[運命の愛とは](8937)





あの日あの時を経なければ、彼は私を知ることはなかったでしょう。
私と彼の絆とは本来そうあるべきものだったのかもしれません。ですが、私はそれを望まず、彼を追いかけることにしたのです。
彼は前に進む方、振り返らない方。手を伸ばしても届かない先に居る彼は、私にとって憧れと言う言葉もおこがましいほど絶対的な存在。
彼が呼吸をするだけで世界は煌めく。彼が眼差しを向けるだけで、世界は彼に平伏す。整然と純粋がまるで初めからそこに成立していたように、彼が世界の中心に佇んでいる。なんて幸福なことでしょうか。


「真田君。」
「…あぁ柳生か、どうした。」
「いえ、何か思い詰めているような顔をされていたので、少々心配を」
「気にするな。いつものことだ。」
「…そうですか。」

誰も彼の弱さを知らない。それは勿論、彼自身も知りはしない。
夕陽に照らし出される憂い顔。帽子の庇の下に隠した眼差しは迷いに揺れながらも、炎の色を失わない。
しかしその背中の痛ましさは、決して私には癒せない。近付いても、寄り添っても、触れることさえ叶わない背中。この時ほど、自分の無力さが倦まれることはない。
私がもっと強ければ、もっと前に出逢えていたならば、こんな姿を見なくてもよかったのかもしれない。だがこれが運命ならば、受け入れる他無い。
その肩を抱けないのなら、その代わりに守らなければならない。その手を握り締められないのなら、その代わりに勝たなければならない。それは、彼を好きになった自分の義務だ。
彼を見る。世界中の色を一身に纏うその姿は、いつしか沈み行く濃紺の夜に染まっていた。


「真田君。」
「……何だ。」
「今から海に行きませんか。」
「…は?」
「行きましょう。」
「おい、もう7時は過ぎて、おい、何処に行くつもりだ!」
「だから海です。」

あの日、私は彼の手を取った。あの時、うつむいたままの彼の表情に耐え切れなかったから。
路面電車に飛び乗って、家とは反対方面へ向かう。太陽が熔けていく海岸線が窓枠に切り取られている。夏が終わる、と感じた。
彼は押し黙ったまま扉にすがる。背中越しに景色を眺めながら細めたその瞳に以前の炎の色は点っていない。胸が押し潰されるような愁嘆を滲ませた黒髪が外の光に淡く艶めいている。それはまるで今にも消えてしまいそうな泡沫の儚さだった。
3駅進み、降りる。切符代を2人分窓口に置くと、彼はとても怪訝そうな顔をしたが、何も言わなかった。
彼が私の後ろに着いてきているのを何度も確認しながら、歩く。10分ほど行くと、昔の記憶通り家が少なくなり、少々坂道になる。背中のラケットバッグが普段より重く感じられたのは、疲労以外の理由からだっただろう。
坂を登りきり、右手側にある公園に入る。潮の香りを含んだ風が流れる。鬱蒼と繁る整備不足の舗道の先には、海があった。

高台の公園からは足元の街はほとんど見えず、ただ見える限り朱色の水面が広がっていた。空気は深い緋色に浸り、過ぎていく時間を陽が名残惜しんでいるようだった。
彼と私以外は誰も居ない。音さえしないこの場所は、今までのことが全て夢だったのではないかと錯覚させる。誇りと存在を賭けて戦った日々を、夢を果たせなかった今日を、まるで実感させない。
風が吹く。時間は過ぎる。無言を破ったのは、意外にも彼だった。

「俺は、間違っていたのだろうか。」

勝ちに拘り信念を捨てたこと。親友だと信じていた男の孤独を最後まで気付けなかったこと。そして、何もかも終わってしまったこと。
一言一言絞り出すような声で呟く彼に私は迷っていた。彼は私に解答など求めていない。単なる独り言にしていて欲しいと考えている。無言が彼の最大の慰めになることは分かっている、しかし。

「…貴方は何も悪くありませんよ。」

私は言わなければならない。貴方は最後まで誇り高く戦い抜いたと。彼の孤独は理解してくれる人が居ると。終わったとしても、また始めることができるのだと。
さざなみと風の音が過ぎ去っていく。落ち葉がひとひら空に舞い、落ちていく。彼は何も言わず、ただ紫に変化していく景色を見つめていた。


