[verba mea auribus percipe Domine intellege clamorem meum.](37←89)





太陽は既に西に落ちていた。下校時間が近付き、人の気配が無くなった校舎はほとんど夜の色に染まっていた。
そんな冬の夜の中、点々と灯る電灯だけが浮かぶ中庭を真田は進んでいた。黒い帽子を目深に被り、普段より遅い速度で歩き続けている。
既に部活が終わってから数十分経っている。他の部員同様真田も部室の鍵を閉めて、帰路につくべく北門を目指していた筈だった。
だが気が付けば、今の今まで当てもなく校内を歩いていた。中庭最後の電灯の横を通ったところで、真田の右手はポケットに収めた鍵を無意識の内に確かめる。
テニス部部室の鍵。冷ややかなままのそれが指先に触れた瞬間、真田は深く長く、沈んだ息を吐いた。

幸村が倒れた。同じテニススクールで出会い、同じ夢を追いかけてきた幼馴染みが原因不明の病に冒されているのを知ったのはほんの数ヵ月前のことだった。
現在のところ病状は悪化しておらず、月に数回程度検査入院で休む以外は登校し、部活にも出てきている。しかしながら確実に病を身に感じているであろう過酷な精神状態であることは想像に難くない。
だが、立海テニス部の部長として圧倒的な存在感で部員達を統べるその姿は、幸村精市という選手が如何に『神に愛されし男』なのかを実感させていた。

神に愛されし男。真田は口の中で一度繰り返す。この言葉を見たのは何処だっただろうか。恐らく、と記憶の中の1ページを頭に思い浮かばせる。
昨年の全国制覇時に受けたインタビュー記事。顔馴染みの記者が書いた選手評の部分に載っていた言葉だった。皮肉なものだと真田は鼻を鳴らして笑う。
神に愛されている男が、何故夢を根から絶たれる様な病に倒れるのか。そんな神であれば、居ない方がマシだ。そこまで考え、真田は立ち止まった。
神など存在もしないものについて俺は何を考えているのか。俺が今考えるべきは幸村の苦しみを少しでも和らげることではないのか。かぶりを振り、真田は空を見上げる。
白い街灯の光が真上にあるせいか、空は漆黒に塗り潰され、何も見えない。息が詰まる、と真田は思わず目を逸らした。
行き場のない視線が足元に落ちる。気が付けば、煉瓦貼りの通路は終わっていた。

顔を上げると目の前には練習場が建っている。いつの間にと真田は舌打ちをして腕時計を見た。下校時間はもう20分もない、とそこでようやく別のことにも気付いた。
屋内練習場に明かりが点いている。奥の方は暗いが、電灯が点いたままの入り口付近から何かの物音がしていることを考えるとまだ誰かが残っている。真田は一旦これまでの思考を脇に置き、風紀委員長としての表情を作る。
足音を鳴らすように歩き、練習場へ入る。玄関で靴を乱雑に脱ぎ、入ってすぐ左にある第一室の扉を押し開ける。
残っているのは誰だ。コンクリート張りの壁に発した声が反射し、真田の頭に耳鳴りが響く。

ダン。聞き慣れた硬球の音が怒号の後に弾む。よく見れば人工芝の真ん中に見慣れたユニフォームが立っていた。
真田は防球ネットを開け、中央へ進む。その時、左耳が何かが軋んだ音を捉え、条件反射で足が止まった。
芥子色の袖がそろりと揺れる。そして、淀み無く迷い無く動かされる右腕が、前方からの破裂音と共に振り抜かれた。
ピッチングマシンから放たれたテニスボールの中心を、バックハンドのラケット面が射抜く。芯を狙い打たれた硬球は全てを突き破らんとする鋭い一撃となって、対角線上にある的へ叩きつけられた。
正確且つ明確。これはと真田はピッチングマシンが止まった隙を逃さず、大股で歩き寄る。

おい。声を掛けると同時に真田はその肩を片手で握り、振り返らせる。はっと口元が緊張した様子が見え、真田は相対している相手の集中が今ようやく途切れたことを知った。

「…柳生、お前今何時だか分かっているのか。」
「……さ、なだくん?」

柳生の手を引き、真田は防球フェンスの入り口まで連れ出す。打ち返される宛てが無くなったボールが力の無い音と共に受球ネットへ吸い込まれていく。
場所を変えた真田は改めて柳生を見る。顔や腕に流れる滝のような汗を見る限り、部活後練習場へ直行したことが分かる。居残り練習を許可した覚えはない、と真田は両腕を胸の前で組んだ。
「答えろ、今は何時だ。」
「…すみません、時計は鞄の中に」
「言い訳は要らん。」
「…申し訳ありません。」
ボールの音が止まる。ゴムベルトが軋む音もやがて止み、柳生と真田の間に生温い空気だけが漂う。
「下校時間まで後10分もない。片付けるぞ。」
「……真田君のお手を煩わせることはありません。どうぞ先に帰られてください。」
硬い柳生の声質に真田はその背後を見遣る。どうも1カゴ分ほどマシンにセットしていたらしく、結構な量のボールが練習室内に散乱している。真田は視線を柳生に戻し、これ見よがしに溜息を吐いた。
部員の失態は部全体の失態であり、その責任は代表である者が負わねばならん。その言葉に一瞬柳生の息が詰まる。その後真一文字に結ばれた唇を見て、真田の眉間には縦に皺が寄った。
「……理解したのであれば早く帰るぞ。」
ラケットバッグを下ろし、制服ジャケットの袖を捲る。お手間を取らせますと柳生は短く頭を下げてから、慌ただしい様子でピッチングマシンの元へと走った。
マシンのスイッチ盤に柳生が触れたことを確認してから、真田は近くに落ちているボールを拾う。5、6個を投げ入れたところで、カゴの持ち手を手にした。



