[秋雨前線](8937)





雨だな、と彼は言った。
校門を出てしばらくした頃だった。見上げるとちょうど額の辺りに水滴が落ちてくる。思わず片目を閉じると、薄暗い空が近付いたような気がした。
徐々に降ってくる雫の数が増え、勢いも増してくる。大粒の一滴が右の人差し指を掠めたところで、彼が軒下に入る。白いシャッターが閉じられたベージュの壁。私も後を追い、横に並ぶ。
晩夏も既に終わりへ近付き、今のような夕立が減ってはいた。そういう意味ではこの雨は名残惜しいものでもあった。
彼は簡単に腕の水滴を払い、一息をつく。私も同じようにしてから、背負っていたラケットバッグを地面へ降ろす。
雨は予想通り、トタンの屋根をけたたましく踏み鳴らし始めた。そのステップは目に映る重苦しい灰色から生み出されたとは思えないほど、軽快であり華やかな音色だった。
徐々に雨足が強まり、ステップが変化していく。優雅なワルツから幻想的なタンゴ、そして圧倒されるクイックステップ。目の前の景色も滲みを通り越して見えなくなっていく。
隣の彼を見る。いつも通りの無表情のまま空を見上げている。仕方がない、と言った風だろうか。それとも部を任せた後輩を心配しているのだろうか。
再び視線を戻す。黒いアスファルトに打ち付ける雨は何度も何度も跳ね返り、進むべき排水溝を探している。もうすぐ止むと、その時私は何故か確信した。
それは彼も同じようだった。取り出していたタオルを鞄に戻しているのが視界の端に見える。私はサイドポケットから折り畳み傘を取り出し、外袋を胸ポケットに押し込んだ。
はっと目が合う。ばつの悪そうな彼の手元には、黒い色をした似たような形の物があった。私は苦笑いを返す。
天気が不安定な季節の変わり目、2人で帰宅中に突然の雨。とくれば例え同性同士であっても相合傘に違和感はないだろう。ましてや恋人同士、と気付いたところで思わず私は笑いそうになる。
そう、私と彼はお互いが恋人同士だからこそ今この場で傘を持っているのだ。彼は多分私に迷惑をかけないよう、私はあわよくば彼と同じ傘の下に入りたいと考えていた。だから、鞄から傘を取り出したのだ。
彼と視線を合わせる。彼は何か言いたそうに口を横に広げたまま、視線を逸らす。そうしている内に、雨の音はしなくなった。
水滴は細やかになった分風に乗り、斜めに吹き付ける。低気圧特有の下へ吐き出される空気はそことなく温い。
彼は苦い顔をして空を見上げる。何かを逡巡している様子なのは私でなくでも分かる程だ。
しばらくその表情を堪能した後に、私は傘を開く。彼が振り向いた。
「では、帰りましょうか。」
「…そう、だな。」
今度は私が先導して歩き始める。彼と別れる交差点まで後半分ほどだ。
腕へ霧雨が纏わりつくものの、傘のお陰で視界は確保される。行き交う車の数は少なく、水溜まりにさえ気を付ければ穏やかな帰宅路だった。
まぁ彼の背中が目の前に無いのは結構珍しいことではありますけどね。赤いテニスバッグが映える広い背中と色褪せた黒い髪、僅かに覗く輪郭。先程まで見ていた彼の姿を想いながら、顎を上げる。空は複雑にだんだら模様を描いていて、雨が完全に止む気配は無いようだった。
両脇に住宅が並ぶ道を進み、橋に差し掛かる。路側帯の中を真っ直ぐ進んでいると、車が2台ほど通り過ぎた。

「柳生。」

橋を渡りきろうとした寸前に後ろから呼び止められる。立てていた傘を右肩に軽く載せて、足先を180度回した。
距離は3歩程度離れている。彼は黒い傘で俯き加減の瞳を隠していた。私は首を傾げる。
さっきとは別の車が2台、私達の脇を自転車が1台通過する時間ほど向き合っていると、意を決した彼の口が開いた。

