[形の無い感覚だからこそ](8720+ユキアカ:[愛とは呼べない感覚がそこにあるとして]エピローグ)





「思わないね。」
仁王の問いを一言で斬り伏せ、幸村は残った紅茶を飲み干す。そして腕時計を確認してから、一息つく。
「もう何度も言ったけど、君の恐怖感は思い込みに過ぎない。現に君は柳に惹かれている自分に気が付いている筈だ。」
「適当なこと言いよんね。」
「君の発言と行動を論理的に分析したまでさ。」
春にまだ遠い風が温室へ打ち付ける。壁のビニールは震え、何処かから寒さが吹き込んでいる。
仁王はプラスチック製のテーブルの下で両手の指先を絡め合わせた。俯き加減のまま幸村を見ると、すぐにまた視線を地面へ戻す。
適当なこと言いよって。目の前に居る相手に気付かれない音量で呟き、溜息を吐く。
「素直になれば良いのに。」
ティーポットから赤いマグカップへダージリンティーを注ぎ入れながら、幸村が立ち上がる。白い湯気が一瞬だけ沸き上がり、消えていく。
「…俺は充分素直じゃろ。」
「そうだね、俺だけには素直かもね。」
仁王に背を向け、幸村は植えてある木々を見上げた。心ともない蛍光灯が音を立てている。両足を抱え込んで椅子の上に上げた仁王は鈍い音を立てている天井を眺めた。
育てられている花々は匂いを混じり合わせて、温室独特の空気を生み出している。夏の息苦しさとも春の鬱陶しさとも違う、冬の欠乏感。水の中で呼吸をするように、顔を上げて仁王が口を開いた。
「どうせ卒業したら終わりやん。」
「君はそうしたくても、柳はそうしないだろうね。」
「なのにわざわざ関係作るとか、無駄じゃろ。」
「それだけ君の面白さに価値を感じてるってことだろうね。」
「俺使われとるだけやん。」
「なら君も柳を使えば良いだけだよ。」
一口紅茶を飲み、幸村は振り返る。枯れた木と常緑樹を背景に微笑むその姿に仁王は反吐が出そうだった。

「あー! ホントに居たー!!」
キンキンとした声がビニール張りの温室の中で反響する。仁王が片耳を塞いで声の主を見る。
「うっさい。」
「うわっ、マジで仁王先輩も居た!」
「じゃあ出ようか仁王。鍵閉めるから。」
噛み合わない会話につい仁王の眉間に皺が寄る。しかし出て行かなければならない。溜息をつきながら足を下ろし、地面に置いたテニスバッグを背負う。
見れば外はもう夜だった。明る過ぎる外灯を頼りに螺旋階段まで行き着くと、背中が鍵をかける音を聞いた。寒い、とだけ仁王は思い、螺旋階段を降り始めた。

今日はーと雰囲気に全く合わない浮かれた声を後ろに聞いていた筈だったが、いつの間にか消えていた。代わりに見ただけで舌打ちをしてしまう相手が現われる。
普段は使わない裏門を選んだつもりだったが、読まれていたか連絡を受けたかしたらしい。後者の可能性の高さに吐き気を催しつつ、仁王は無視して通り過ぎる。
「精市と何を話していたんだ?」
歩く。
「まぁどうせ俺のことだろうとは思うが。」
早歩きになる。
「相変わらず素直でないとでも言われたのだろう。」
立ち止まる。
2歩ほど通り過ぎてしまった柳は足を止め、振り返る。首を縮めて視線を下に向けている仁王でも、その爪先ぐらいは見えた。
「…毎日、よぉ飽きんね。」
「お陰様でな。」
「いつ飽きるん?」
「お前が俺に飽きれば飽きてやらんこともない。」
「飽きるも何もハマったことすらないんやけど。」
「なら今から嵌れば良い。」
簡単な話だろう? 大方首を傾げたであろう相手の得意気な顔を殴り飛ばしたいと考えつつ、仁王は再度歩き始める。
長身の横を何事もなかったように通り、裏門までの舗道を何事もなかったように進む。背後に感じる気配が気持ち悪かった。
白い外灯の光を黒い影が横切る。吐く息も白いだろうが、この明るさでは空気の形すら見えない。見上げても月すら無い。都会は嫌いだと言っていた副部長の顔が何故だか思い浮かんだ。

