[豁然大悟](37→89:[病肓膏に入る]の続編っぽいもの)





「真田君。」

呼び掛けられた声に、突如鼓動が早くなるのが分かる。
「あ、あぁ、何だ柳生。」
裏返りそうな言葉を何とか平時のものに押し止め、振り返る。3歩ほど離れた場所に柳生が立っていた。
その距離に真田は安堵を覚えるが、同時に残念だと思ってしまっていた自分を認識する。あの日以来、柳生と話す時はいつもそんな状態であり、最近では些か慣れてきてしまった面もある。
「風紀の引き継ぎの件で、少し確認していただきたいものがあるのですか…。」
一歩、持っていたクリアファイルを探りながら柳生が距離を詰める。真田は危うく後ずさりそうになるが、『風紀委員長』の責任感から足を動かすことが出来なかった。勿論、柳生に見惚れていて動けなかった部分も多分にある。

あの日―――初めて柳生を『美しい』と思った日から、真田は柳生のことを意識せずには居られなかった。
風に流れる薄茶色の髪、白磁器の如き艶やかさを感じさせる肌、眼鏡の端から垣間見える鋭い眼差し。穏やかながらも奥底に秘める激しさは幸村に勝るとも劣らない。
だが幸村の激しさが氷の冷たさを感じさせるのとは違い、柳生のそれはまるでマグマの様な熱さにたぎる炎を思い起こさせた。普段とは違ったその一面に触れる度、意識して見れば見る度に、真田は柳生に惹かれていた。だが、一体その感情が『何』であるかが分からなかった。
休憩中や自習中にふと手が止まると、大体柳生のことを見つめている。一人になった時に真っ先に考えるのはテニス部と柳生のこと。そして、いざ本人を目の前にすると急に脈が早くなり、下手をすると顔が赤くなってしまう。
昔、幸村で同様の事態に陥ったことがあるが、時間が経てば自然と無くなっていた。なので今回もそうだろうと真田は高を括っていたのだが、柳生への条件反射は無くなる気配を見せるどころか逆に悪化していく一方だった。
同じクラスで同じ委員会で、当たり前だが同じ部活で。実際に会話をすることは少ないとは言え、1日の半分程度は同じ空間に居ることになる。一度意識してしまえば視線は外せなくなり、見ていればまた新たな一面を発見してしまい、ますます柳生のことを考えてしまうようになる。
悪循環だがそれを何故か心地好く感じてしまう自分も問題だろうとは真田も思っている。しかし、気付いた時には既に柳生を視界に入れてしまっているのだから、最早どうしようもないことなのかも知れない。

