5.腕の中で甘やかに(89→←37)





柳生、と自分を呼ぶ声と共に高い熱に包み込まれる。未だ夏を惜しむ肌を纏った強健たる筋肉を薄いシャツ越しに感じながら、柳生は首だけで振り返る。
流れるように麗しく日に焼けた黒髪が鼻先をくすぐる。さして変わらない身長ながら3センチほど柳生の方が低いこともあってか、真田は柳生の肩に顎を乗せては首元に軽く頭を押し付けている。まるで猫ですねと思いつつ、柳生は自分に甘えてくる『皇帝』の髪にそっと手を伸ばす。
硬質ながらもしなやかな髪は柳生が触れるとやんわりと汗の匂いが広がった。少し湿った感触に柳生が小さく息を漏らすと、真田は閉じていた瞳を開け、口を開く。
「すまない。まだシャワーを浴びていなかった。」
「いえ、大丈夫ですよ。」
柳生の回答にそうかとだけ返し、真田は再び目を閉じる。そして柳生の鳩尾辺りに回している腕の力を一層強めると、思い切り息を吸い込んだ。
短く一気呵成に肺の中へ引き込まれた空気は、長くゆっくりとした吐息に変わる。その胸の動きを背中で感じながら、柳生は自分の鼓動が徐々に早まることを感じていた。

初めて真田から抱き締められたのは半年ほど前のことになる。
ある日の部活後、真冬の室内練習場に柳生が一人居残っているところに何故か真田が現れた。
既に真田は制服に着替えていたこともあってか、しばらくはコートの外で柳生の練習を眺めていた。が、その内柳生が習得しつつあったレーザービームのフォームに気になる点を見つけたらしく、気が付けばコートの中に入り、身振り手振りで柳生に指導を行い始めた。
レーザービームと同じくバックハンドからの超高速パッシングショットである「風」を得意技としている真田のアドバイスは的確かつ明快であり、柳生は直ぐ様自分の動きに反映することが出来た。数分前よりも格段に速度が上がった打球に柳生が喜んでいると、突如背後から真田に抱き締められた。
突然抱き込められた柳生は驚きのあまり真田に振り返ろうとした。しかしその頃から体格に差が無かったとは言え、テニス部のレギュラーとして一線で戦っていた真田の力は柳生が考えていたよりも強く、身動き一つすらとることが出来なかった。
数分の後、抱きついた時と同様突然離れた真田を見た時、柳生はあることに気付いた。
真田の纏っている空気が幾分か和らいでいる。当時幸村が倒れ、幼馴染みとして好敵手として深い付き合いがあった真田は常に張り詰めた空気を漂わせていた。
その陰暗たるや真田のクラスメイトだった丸井がいつも隣のクラスの自分や仁王に愚痴をこぼしていたほどだったのは今でもよく覚えている。それほどまでに神経を磨り減らしていた真田が自分を抱き締めることで何かしら安堵を覚えていると思い至った瞬間、柳生の心は躍った。
決まりの悪さから逃げるようにして練習場から出ようとする真田の背中にもしよろしければと次の居残り予定を投げつけて、驚愕と困惑が入り交じったその表情ににっこりと微笑んで見せた。今思えば薄い同情心だったと柳生は振り返るが、決して後悔することはなかった。

その日以降柳生は真田に抱き締められるようになった。2人きりの練習場で、旧生徒会室で、教室で。1ヶ月に1回程度と頻度は低いながらも、その度に少しだけ真田は心の内を柳生に話すようになった。
最初は幸村との関係。同じテニススクールで研鑽を積んできたが、いつも幸村には勝てなかったこと。手塚に出会ってから、自分と幸村が見つめているものが違うことに気付いたこと。それでも、『同じ』立海テニス部の部員として全国三連覇を果たしたいこと。
それから色々な相手への思いを聞いた。手塚、柳、跡部、切原。因縁や信頼、疑問や期待と様々な感情が重なる話を聞きながら、柳生はその言葉に隠された真意を内心で感じていた。
普段の真田の言葉は『風紀委員長』や『副部長』としてのものが多く、あまり自分のことについて語ることが無い。それは真田が私よりも公を優先する年相応とは言い難い思考を持つが故であり、柳生にとっては敬意を表すと共に不安を感じる部分であった。
老成しているとよく揶揄される真田だが、その実発想や感情は15歳の少年らしく溌剌として好戦的だという感想を柳生は抱いていた。それを冷静かつ自己犠牲的な思考で制御しようとしているのだから、何処かで無理が生じる。そのやり場のないストレスを、自分を抱き締めることで緩和させようとしているのだろう。恐らく本人も理解していないであろう真田の心裏をそう予測した柳生は、普段よりも数段低いトーンで途切れ途切れに紡ぎ出される真田の言葉に傾聴することに徹した。
同情心か使命感か。何故真田の行動に付き合うようになったのかは柳生自身まだよく分かっていない。ただ冬が過ぎ、春が行き、夏が終わっても真田は柳生を抱き締めることを止めず、また柳生も自分から止めるように言い出すことは無かった。