普段通り無言で歩き、バス停へ向かう。倦怠感と疲労感が仁王の思考に入り混じる。帰り道はほとんど一緒だという事実が尚更仁王の足を重くさせた。
柳が横に並ぶ。ぞわりと背筋に寒気が走るが、決して仁王は表に出さない。ただ押し黙って足を振り出す。
やっぱり無理じゃと数十分前の自分の発言に返事を返す。嫌がらせのつもりでも隣の人間に甘く出来ない。他の相手にならば軽口を叩けても、柳には口すら開きたくない。
嫌悪感。隣に立つだけで息が出来なくなる、指が触れそうになるだけで肌が粟立つ。胸の辺りから吐き気が込み上げてきて、逃げ出したくなる。
しかし逃げたくないとも思う。柳のあの台詞から数ヶ月経ち、ここまで来ると意地だけで何とか立ち向かっている状態だ。先に折れる訳にはいかない。

一瞬、左手が凍ったように感じられた。
生理現象として鳥肌が立ち、反射で隣を振り向いてしまう。悔しいことながら、柳は平然としている。仁王は舌打ちしたくなったが、左手の冷たさがそれを遮った。
何したらこんなに冷たくなるんじゃ。自分も対して体温が高くはない方だが、それにしても冷たいというのだから相当低いのだろう。仁王は遠慮なく舌打ちをする。
「どうした。」
「冷たい。」
「? あぁそれはすまない。」
小首を傾げ、柳が手を放す。仁王は制服のポケットに入れた使い捨てカイロを握る。冷め切ってはいるが、さっきの手よりはマシだと考えるようにする。
柳は返事をしてから何も話さない。普段はうんざりするほど冗舌だが、2人きりになると殆ど無言になる。どうにも落ち着かない上に苛々して仕方がない。
何じゃあの体温。つかこんな時間までどこで待っとったんじゃ。今日はテニス部行く日やなかったろ。頭に様々な疑問が湧くが、言葉にはならない。
制服のジャケットもベストもシャツも通り抜ける風。熱くなっていた体が冷え、ふと冷静になる。意味分からんといつもの結論に考えが辿り着いた。
隣の人間が何を思って行動しているかなど分かる訳が無い、そもそも分かる気が無い。だからそもそも悩む必要が無い。
…そうよそうよ、何を考えとるんじゃ。手が冷たかろうが付き纏われようが告白されようが、隣に居る相手は自分が生きるにあたって必要の無い人間であって。
自分の人生に関係ない人間に何でここまで悩んでいるのか。バカじゃなかとかと頭を左右に振って、仁王は霞みがかった思考を払おうとする。しかしまだどこかぼんやりと曖昧な部分が残っていた。
大通りまではまだ遠い。人っこ一人どころか野良猫すら出くわさない道は街灯も少なく、だだっ広い暗闇を2人で歩いている状態だった。だからといって特別思うこともない、と思いつつ、仁王はポケットの中のカイロを取り出した。