「……を、繋がないか?」

最初の文字は高く掠れて聞き取れなかった。しかし差し出された右手を見て、無意識の内に空白の音が補完される。
『手を繋がないか』。傘布と顔の角度から彼の表情は窺い知れない。しかし言葉の端々から伝わる緊張に、私は少しだけ驚き、少しだけ笑ってしまった。
口元が緩む。下がる目尻を自覚しつつも、顔の筋肉のコントロールが出来なかった。つい、空いている左手で口を覆ってしまう。
間が空き、流石におかしいと感じたのか彼が勢いよく顔を上げる。私と目が合うと、彼の顔の赤みが頬から一気に全体へ広がる。
かぁっという擬態語を用いるべきは今なのだろうな。他人事のように考えながら、私は手を伸ばした。彼の視線は下へ行き、再び上へと戻ってくる。私が微笑んでみせると、今度は顔を背けた。
「…どうして笑っているんだ。」
「だって面白いじゃないですか。」
「面白い?」
彼がこちらを見る。私が述べた理由が気に食わなかったのか、先程の頬の赤みは消え失せ、不服そうな顔になっていた。
詳しく言うべきだろうかと一瞬躊躇ったものの、悩む前に結論は既に出ていた。日焼け跡が残る彼の手首を左手で握り、引き寄せる。

「だって、相合傘より手を繋ぐ方が恥ずかしくありませんか?」

まぁ私はどちらでも良いんですけどねと付け足し、彼が反応する前に指を絡ませる。一拍置き、「お前」やら「わざとか」やら怒った彼の声が背後から聞こえてきても聞こえていない振りをする。お互いの指の間を交互に重ねた繋ぎ方は、彼の親友曰く『恋人繋ぎ』らしい。
「しかしこんな日も沈まない内から『手を繋がないか』なんて、真田君も言いますねぇ格好良いですねぇ。」
「お前…馬鹿にしているのか…?!」
「いえいえまさかまさか。真田君は男気があって本当に格好良い方だと僭越ながら申し上げて」
「馬鹿にしているだろう! もういい離せ!」
「騒いでいるとますます目立ちますよ。」
都合よく路地があったので入る。車幅も標識もない曲がりくねった道は今の私達にお誂え向きだった。
木製の柵に常緑樹の壁、中途半端に積み上げられたコンクリートブロックに猫避けのペットボトル。しとどと雨に濡れる景色は静まり返り、特有の甘い香りがした。
離れようとする彼の手を、私は握力の限り握り締める。細雨が降るものの、指先はかえって熱くなってくる。むしろ、気持ち良いくらいだった。
私と彼は無言で押し問答をする。彼の力は握力も腕力も私より上だが、鍛えてきたのは彼だけではない。両手を使ってでも私の手を剥がそうとする彼に、私は必死に追い縋る。
掌が離れかけて握り直す。外された指をまた元の位置に戻す。それを5セットほど繰り返したところで、あぁと短い溜息と共に彼の手から力が抜けた。勝った、と思った瞬間だった。

痛い。手の甲の骨が無理矢理押し込まれる感覚がしたかと思う間もなく、体が横へ回転する。反射的に逆の手の力が抜けて、傘が落ちた。
両肩に手を載せられて、つい目を強く閉じる。ちらりと片目を開けて彼の表情を見上げると、深く長く息を吐かれた。そして呆れたような、諦めたような、何とも言えない面持ちで彼は顔を上げる。
「……離せと言ったら流石に離せ。」
「…分かりました。」
「不服そうだな。」
「当たり前です。」
折角貴方の方から手を繋いでくれましたのに。わざとらしく口を尖らせてみると、彼は再び溜息をついた。
気が付くと、髪や肌に薄く水滴が広がっていた。心なしか寒気もする。雨が早く上がらないかと私は初めてその時思った。
彼は無表情で落とした傘を拾い上げ、私に手渡す。そして、路地を進み始めた。
この生活感に溢れた路地を抜けると、いつも二手に別れてしまう横断歩道の目の前に出てしまう。今日はこれまでかと私も溜息を吐き、彼の3歩後ろに付く。
黒い折り畳み傘が小さく見える。赤いラケットバッグに鍛え上げられた腕。見慣れた光景に心が落ち着く反面、残念な気分でいっぱいだった。
大通りに出る。横断歩道が見えかけたところで、不意に彼が立ち止まる。危うく、私は彼にぶつかりそうになった。急遽振り出していた右足を半歩外へ逸らし、事なきを得る。
どうしたんですかと尋ねつつ、辺りを見回す。車道を挟んで向こうにある信号は緑色を点しており、雨具を着た自転車や歩行者がこちら側へとやって来ている。何の変哲もない、雨の街にしか私には見えなかった。
隣に立つ彼を見る。相変わらず顔の上半分は傘で隠れていた。何事か考えているのか口は生真面目そうに真一文字になっていたので、私は彼の考えが纏まるまで待つことにした。
やがて信号が変わり、目の前に車が右から現れては左へ流れていく。白いセダン、黒いボックスワゴン、青いミニバン。見ているだけなのも暇なので、私は通過する車のナンバーの前後で足し算をすることにした。
107、84、32、49。126、と計算したところで彼が横を向く。私は微笑みで応える。彼は眉間に皺を寄せて、目元をまた傘で隠した。
彼は夏の大会が終わってから、登下校の際に帽子を被らなくなった。しかし何か思うことがあると、前髪なり手なりで目を隠してしまう癖が残っている。いじらしいその様子を私は愛おしく感じた。