柳生が頭を撫でていると、真田の肩の力が抜け、するりと拘束が解けた。あぁ今日は終わりかと柳生は内心残念がっている自分を笑いながら、一歩真田から離れる。
パーソナルスペース分距離を取って真田に振り向くと、ユニフォームにジャージズボンと何ともミスマッチな姿で所在無げに頭を掻いているところだった。『風紀委員長』でも『副部長』でもない、『真田弦一郎』としての表情につい柳生の頬も緩む。
「…いつもすまんな。」
「いえ、真田君のお役に立てているのであれば光栄です。」
そう言って胸に手を当てて一礼すると、真田は決まって何とも言えない複雑な面持ちになる。その顔が見たいんですよね、と自分の意地の悪さを自覚しつつ、柳生はスラックスのポケットから懐中時計を取り出す。
「そろそろ下校時間ですね。」
「あぁ。先に帰って構わん。」
「いえ、折角ですし途中まで御一緒します。」
そう言って柳生は人の良さそうな笑みを浮かべると、その理由を悟った真田はそれ以上何も言わずロッカーの扉を開けた。足元に置いたラケットバッグを部室の入口付近に移し、柳生は壁に背を預けて真田の着替えを見つめる。
芥子色のユニフォームを脱ぎ露になった背筋は動作の度快活に滑り、薄く茶色付いた肌を隆起させている。それは制服の白いシャツを着ても尚分かるほどであり、その雄々しさたるや正に『皇帝』と呼ばれるに相応しいと柳生は何故か気分が高揚する。
そうしてシャツのボタンを止め、腰のズボンの縁に指を掛けたところで真田の動きが止まった。ゆっくりと自分の方へ振り返る真田に柳生はようやく気付く。
「…悪いが他を見て貰えるか。」
「…すみません。」
伏せた真田の目に気圧されるように柳生はその身体から視線を逸らす。更に見てないことを示す為に、眼鏡を外して胸ポケットから取り出したクロスでレンズを拭いてみせた。
柳生が再度眼鏡を掛けると真田は制服ズボンの中に夏シャツの裾を入れている最中だった。そろそろですかねと柳生はもたれていた壁から背を離し、接していた面を軽く手ではたく。
ベルトを留め、靴を履き替え、最後にネクタイを締める。几帳面に整理されたロッカーの扉がバタンと閉められて、真田は柳生に振り向いた。
「待たせたな。」
「いえ。」
「では出るぞ。」
『いつもの』真田の声色が戻り、柳生の横を通り過ぎる。その明朗さと嫣然さを両立させている低音に多少の落胆と他意を想いつつ、柳生も真田の後を追い、部室を出た。

煌々とした夕陽に蜩の鳴き声がおぼろけに染み入っていく。期待していなかった風は思ったよりも涼しく、数週間前には考えもしなかった秋が来ることを柳生に感じさせた。
煉瓦貼りの舗道に2人分の足音が響く。普段通り会話を交わすこと無く、同じペースで歩きながら柳生はふと周りを見渡す。
下校時間間際の校舎は濃橙色の残夏を身に纏い、過ぎ行く季節を見守っている。あぁ、と柳生は目を細め、気付かれないように右手を握り締めた。
陽を受け滑らかに煌めく街路樹の葉、落日を彩る清爽たる秋風。真田との間に流れる身も心もほどけていくように柔らかな空気。
あぁ、今自分は思い出の中に居る。何年、何十年経っても色褪せることの無い世界に今こうして自分は生きている。眼前に広がるその実感は柳生の胸に感慨と、若干の喪失感を沸き上がらせる。
柳生は一歩前を行く真田を見た。凛と正した背中に絡み付く炎の色は、白いシャツに影を落とす。だがしかしその黒に以前のような悲歎さは無い。
もうすぐですかね。柳生が小さく呟くと、音に気付いた真田が振り向いた。その射抜く様な黒鳶色の眼差しに柳生は一瞬怯むが、どうにかしてポーカーフェイスを保つ。
「何か言ったか。」
「いえ、独り言です。」
「…そうか。」
庇を下げかけた真田の手が帽子を被っていないことに気付き、少し狼狽えるのが見えた。癖と化していた真田の表情を隠す行為に柳生は声を出さずに笑う。
『クラスメイト』で『同じ部活』で『同じ委員会』で。これ以上何を望むというのでしょうか。
毅然とした清風に押されるように柳生は前を向き、緩んだ口元を再び結び直した。いつの間にか蜩は夕陽の中へと溶けてしまっていたようだった。



[Fin.]


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