[病肓膏に入る](37→89)





校外パトロールの申請を終え、職員室から教室に戻っていると後ろから声を掛けられた。
真田君、と呼んだその声の主は本を胸の前に持ち、手を振っている。専門書だろうか、その本は革張りで重みがあるように見えた。
話を聞くと案の定中等部エリアに隣接する大学の図書館に行っていたようだ。借りたのは運動に関する人体の仕組みについての本らしい。
自分はみんなのように小さい頃からテニスをしていた訳ではないから、と柳生は謙遜する。が、読書をはじめとするそのたゆまぬ努力の姿勢こそが好ましいと真田は常々考えていた。
スタートラインは確かに他の部員達の方が早かっただろう。しかし柳生はその差を乗り越え、立海の正レギュラーの座を自らの手で奪い取った。
白く細い手には積み重ねてきた練習の跡が生々しく残っている。肉刺が潰れ、テーピングをしてレギュラー戦に臨んだことも一度や二度ではない。今の涼しい顔とは似ても似つかないほどの殺気を纏った時には、皇帝と呼ばれる自分であっても背筋が凍る思いがした。真田は横目で柳生を見ながらそう思い出していた。
教室に入ると、柳生が自分の席に着こうとしたので、真田はその前の席を借りる。本の内容にも興味があったが、その本を選んだ柳生にも興味があった。
何故この本を?と真田が尋ねると、幸村君からと柳生が本に視線を落としたまま答える。出てきた名前に真田はぴくりと反応した。
幸村君から、私の動きには無駄があり、力が効率的に移動していないとの指摘を受けまして。そもそも効率的な力の移動とは何かがイメージできなかったので、この本を借りた次第です。流暢に答えながら、柳生は早速本文を読み始める。器用な奴だと真田は感じた。
活字を目で追う柳生を真田は見ていた。本に集中しているのであれば、話し掛けてはならないだろう。だが、かといって他に用がある訳ではない。その上昼練には中途半端で次の授業までにはまだ充分な時間帯であり、動く理由が見当たらない。
真田は椅子の背もたれに腕を置き、肘をつく。左手に顔を乗せると、改めて柳生を眺め始めた。
頭。思った以上に明るい茶色の髪は夏の昼の陽射しに負けないほど鮮やかで、それでいて普段の性格を表すかのように真っ直ぐ伸びている。
顔。整った顔をしているのだろうが、如何せん眼鏡のせいで表情はいまいち分かりにくい。しかし時折覗かせる瞳は切れ長で、結果整った顔なのだろうなとの推測がもたらされる。
指。繊細な印象とは異なり、傷やしこりだらけの指だがその白さと相まって持ち主の底知れぬ情熱が疼いているように見えた。案外骨の形が出ているのだな、と真田は思った。
2人しか居ない教室は何処か緩い緊張感が漂っていて、真田には居心地が良いのか悪いのかどうかよく分からなかった。
それには全く気付かないのか、柳生はページを捲る以外の行動を見せない。目は活字を追い、指は紙を押さえる。読書に没頭しているのだろう。

その時不意に真田の脳裏にある言葉が浮かんだ。『美しい』。
その形容詞が意識された瞬間、真田の見ていた世界が一変した。木漏れ日のような色をした髪も、人を射抜くような瞳も、均整のとれた指先も、自分は『美しい』と感じていたのだと。
すると真田の目には目の前に居る柳生の姿が、まるで一枚の絵画のように映る。教室に漂っていた緩い緊張感も、この絵を構成する要素の一部なのだと真田は無意識の内に理解していた。
『美しい』のか。真田が独り言を呟くと、一瞬遅れて柳生が顔を上げた。どうしましたと問う柳生の、不思議そうな表情に真田ははっと我に返った。
何でもないと慌てて取り繕うと、柳生は不思議そうな顔のまま本に戻った。そしてまた無言が始まる。
真田はさっきまでの自分を反芻する。『美しい』と感じたのは一体何であったのか。確かに柳生は武骨で面白味のない自分よりも、端正でどこか優雅な部分があるだろう。しかし『美しい』とは一体どういうことだ?
自分のこととは言え、あまりにも突発的かつ衝撃的なその問題提起に真田は小さく呻いた。すると、再び柳生が顔を上げた。
大丈夫ですか? 心配そうに尋ねる柳生の表情は普段通りのものだ。しかし、真田はその表情に心を奪われた。
美しい、秀麗、艶やか。思い付く限りの美しさの表現が頭をよぎるが、そのどれもが適切ではない。何と返事をしていいものか見当もつかず、真田はただぼんやりと柳生を見つめていた。
真田君と何度か呼ばれたのに気付いた時には柳生の顔が近付いていた。それを理解した瞬間、真田は自分の顔が沸騰しそうな勢いで紅潮したのが分かった。
柳生の手が真田の額に当てられる。少し熱っぽいかも知れませんねと言われ、首に手を伸ばされる。何故か急に心拍数が上がったのが分かり、無意識の内に悟られまいと真田は身体を後ろに反らす。
あ、と避けた真田に気付いた柳生が声を上げるのと、遊び終わったクラスメイト達が次々に教室に入ってきたのは同時だった。
もうこんな時間ですか、と柳生は本を畳み、壁時計を見上げる。真田は柳生の指を避けた自分に驚いたまま固まっている。
机の上を片付けながら、柳生が体調に気を付けるようにと真田に言う。真田は珍しく生返事を返しながら、急いで自分の席に戻った。

何だったんだ、今のは。一先ず痛みを感じるほど打ち付ける鼓動を抑えようと深呼吸をする。が、心を落ち着かせようとすればするほど、さっきまでの光景が頭に焼き付いて離れない。
本を読む柳生の姿、不思議そうに首を傾げる柳生の姿、心配げにこちらを見る柳生の姿。なんだ、普通のことだろうと思おうとすればするほど真田の頭の中では嵐が吹き荒れる。
頭を抱えた隙間から、ちらりと柳生の背中を見た。それと同時に胸にずきりとした痛みと背中に何とも言えない感覚が走る。一体どういうことだと真田はますます困惑した。
そうこうしている間に予鈴が鳴った。教科書とノートを出すも、まだまだ顔の熱は収まりそうにない。くそっと真田は小さく悪態をついた。
どうして俺はこんなに困惑しているんだ、柳生のことで。
柳生、と自分で思っておきながら真田は再び胸の痛みと発汗を認識する。ますます真田の思考が混迷を極めるのもむなしく、本鈴はいつもの通り授業開始の合図を流したのだった。


真田の胸の痛みと悪寒に答えが出るのはこの日から約半年後になる。
が、今の真田にはそれを知る由もなく、柳生を見る度に起こる原因不明の病に悩む日々がこうして幕を開けたのであった。



[Fin.]


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