「前々回辺りの校外パトロールで…」
1枚のプリントを差し出しながら、柳生が更に半歩近付く。さらりと流れる髪から香りがほのかに漂い、目の前の文字に向かいかけていた真田の意識が引き寄せられた。
普段、柳生の髪は柑橘類の爽やかな酸味を含んだ香りがする。しかし今日は甘い匂いがすることに真田は違和感を覚えた。
何の香りだろうか。砂糖菓子の様でもあれば、果実の様な……。そこまで考えていた自分に気付き、真田は慌ててプリントの文字を追う。しかし何故か文字が頭の中で、意味のある文章として理解することが出来ない。意味が分からない、と真田は眉間に皺を寄せながらプリントを眺めていた。
「…ということで来年からは校外パトロールの範囲を狭めてもいいのではないかと思うのですか。」
「あ…あぁ、それは俺も考えていたことだ。」
心地好く聴こえていた言葉尻を何とか掴み、話の内容を把握する。柳生以外には決してしないであろう取り繕うような行動。その他ありとあらゆる仕草が、意思が、目の前に居る男の前ではぎこちない・普段とは違ったものになってしまう。
プリントを受け取り、再度読み直すと今度は頭の中に入った。しかしその片隅では、まだ髪から揺蕩う甘さの理由を考えている。無意識で引き起こされる行動の数々に真田は知らず知らずの内に溜息をついていた。
「…如何されたのですか?」
声がしてつい反射的に真田が顔を上げてしまうと、心配げな口元をした柳生と目が合った。その瞬間、真田は意味もなく顔が紅潮してしまい、小さく呻いてしまう。
しまった、と思った頃には柳生の眉間に一筋皺が寄せられるのが見えた。何をしているんだと内心舌打ちをしつつ、真田は自分の脈拍を平常時に戻そうと意識する。
「いや…その、も、もうそろそろ引き継ぎの季節かと思ってな。」
「そうですね、真田君もですが柳君や幸村君も今は忙しくされているようで。」
話を反らし、再び何とか取り繕うことに成功する。真っ向勝負を信念とする自分とは程遠い言動に真田はますます気が重くなるが、柳生は普段通りに話をしている。
気まずい。柳生がこんなにも普通だというのに俺一人で何をそんなに焦っているのかと。勝手だとは認識しつつも、真田は早くこの場から離れようと用事を終わらせようとプリントの文面を再度確認する。
「…この内容で問題は無いだろう。来週の委員会で採決を取って引き継ぎ内容に足すことにしよう。」
「ありがとうございます。」
「では」
「真田君」
踵を返しかけた、正にその瞬間、柳生が真田の名前を呼ぶ。すわ逃げようとしたのが分かってしまったのかと半ば不体裁な気分で振り向く。だが、柳生は先程からの少し不安げな表情を崩さない。
「プリントは貴方がお持ちになって結構です。」
「あ…あぁ」
「それと」
存在を忘れかけていたプリントのことを言われたと手元を見た刹那、嗅ぎ慣れていない香りが鼻のすぐ先に浮かんできた。

「…本当に大丈夫なんですか?」

透き通った低音と眼鏡の上から見えた瞳に、背筋がぞくりと粟立つ。五感の情報が一挙に脳に雪崩れ込み、目の前でストロボを焚かれたように思考が飛ぶ。
危うく砕けそうになる腰を気合で支えるが、どうにも覚束無い。耳にはさっきの言葉と自分の心臓の音が絡み合って訳が分からなくなる。一体何が、と思う間も無く手が出た。

状況を把握しようと頭が回ったのが、柳生の両肩を掴んだ時だった。
これは突き放そうとしたのか、それとも。真田が自分自身の衝動を理解出来ずに立ち尽くしていると、柳生の小さい声がした。
「…い、たいです……」
「!? す、すまん!!」
慌てて真田が柳生の肩から手を離す。行き場の無くなった手をどうするかとしたところで、真田は初めて柳生の持っていた書類が足元に散らばっていることに気付いた。
自分のせいで落としてしまったのは現状から鑑みて明らかだと真田は思い、急いで散らばった書類を集める。少し遅れて、柳生も床に広がったプリントを拾い始めた。聞こえるのは紙と紙が触れ合う音と、何処か遠い部活動の声だけ。

と、その時だった。黙々と片付けていた真田の耳に、聞き慣れない音がした。何か高い音の楽器が吹かれたような、軽快な物音。
しかし書類を落とさせてしまった気まずさもあり、真田は視線だけで音のした方を見る。音は、柳生が笑っていた声だった。
柳生は真田が笑っている自分に気付くと、笑みをより柔らかいものへと変化させる。美術の教科書で見た女神の如く美しくそれでいて優雅な微笑み。真田は息をするのも忘れてただ呆然と見惚れていた。

「懐かしいですね。」
「…なつか、しい?」
柳生の言葉で我に返った真田が呼び掛けの言葉を繰り返した。懐かしい、ということは前にもこんな状況が。真田は即座に中学時代の記憶を遡る。放課後の夕暮れ、散らばったプリント、2人きりの―――思い出した。
中学1年の秋、今と同じような夕焼けの中、旧生徒会室で。今の今まで完全に忘れていた、最初の出逢い。思い至った真田が顔を上げるとそれを見透かしたように柳生の目が細められる。