「何を悩んでいるんだ?」
ここに来て柳が口を開いた。心配しているような台詞だが、その楽しそうな口振りに仁王の眉間に皺が寄る。
即座に返そうとしたが寒さのせいで声が震えそうになる。一度喉を鳴らしてから返答するが、それでも多少上ずった声色に仁王は内心舌打ちをした。
「悩んどらん。」
「ほう。では何故俺と話さない。」
「お前さんが話し掛けてこんから。」
「では話し掛けたら話すのか。」
「さぁどうやろうの。」
街灯の真下を通りかかる。思い立って暖かい息を吐くと、白い靄が現れて消えた。今日は昼が暖かったせいか特に冷え込んでいる。
「ふむ、では話すか。」
「俺が話さんかも知れんのに?」
「お前が話さないのであれば、俺が話せば良いだけだ。」
では一つ、と柳は人差し指を立てて語り始める。暗がりにやんわり浮かび上がった白色に、仁王はただでさえ寒さに弱い身体がまた急激に冷やされたような感覚を覚えた。
「認知的不協和、という言葉を知っているか?」
「は?」
「俗に言う二律背反、もしくはジレンマが近いな。」
「…日本語か?」
「日本語だな。」
認めるに知るで認知、協力するに和むで協和。柳は漢字を口で説明し、仁王の頭にもきちんと正しい単語が浮かぶが、全くイメージが湧かない。
「簡単に言うと、自分が受け入れている出来事同士が矛盾していて苦しいという状態だ。」
「意味分からん。興味無い。」
「分からないか、なら説明してやろう。」
「興味無い言いよるじゃろ。」
顔を背け、はっきりと拒絶の意思表示をする。しかしいつも通り無視される。
現在進行形で積み重なっている苛々が胃の底でのた回っているが、声に出す気にもならない。握り締めたカイロの中身が軋む手触りがした。

「例えば、お前が俺を好きだとしよう。」
「…は?」

相当嫌そうな顔で振り向いた自信があったが、柳は前を向いたまま見向きもしない。尚も楽しげな口調で話を続けている。
お前がもし俺を好いているとして。余程重要な事項らしく2回繰り返した柳がここでようやく仁王を見る。暗がりで分かりにくいが細い目が開かれている。その態度も気に入らず、仁王は自分の表情の中でも最大級に不快を示すものを選んだ。
が、また無視される。それどころか一歩踏み込まれ、懐に入られた。予想外のその行動に、仁王の身体が一瞬硬直する。
「お前はこれまでの自分の行動から、俺に対してあからさまに愛情表現をすることを負けだと思い込んでいる。
 俺を好きだと思う感情と俺に好きと言えない事実がお前の中で不協和を生じさせている。だから、お前は最近俺に冷たい。」
「……何が言いたいん?」
大体自分の中でも予測が付いている回答を待つ。いつの間にか止まっていた足のせいで、視界には柳しか見えない。怒りで耳まで熱があるのは分かったが、不思議と頭は冷静な自分に仁王は気付いた。
先の展開が読めているからだろうか。喉を整え、聞こえないぐらいの音量に声色を合わせる。
「認知不協和が発生すると、それを解消するために人は態度や行動を変化させる。だから」
開いていた柳の目は閉じられ、大仰な言い回しに合わせて視線が上を向いている。お前は誰に話しとるんじゃと呆れつつ、気付かれないように距離を詰めた。
仁王が口を開く。柳の声が寸分の狂いも無く二重になる。

「「お前は素直になればいい」」

目の前で背伸びをすると、はっと驚いたように柳の目が見開かれた。その反応を無視して、仁王は反対に目を閉じる。
唇を重ねる。しかし勢い余って歯同士がぶつかり、痛みを感じた仁王はすぐ離れた。そして手にしていたカイロを柳の腹部に投げ付け、くるりと踵を返す。
「煩いけんもうくっ喋んな。」
首元に吹き込んだ風に寒いと、仁王は再び肩を狭めて歩き出した。頬が熱を帯びているが、多分さっき立ち止まってしまったせいだろうと思うことにした。
数歩歩いたところでようやく足音が増える。何も言ってこない部分に溜息が出るものの、妙なことに苛つく気分は全く湧き上がってこなかった。
顎を上げ息をほっと吐き出す。寒さに身体が慣れてきたのか、指を組んで背伸びをしても大して気にならなくなった。そのまま空を見上げるもやはり月も星も見えはしない。せちがらいのぅとまた溜息が出た。