「…今日は雨だ。」
彼の声は普段の声からすると微妙に緊張していて、いつもの厳格さや高圧さはほぼ皆無といって良かった。
「そうですね。」
私は視線を信号に戻した。
「さっき誰かのせいで傘が落ちた。」
減速した車が停止線を踏み越えて止まる。
「誰のせいですかねぇ。」
そろそろ、赤が緑に変わる。
「……お前は濡れていないのか。」
雨は尚も薄く降り注いでいる。
「まぁ、貴方と同じぐらいです。」
信号が変わった。

「俺の家に寄れ。」

有無を言わさず彼は歩き始める。勿論横断歩道は渡らず、右手に伸びる舗道を進む。
信号を見る。既に小雨になったとはいえ、行き交う人は少ない。その内に彼と私の距離は1歩ずつ離れていく。私は小さく息を吐いた。
彼は私が後を追わないとは微塵とも考えていない。それは家庭で愛されて育ったが故の確信であり、私を好いているが故の不遜と言ってよかった。
さてどうしようかと考える。雨雲のお陰ではっきりとした時間は分からないが、当分の間夜は来ないだろう。しかしながら今までの行動を踏まえると、彼の横風さを少々張り飛ばしたいという悪戯心もむくむくと沸き上がってくる。
私は信号と彼の背中を2、3度交互に見る。点滅する青と遠くなるラケットバッグ。では、と私は足を振り出した。

「置いていくなんて酷いですよ。」
少し早歩きをして、私は彼の横に並ぶ。彼はちらりと横目で確認しただけで、すぐに視線を帰路の先へ戻した。
「お前が立ち止まっていただけだろう。」
吐き捨てるような物言いながらもどこか安堵感のある声色。彼のある意味で素直な反応に私も自然と笑みが溢れる。
「それは貴方が一言だけ残して足早に歩き始めたからです。反応できない方が普通でしょう。」
「帰るか帰らないかぐらいすぐに決められるだろう。」
「それでも別れの挨拶を述べないまま帰宅するのは礼儀に反するかと思いまして。」
「帰るなら帰れ。」
「帰って欲しいんですか?」
「…お前が来たくないのなら、帰れ。」
「来いと言われましたのは貴方の方からでしょうに。」
「来たくないなら帰れと今言っただろう。」
「『お前が風邪をひいてはならないから家に来て風呂にでも入っていけ。ただ、来たくないなら帰っても構わん。』と素直に仰られたらいかがですか?」
「……お前は何故そんなに人の気に障るような言い回しをする。」
「さぁ。そもそもその様な言い方をした覚えはありませんよ。」
私は釣った魚を心底可愛がるタイプですから。わざと性格悪く笑ってみせると、彼は元々あった眉間の皺を更に深くした。
私は空を見上げる。今日の折り畳み傘が乾いても、鞄に入れないようにしよう。次の雨に心ときめかせながら、私は彼の帰宅路を共に進んでいったのだった。



[Fin.]


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