「…1年生の頃、初めて貴方と出逢った時も、こうして2人で落ちたプリントを拾っていました。」
真田は風紀委員、柳生は生徒会役員としてそれぞれの資料を探しにやってきた旧生徒会室。お互いに認識が無く、気にも止めていなかったが、同時に同じ資料に手を伸ばしてしまった。しかしその時、お互いが譲ろうと視線を合わせたところで手を引いてしまった。
取り出しかけていたファイルは受け取り手を無くして床に落ちる。散らばってしまった書類を見て、2人はまず顔を見合わせた。そして、一緒に拾い始めた。

柳生と話したのはこれが初めてだったと、真田は脳内で流れる映像を確認する。それをどうして今の今まで忘れてしまっていたのだろうか。そして、何故今になって思い出したのか。
答えが無いかと真田は柳生を見るが、柳生は曖昧な笑みを浮かべているだけだった。当たり前だろう、忘れていたのも思い出したのも、自分自身なのだからと真田の中で戒める声が聞こえた。
「もうすぐ、卒業ですか。」
時間の流れは早いものです。柳生は真田の拾い集めたプリントも受け取り、クリアファイルに戻す。真田は一人置いていかれたように感じたところで、ようやく普段通りに頭が回り始めるようになった。
「…まだ少しはあるぞ。」
「そうですね。でも入試の頃には自由登校ですから。」
言われてようやく真田は気付いた。あと数ヵ月で柳生とは学校が離れてしまう。それはつまり、今のようには会えないということ。
柳生を見ると意味もなく動悸や思考停止に近くなってしまう現状から考えれば喜ばしい筈なのだが、真田は胸に穴が開いたような感覚を感じた。それは自分の心が空になったのがイメージで見えてしまいそうな程の空白だった。

「…では、私はそろそろ帰りますので。」
書類を回収し終わった柳生は立ち上がり、身体を反転させる。真田もつられて立ち上がり、一瞬迷った。
手を伸ばすべきか、伸ばさないでいるべきか。先程の光景がフラッシュバックし、決断を鈍らせる。
しかし、と思い直す。行動をせずに後悔することほど、馬鹿げたことはない。行動をしなければ、何も始まらない。俺は今―――。
―――手を伸ばさなければならない。
普段から考えればどうということのない行為。だが真田にとっては、自分の人生が変わるような、そんな重要な行動に思えた。
ファイルを持っている右手の首を掴むと、驚いた顔した柳生が真田を見た。更に一歩踏み込まねば、と真田は脳をフル回転させて現状を説明する言葉を探す。逡巡の後、閃いた言葉が口を突いた。

「一緒に、帰らないか?」

言った数秒後に真田が気付いた。これでは手を掴んだことの全く説明にも弁解にもなっていない。何をいっているんだ俺はと顔が熱くなり、思わず視線を反らしてしまう。
言われた柳生はしばらく硬直していた。そして、今の状況を理解するとあぁと一言呟いた。真田はその声に顔を上げる。
見えたのは微笑む口元と優しげな瞳。ようやく真田も、理解することが出来た。

初めに出逢った時のことを思い出したのも。意識してしまいいつも目でその姿を追っていたことも。あの日『美しい』と感じたことも。そして今、この手を掴んでいることも。
指先から伝わる少し低めの体温が心地好く肌に溶けていく。自分だけに向けられた微笑みに目を、心を奪われる。永遠にこの時が続けばと願ってしまう。
それは全て、『恋』なのだということを。

「…えぇ、一緒に帰りましょうか。」
「あっ、あぁ、すまんな引き止めて。」
「いえ別に構いませんよ。」
訳の分からない感情にようやく収まりどころが見つかり、真田は深い安堵の息をつく。その顔にうっすら笑みが浮かんでいるのを見て、柳生は再度笑った。

「………から。」

小さく呟いたその言葉に真田は音として気付くが、よく聞こえなかった為尋ねる。しかし柳生は二度言うことは無く、ただ微笑んでいるだけだった。



[Fin.]


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