明かりを全て消したことを確認した上で、練習場の鍵を閉める。ドアノブを引いて鍵がかかったことを再度確かめると、真田は暗がりに浮かぶ練習場を見上げ、ハァと息をついた。
そして真田は振り返り、傍らに立つ柳生が視界に入る。着替え損ねた柳生はユニフォームの上下にジャージの上着だけを羽織り、ラケットバッグを背負っていた。
まだ汗が止まらないのか首にはタオルが巻かれているが、まだ肌寒い風が流れているこの夜にはあまり適切ではない格好に見えた。仕方があるまいと真田は帽子の庇に手を当て、白いコンクリートの舗道を歩き始めた。
真田の数歩後ろを柳生は歩く。澄んだ冷たい空気が露出した肌を切り刻むが如く冷やしていく。それは片付けで上がった体温にとっては心地好さを感じる痛みだった。
真田はスラックスの右ポケットに手を入れた。2つに増えた鍵を指先で触り、バッグのベルトを握る。それから「おい」と真田は背後に居る柳生に呼び掛けた。
「何故居残っていた?」
即答は無い。言い淀んでいるのか、言葉に迷っているのかは真田には分からなかったが、何か感じ取れるものがあった。
柳生が練習していたのは、この秋の新人戦で見せた超高速パッシングショット。レーザービームの名の通り、鮮烈な直線の打球は速度こそ風に劣るが、その命中精度は高く、元々観察眼に優れている柳生にとっては唯一無二にして最高の必殺技といって過言ではなかった。
部としての練習は苦手な部分を潰して全体的なレベルアップを図る方向性を取っており、それ以上のことは個々の自主性に任せている。居残り練習を行っていたのは、恐らく通常の練習ではカバー出来ない得意技をより伸ばす為だったのだろう。
だからといって見逃す訳には行かない。それが風紀委員長たる自分の役目なのだと再度真田は心の中で繰り返し、歩みを進める。

最後の曲がり角を曲がったところで、柳生が真田の隣に並んだ。そしてゆっくりと何かを確かめるように口を開く。
「練習を、しておりました。」
「…そんなもの、見ていれば分かる。」
「私は勝ちたいのです。」
柳生の言葉に今度は真田の左瞼が無意識の内に収縮した。無言を真田は回答として、速度を変えずに歩き続ける。
「今の私では常勝立海のレギュラーたりえる選手ではありません。私は、立海のために、」
強くなりたいのです。真田は横目で柳生を見る。柳生は真っ直ぐ前を見据えていた。その目を、真田は何処かで見たことがあった。
幸村。音にならない呟きが口の中だけで苦く広がり、真田は思わず左の奥歯を噛み締め、視線を外す。
立海テニス部という存在に対する献身。さもすれば自分の身すら破滅させてしまいかねない程の熱情。今の柳生と幸村に共通する深く濃密な感情は、真田にとって直視し難い現実だった。
「…そうか。」
真田はそれきり口を噤んだ。このままだと余計なことまで吐き出してしまいそうになる。
病に倒れた幼馴染みに何もしてやれない自分の無力さ。他の部員に勝利を強制した自分の弱さ。それをこの場で口にすることは、幸村から部を任された副部長としてあるまじき行為だとして真田は心の中で繰り返し自戒する。
柳生もそれきり話さなかった。横顔にかかった眼鏡の銀縁に白い光が写り込み、鈍い夜の闇に沈んでいる。
真田は無言のまま再び傍らの柳生を見た。柳生は些か唇を噛み締めているようだったが、自分を見つめる視線に気付くと普段通りの無表情を装うのが見えた。その変化を目の当たりにした真田は自分の腹の底に陰鬱とした感情がとぐろを巻いていることを自覚した。
理由の分からないもどかしさ。しかしそれを悟られまいと真田は意識して視線を元の位置に戻す。それから帽子の庇を深く被り直し、車道に向けて歩き始めた。
負けられない、勝たなければならない。それは幸村の為、立海の為。誇り高き勝利だけが救いなのだと信じ、愚直に進むことしか真田には考えられなかった。
人気の無い通学路は暗膽たる闇の中にあった。まるで、と真田は思い、考えることを止める。電柱の小さな光が、妙に輝かしく見えたのは気のせいだと思うことにした。



[Fin.]


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