[『好き』と云う意味](8937)





柳生、と声をかけようとしたところで真田はあることに気付く。
寝ている。器用なことに右手はシャープペンを持ったまま、何とも言えないバランスで以って左の頬杖が頭と上身を支えている。舟を漕いでいる訳では無いところを見ると、寝入ってからしばらく経っているようだった。
微動しない柳生を見て、真田はなるべく音を立てないようにして向かいの席に戻る。そういえば今日はしきりに欠伸をしていたなと今更ながらに思い出しながら、持ってきた数学の解説書を机に置く。3冊分の重みで僅かに机が揺れたが、柳生は気にすることなく眠っていた。
腕は痛くないのだろうか。首の角度と腕の位置から考えて、結構な負荷が手首に掛かっているように見えるが、大丈夫なのだろうか。ぱらぱらと解説書を開きながら、真田は柳生をちらりと見る。柳生は未だに眠り続けている。
真田はその内に目的のページを見つけ、先に広げておいた問題書の横に並べる。そして鉛筆を持つが、そのままの流れで両手を伏せ置き、じっと目の前の光景を見つめた。
昨日は遅かったのだろうか。そういえば最近テニス部を作ったと言っていたな。その調整や勉強で疲れているのだろうか。あまり連れ出さない方がいいのだろうか。しかし眼鏡を外さなくても寝れるのか。ぼんやりとした真田の脳内にぼんやりと色々な考えが浮かぶ。
しばらくして自分が何も出来ていないことに気付き、はっと真田は我に返る。気を取り直して解説書を読もうと視線を手元へ向けるものの、また次に気付いた時には目の前の恋人を眺めて、ぼうっとしている。それを数回繰り返した後、あぁ、俺も疲れているのかと真田は考えた。
疲れているとよく柳生のことを考える。今何をしているのだろうか。今日はどんなことをしていたのだろうか。毎朝顔を合わせるのにも関わらず、一人での帰宅時などで気が緩んでくると、真田の頭には決まって柳生の顔が浮かんだ。
だからどうという訳では無いが、と真田も頬杖を付き、その上に顎を乗せる。

好意を寄せているというのはこういう状況なのだろうかと思わないこともないが、よく分からない。
少なくとも柳生の言う『好き』とは違うだろうな。柳生が言う『好き』は確か『見ているだけで胸が高鳴り、声を聞くだけで幸せになる』もの…だった気がする。違うな、と結論付けて真田はゆっくり瞬きをする。
柳生を見ても脈拍は平常時のまま変わらず、今声を聞いたとしても特に感じるものはないだろう。大きな感情の動きはなく、いつものように平然と居られる自負がある。ただ、と真田は左手から顎を外し、もう一度両手を伏せ置く。

ただ、深く呼吸が出来ることが普段との相違点だろう。
呼吸はトレーニングやテニスをしている時ぐらいにしかあまり意識するものではない。しかし柳生と一緒に居る時間は普段よりも深く息を吸い、深く息を吐いているように真田は感じていた。
それはまるで午睡の前の微睡みに似た、柔らかい心地良さ。緊張した筋肉が穏やかにほどけていき、胸の辺りに溜まった息がじわじわと昇華していく。それは落ち着く、という言葉で表現することが真田の中で一番腑に落ちた。

真田は再度頬杖を付き、柳生を見つめる。少しだけ唇を開いて眠りに没頭している姿は、初めて見る柳生の一面だったが、真田にとってはそこまで意外なものではなかった。
付き合い始めて気付いたことだが、柳生は案外表情の変化が激しい。逆光がきつい眼鏡のせいで分かりにくいが、よくにやけよく嘆き、よく笑う。以前そのことを指摘すると、『貴方が傍に居てくれるからです』とにっこりと笑いながら柳生が答えたことを思い出す。何が言いたいのかはよく分からないが、柳生の中ではそれだけで全ての説明がついているらしい。
それと最近柳生の感情が若干読み取れるようになった気がする。顔の変化はないものの、雰囲気、というか醸し出している空気がたまに違う時がある。ただその柳生の空気とその場の状況が噛み合わないことが多く、よく分からないので本人に確認したことはない。

でもお前結構誤解してるからね。不意に幼馴染みの発言が真田の脳裏に蘇る。思い込みで人の感情や考えを間違って捉えるから気を付けろと続くアドバイスは、今の真田に短く深い溜息をもたらした。
付き合い出して半年が経つが、まだまだ柳生には知らない部分が多い。知った上でよく分からない部分は尚多い。だが、柳生が真田を尊重し、誠実に付き合っていることは真田自身理解していた。だからこそ真田はその柳生の誠実さに応えたかった。
思い込まず、よく分からない部分も多いが取り敢えず柳生の全てを知ること。まずはそれからと伝えた日のことを思い出し、ようやく真田は区切りがついた。
一旦目を閉じ、丹田を意識して深呼吸を行う。そして少しずつ瞼を開け、鉛筆を構えた。
集中するは問1。未だに眠る柳生が視界に入らないようにして、真田は問題に没頭していく。コンクリートの壁の向こうで鳴る蝉の羽音だけが、2人の間に流れ始めていた。



[Fin.]


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