少女たちは昼に眠る


あれから街の様子がまったく違って見える。
裏側の色を知ってしまったから、表がくすんで見えるのかもしれない。


 なんの変化もない日々が、しばらくの間つづいていた。ただの学生である自分に変わったことなどそうたびたび起こるはずがない。学校生活を送り、受験勉強をし、週に数度ジムへ通う。穏やかながら充実はしている。しかしあれ以来、赤林さんがジムに顔を出すことはなかった。あるいは私のいない日に来ているのかもしれないが、偶然にしろ必然にしろ胸が痛むことだ。時間とともに引いていくかもしれないと思っていた熱は、一向に冷めることなくむしろ行き場をなくし膨れ上がっている。ため息にして出さないことには破裂して死んでしまいそうだった。

 そんなめいっぱいの体を引きずって、街をさまよっていた時のことだ。それは不意にやってきた。立ち止まった信号待ちの歩道で、スマホに伏せていた視界が少しだけ陰った気がした。おや、と思い顔をあげる。そこには影よりも濃い色をした真っ黒な男が立っていた。信号が青に変わり人の波が交ざり合う。けれど私は動くことができず、彼の端正な輪郭とその下につづく喉のラインを見ていた。

「ちょっといい?」

 手招きをされ交差点の脇に寄る。彼は歩道を仕切る鉄柵の上に腰をあずけ、私の前に携帯をかざした。

「このマーク、見覚えないかな」

 道端でかけられた声など、普段ならそそくさと躱し逃げるところだが、なぜだか彼の問いかけは無視することができなかった。ただのナンパではないケレン味に溢れていたからだと思う。それなら余計に危ないのだから逃げるべきなのだろうけれど、街の裏側への憧れを募らせていた私は吸い寄せられたように画面から目を離すことができなかった。

「……ええと」
「ああごめんごめん、急に言われてもって感じだよね。新宿近郊でイベントのプランナーをしてる者なんだけどさ、ここらの治安が気になって。これ、この辺りで違法ドラッグをばらまいてる奴らが入れてるタトゥーらしいんだ」
「ドラッグを?」
「そう、最近は近辺の高校生がえじきになってるって聞いたものだから。その制服、来良だよね?」
「……はい」
「俺もあそこの出身なんだ。まあ、君みたいな子は無縁かもしれないけど」

 映しだされたマークに見覚えはなかったけれど、彼の目の色はどこかで見たことがある気がした。既視感を思い出せず、言葉を濁す。

「ええと、よく覚えてないですが、たぶん知らないと思います」
「……覚えてないってことは、何か身に覚えがあるのかな?」
「……いえ。あの、はい、少し」
「ふーん? そういえば、来良の学生が立て続けに病院送りになったのは数ヶ月前のことだったね。もしかしてそれに関わってたりする?」
「友達が、巻き込まれて……私も少し」
「なるほど」

 彼はそう言いながら、なぜだか嬉しそうに頷いた。イベントプランナーと言っていたが、浮世離れした雰囲気は業界特有のものなのだろうか。プランナーどころかステージの上に立ったって十分映えそうな顔立ちをしている。彼は池袋で最近起こったドラッグ絡みの事件をいくつか並べ連ねたあと、声を少しだけ落とし「まあ、あの辺りは赤林さんがケツ持ちしてるからこれ以上広がることはないと思うけどね」と言った。思わず顔を上げた私に、彼は飄々と問いかける。

「あれ? 知ってるの?」
「いえ……」
「意外づくしだなあ。君みたいな真面目そうな子が、そのスジの人間と関わりがあるなんて」
「詳しくは、知りません。ただ一度助けてもらったことがあるだけです」

 なんだかさっきから、言わなくてもいいことをどんどん口にしている気がする。彼はさまざまな話題を振りながら、私の反応に合わせ会話を掘り下げている。このまま話し続けたら、小一時間ほどで私のプロフィールはすべて暴かれてしまいそうだ。近頃は、今までに遭遇したことのないタイプの人間と関わることが多い。そう思いいくつかの顔を脳裏に浮かべ、私はようやくあることに気付いた。既視感の正体は以外と身近なところにあった。

