったまま腰を深く曲げ、足先に指をつける。掌底までとは思うものの流石に太股の裏が張る。いててとそのまま手足を振って、柔軟体操を続ける。
「この空気の粒子の一つ一つ、この世界を作る分子の一つ一つに赤也からの愛を感じる……これが赤也の愛なんだなって俺はいつも感じてるよ。」
「部長マジキメぇっす。」
「気持ち悪い? 何が?」
「もうそれが分かってない時点で気持ち悪いっす……。」
最後に一度だけ背伸びをして、っしと切原は気を取り直す。それからきらきらした目で幸村へ振り向く。
視線に気付いた幸村は腕を解き、プールサイドへ歩く。そして切原の隣に並び、水面を眺める。
「だって俺赤也が好きだもん。」
「だからもういいっスって。」
「何で?」
「何でって……」
くるりとした瞳で切原は幸村を見上げる。その澄んだ眼差しに幸村は内心どきっとした。
「幸村部長がオレのこと好きって知ってますもん。」
どぶんと切原は水に飛び込む。幸村は切原の台詞につい口元が緩みつつも、縁に座りゆっくりとプールへ戻っていく。
僅かな波紋が肌に触れる。滑らかに重い水の中を足先で払い進んでいると、先に入っていた切原がすすすと軽く泳いで近付く。そしてとぷんと潜ったかと思うと、ふわりと幸村は自分の足が浮かび上がる感覚に目を丸くする。
視界が青空に染まり、一転して細かい泡に包まれる。巻き上がる自分の髪に幸村は切原に足を掬われたことに気付く。
水の中ではにかっと笑う切原が待っていた。身体の隅々にまで広がっていく感情に身を任せたまま、幸村は目を閉じる。
音が消える。熱が背中から指へ灯っていく。口から息を吐き出すとより一層静かに落ちていく。ああ、と幸村は切原の笑顔を想う。
俺の世界は赤也に満ちている。沈んでいく瞼の裏側にはいつしか柔らかな白が映し出されていた。



[Fin.]


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