それから、柳は全く何も話さなかった。
大通りに出て車道の横をひたすら進み、夜になってもある程度賑やかな交差点に差し掛かっても、前の相手に倣って歩いているだけだった。薄気味悪いの前に相変わらずと付けつつも、仁王も特段何もしなかった。
横断歩道を渡り、いつもの裏路地へ入る。家の近くの道に出る前に左右を確認する。やはり誰も居ない。いつも通りやな、と変化を期待すらしていなかった仁王はそのまま進む。
10mほど歩いたところで、何かよく分からない違和感が湧き上がる。つい後ろを振り返ってしまうと、小首を傾げた柳が見えた。
「何ね。」
「何が。」
「いや、何かよぉ分からんのやけど。」
「なら俺も分からないな。」
「…事実じゃの。」
「事実だな。」
お互い顔を見合わせて首を捻る。結局違和感の理由は判明しないまま、仁王の家の前に着く。
では、と柳が言い、仁王は振り返った。とその時、柳の顔色が変わり、何かショックを受けたように口元を右手で覆う。仁王が頭に疑問符を浮かべていると、柳の低い声が更にトーンを落として耳に届いた。

「…手を繋いでいない…。」

あぁと仁王は先程感じていた違和感の理由を知る。そりゃ半年以上やりよったことを忘れたら違和感も出るわな。
仁王にとってはさほどでもない事実だったが、柳にとっては重要過ぎる事項だったらしい。衝撃のあまり瞼がはっきり開けられ、絶句したまま動かない。その壮絶な表情を目の当たりにして、仁王はつい口の端が痙攣する。

5秒は耐えたが、それ以降は無理だった。あひゃひゃひゃひゃと甲高い笑い声が静まった裏道にこだまする。柳が不服そうに顔を顰めているのは見えていたが、余りにも面白かった仁王は膝から崩れ落ちても尚笑い続けていた。
「何がそんなにおかしい。」
「やって…そんな、下らんことにひっ、そんな、クソ真面目な顔とか……」
「俺は常にお前に真剣に向き合っているのだが。」
「またっ、そんな…そんな顔で……」
うひゃひゃひゃひゃ。柳が段々と苛立っているのは分かっているが、仁王の笑いは止まらない。それどころか火に油を注いでいた。
アスファルトを握り拳で叩きながら、仁王は笑う。柳は何も言わなかったが、その内くるりと方向転換した。どこ行くんじゃと喘ぎ混じりに尋ねると、帰ると短い返答が無造作に飛んできた。
「ちょ、待ちっ、待ちんさいって。」
仁王は立ち上がり、柳の腰辺りを掴む。
明らかに怒りの表情をしている柳。多少申し訳ない気分では居るものの、やはり自分の本能には勝てない。どうにかして誤魔化すため、仁王は完全に緩み切った口元のまま背中に抱き付く。
「…何だ。」
「何で帰るね。」
「帰りたいからだ。」
「それやったら、まだ、」
やはり無理だった。高笑いで言葉が紡げず、再び崩れ落ちる。柳は呆れたように溜息をつき、仁王を片腕で引き上げた。
「『まだ』何だ。」
「まだ…まだ、忘れとるんや、なか?」
「はぁ?」
もう一度仁王は柳を正面から抱き締める。少し下から覗き込むと、柳は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔になっていた。ふふっ、とつい笑ってしまう。

「『好きだぞ雅治』って言わんの?」
「……………。」

仕方ないのうと腕の力を抜き、一歩後ずさった。珍しくしてやられた柳は唇をへの字に曲げている。その反応に満足した仁王は大袈裟ににっこりと笑ってみせた。
好きよ蓮二。女の子がしてみせるように、仁王は頭を少し肩に乗せて視線を送った。いつもこんぐらいやったら面白いになぁ、と仁王は頭の片隅で考えつつ返答を待つ。
やがて柳は眉間に皺を寄せたまま、口を開いた。その言葉は仁王にとって、自分自身の人生において柳の存在価値を考え直させるものになった。


「さぁ、どうだろうな。」



[End.]


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