それからしばらくして、桜のつぼみがほころび始めた頃。私はある決意をしました。
それはこの想いを打ち明けること。私はもう彼の背中を追いかけることはないのだから、最後に、伝えておきたかった。
貴方に出逢えて幸せだった。貴方のことを好きになれて本当に幸せだった。出来ることなら、貴方とこれからも付き合えたらと。
言うべきか言わざるべきかは勿論悩んだ。私は彼のことを知っている、しかし彼は私のことを知らない。そんな状態で伝えたとして、果たして彼は受け止めてくれるのか。負担にはならないのか。秋が過ぎ冬が過ぎ、澄んだ空に遠く輝く月を眺めながら、長い間自問を続けていた。
迷いが吹っ切れたのは、過去を語る彼の幼馴染みのお陰だった。自分が生きる理由を与えてくれた後輩への感謝だけはどうしても伝えておきたい。例え嫌われたとしても、俺はずっとあの子のことを好きだからと、その彼は薄く笑っていた。
ああ、とその時私は理解することができた。例え彼が私のことを嫌いになろうと、私が彼のことを嫌いになる訳がない。初めて目を合わせた瞬間からきっと多分この人生が終わるまで、私の想いは変わらないまま胸の中に在り続けるだろう。
出来ることなら傍に居たい。しかし、彼には彼の夢があり、私には私の目標がある。ここで道を違えるならば、後悔を残すよりも諦めをつかせてこの想いを大事にしていく方が良い。届かない未来を望むよりかはよっぽど建設的だ。
自己満足なのだろう。でもそれは、もう何度も考えてきたことだ。可能性が低くても、一歩踏み出すことに意味があるのかも知れない。そう想いを馳せていた時、屋上の空はもうすっかり春めいていて、淡い青色をしていた。

「柳生。」
「真田君。」
「待たせたな。」
「いえ、時間通りです。」

して、何の用だ。いつものように腕組みをして、彼が尋ねる。ああ、今から驚く顔が見れるのだなと思うと、不思議と緊張しなかった。
風に声が掻き消されないように近付く。ほとんど高さの変わらない視線が、嬉しかった。

「真田君、」
「なん」
「私は貴方が好きです。」

誰よりも厳しく、誰よりも優しい貴方が好きです。自分の弱さを認め、強くあろうとする貴方のことが大好きです。
ですが、貴方は優しいが故に何もかも背負い込んでしまう。貴方は強いからこそ全てを受け入れてしまう。私はそのことについて心を痛めています。
私は貴方のことが好きです。人として、愛情を抱いています。だからこそ、私はこれから先貴方のことがとても心配なのです。
初めて貴方を知った時から、私は貴方の背中を追いかけてきました。誰よりも近くで貴方のテニスが見たいと転部し、貴方を支えたいと生徒会から委員会へ移ってきました。少しでも貴方の力になれるように努力してきたつもりです。
でも、私はもう貴方の背中を追うことは出来ません。同じ道を歩むことはないでしょう。だからこそ、私は今貴方に伝えたいのです。
私は貴方が好きです。そして、どうか私に貴方を支える権利を授けて下さい。これからも貴方と人生を通して付き合っていただけませんでしょうか?

なるべく冷静を心掛けたつもりだったが、やはり話している内に熱が籠っていた。ふと我に返ると、彼の手を掴んでしまっていた。少々自分自身の行動に苦笑いしつつ、手を離す。
彼は予想通り狐につつまれたような、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になっていた。当然だろうな、と考えつつ、若干距離を取る。

「私の用事はそれだけです。では失礼致します。」

一つ礼をしてその場を離れる。彼は無言のままでそこに立ち尽くしていた。扉の前で振り返るが、彼は私の視線に気が付かなかった。まだ何も変わらないと感じながら、私は階段を降り始めた。


彼はやはり優しい人だった。
あの日以来、彼は物思いに沈んでいた。夏の頃とは違う覇気の無いその悩み方に私は正直申し訳ない気持ちになる。こんな時は同じクラスであることが恨めしかった。
そして数日後、彼が私を屋上に呼び出した。フェンスに手を掛け、外の景色を見ている姿は、あの夏の日と重なるものだった。

「…真田君。」
「あ、あぁ、早かったな。」
「そんなことはありませんよ。時間通りです。」
「その、話なんだが……」

次の彼の言葉を私は目を閉じて待っていた。どんな台詞だろうと、受け入れなければならない。それが彼の本当の答えならば。
だが短い沈黙の後の回答は思いもよらないものだった。彼は、私の想いを受け入れると言った。

彼はやはり優しかった。断ることで私が傷付くことを恐れたのだろう。私は、そのことの方が哀しかった。
彼の想いが本心のものならば、私はそれで良かった。例え傷付いたとしても、彼が与えてくれた痛みなら甘んじて受け入れよう。だがしかし、彼が自らの気持ちを偽ることは私にとって最大の苦しみだった。
彼が彼らしく生きていくことが私の望み。なのに、彼は優しいがばかりに私を受け入れようとしている。想いがすれ違うというのはとても辛いと考えつつ、私は口を開いた。

「それは、貴方の本心なのですか? 本心でなければ、私は苦しいだけです。」
彼がはっとした顔で私を見た。私は続けた。
貴方が私のことを守ろうとしてくれているのは分かる。しかしそれは私の想いに誠実に応えているとは言い難い。私は贖罪をしろと言っている訳ではない。ただ、貴方の本当の気持ちを聞かせて欲しいだけだと。
彼が目を伏せる。その口元には力が微妙に入っていて、歪んでいる。
申し訳ありません。つい謝罪の言葉が口をつく。彼を苦しめる想いだったのかと、私は悔悟の念で息が詰まる。声が掠れて、喉が痛い。泣きたいのかも知れないと、自覚したが、どうしようもない。悟られないよう、唇を笑みの形に繕おうとした。



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