「あの、お名前を聞いても」
「名前? どうして」
「もしかして折原さん、ですか?」

 彼は一度瞬きをし、その後ゆっくりと目を細める。やはりそうだ。気づいてみれば、彼の瞳はかの双子とそっくりな形をしている。

「舞流ちゃんたちのお兄さんですよね」
「……なに、あいつらとも繋がってるの?」

 少しだけ声色が変わった気がして、身がこわばる。舞流ちゃんは喋ると同時に手が出るようなアクティブさがあるが、それが兄譲りだとしたら私は今相当危ない。習いたての護身術ではどうにもならないと思いつつ、応戦の構えを思い出す。

「意外もここまでいくと鬱陶しいな」

 しかし意気込みは杞憂だったようで、折原さんはさらりとそんなことを言い、言葉とは裏腹に綺麗な笑顔をつくった。

「まあいいや。俺の名前は折原臨也。新宿周辺で情報屋を営んでる者だよ。イベントプランナーって言ったけどあれは嘘」
「嘘……? 情報屋……?」
「その名の通りの職業さ。君も何か知りたいことがあれば俺に聞くといい。もっとも口にした瞬間から料金が発生するけどね」

 早回しのような展開に、振り落とされそうになりながらも考える。彼は自分を情報屋と言い、赤林さんもまた彼のことを知っている風だった。目の前に差し出されたのはまさに据え膳だ。今最も欲するものをお金で買えると言われれば、財布の中身をたしかめてしまうのは人の性である。

「例えば……」

 言いかけてしかし、私はなんとか踏みとどまった。街の裏側に興味はある。けれどそちら側に足を踏み入れたいわけではない。彼のおかげで踏み越えずに済んだ境を、こんなところで自ら超えてどうする。

「いえ、なんでもありません」
「粟楠会幹部の個人情報、なんてものでも条件次第じゃ承るよ」

 彼は人の心が読めるのだろうか。背筋が粟立ち、足が震える。そのわりに彼から離れることができない。

「そうだな、君みたいな学生がどうしてヤクザと関わろうとなんてしてるのか。非常に興味深いから、それを教えてくれるなら料金も大幅にまけてあげよう」
「……頼むなんて言ってません」
「怖がらなくても、守秘義務はきちんと守るよ?」
「そうじゃなくて……この気持ちはとても個人的なものだから、お金を払って人に探ってもらうのは嫌なんです!」
「個人的な気持ち? 」

 ムキになってしまったことと、その内容の恥ずかしさに首筋が熱くなるのがわかった。じりじりとのぼってくる熱が耳に達しようという時、はじけるような笑い声が飛び込んできて、冷水をかけられた心地になる。

「アッハハハ!! 一介の女子高生が博徒に恋か! ずいぶん劇的な出会い方をしたんだろうねえ。面白いといえば面白いし、ありきたりといえばありきたりだ」
「……」
「あの人は今時珍しいフェミニストだし、とくに薬が絡むと熱くなるみたいだから正義のヒーローに見えたっておかしくはないよ」

 今すぐ踵を返したいのに、やっぱり足は動いてくれない。私の背後で信号は何度青になっただろう。流れつづける人ごみの中でここだけ時空が滞っているようだ。街の裏側なんてものは夜の中だとか、ビルの影だとか、そんなところにあるのだとばかり思っていた。けれど非日常というものは大通りの真ん中にだって存在するらしい。

「けどね、勘違いしない方がいい。彼はあくまでヤクザだ。君の知らないところで汚いことだってたくさんしてる。刷り込みのように都合のいい幻想を抱くのは自由だけど、勢いあまって幻想に抱きつこうものなら、肩透かしを食らい怪我をするのは目に見えてる」

 一方的にまくしたて、彼はこちらの反応を求めるように首を傾げた。そんな目で見られたって、とりいそぎ示せることといえば彼に対する不快感くらいである。妹たちが口にした「ヤクザよりろくでもない」という言葉を今になって噛み締めていた。


つづく
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