東京の雨は独特の匂いがする。
 田舎のそれと同じ現象とは思えない、石油工場のようなすえた匂いだ。見たところ空がそんなに汚れているとは思えないので、これはきっと地面の匂いだろう。濡れたコンクリートは往来する無数の人々の靴の裏を日々舐めとっている。こうまで人が多いのだ。さまざまなものがこびりついているだろう。タール、食べカス、排気ガス。東京は不純物が多い。
「久しぶりだね」
 フードを被った男は、音もなく目の前に立ち、そう言った。
「人違いです」
「確信を持ってそんなこと言うなんて本人の証拠さ」
 私の傘の端を持ち上げて、折原臨也は笑っている。見紛うはずもない端正でいて胡散臭い笑顔。私はこの顔が嫌いで、憎く、そしてたまらなく好きだった。本当にこの街は不純物が多い。こんな男を雨の内側に匿っているからおかしな匂いが立ち上るのだ。
「タオル貸してよ」
 濡れた前髪が繊細なまぶたをひったりと覆い隠している。少し髪が伸びただろうか。


「私、出かけようと思ってたんだけど」
「再会で棒にふる程度の用事だ。大したことじゃないよ」
 いけしゃあしゃあと言いながら来客用のフェイスタオルを被る男は、相変わらず遠慮や謙虚といった言葉と縁がないらしい。会わない期間が長ければ長いほど、彼に改善の余地がないことを思い知らされる。彼との再会がやっかいな理由はそれだ。
「君さ、会ってからずっと失礼なこと考えてない?」
「私は臨也と出会ってからこっち、ずっと失礼なこと考えてるよ」
「そこまで遡れとは言ってないけど」
 思えば良い人間だなんて思ったことはないのに、なにがどうしてこうなってしまったのだろう。意外な優しさや思わぬ寛容にぐっときてしまったのなら、それはまさしく映画版ジャイアンの法則であり限りないマイナスが多少ゼロに近くなっただけのことだ。惚れる理由になどなりはしない。
「死んだと思ってた」
「死んでほしかった?」
「そんなわけ……」
 そこまで言ってしまってから、馬鹿らしくなって下を向く。
「……殺してやりたい」
 なにを言い換えたのか、それとも本音か、自分の心すらわからず途方にくれる。やっぱりこんな奴は道端にほおったまま買い物に出かければよかったのだ。今日が雨じゃなかったらきっとそうしていた。これだから梅雨なんていう季節はろくなものじゃない。髪はまとまらないし頭痛はするし、うっかり昔の男にほだされたりしてしまう。
「泣くなよ。さすがの俺も胸が痛む」
「ウソばっか。臨也はいつでもウソばっかだ。言葉も気持ちも表情も、本当のことなんてなんにも教えてくれない。私はもう……」
 出会ったころから何を考えているかなんてさっぱりわからなかったし、そこが楽だとも思っていた。
「騙されてあげられるほど、馬鹿じゃなくなっちゃったから」
 けれど今は違う。意外と単純な男だと知っているし、ウソだってそこまで上手くない。負けず嫌いでこだわりが強く、臆病なわりに逆境にばかり立つ人だ。
「それは随分……自己評価が高いってもんじゃない?」
「真面目に言ってるのに!」
「痛い痛い、毛が抜けるだろ!」
 腹が立ったため、頭上のタオルに掴みかかり両側に引っ張る。「こんなに激しい女だったかな……」なんてブツクサ言いながら片膝を組んでいる男にこれ以上してやれることなんてない。そう思い立ち上がれば、湯沸かしポットがかちりと鳴った。
「お湯が沸いたよ」
「わかってる!」
 スタンバイさせていた自分用のマグに、ハーブティーを入れて気を落ち着かせる。心に良いカモミールだ。鎮静効果に安眠作用、頭痛、二日酔い、花粉症に効く万能のお茶なので折原臨也にも多少効くだろう。
「俺にはないの」
「私のお湯! 私のお茶!」
 そう宣言をして、私が二杯のカモミールティーを飲み終えるまでのあいだ、彼はただじっと私を眺めていた。だいぶ居心地が悪い気もしたが、何気ない素振りでスマートフォンに目を走らせる。
「あのさ……」
「んー?」
「なにしに来たの」
「なんだろうね。俺はお茶を飲みに来たつもりだったけど」
「へえ、失踪した男が元カノの家にお茶をねえ」
「君さ、そういう物言い俺に似たよね」
 率直な指摘に、ガーンと音がするようなショックを受ける。
「昔はそんなひねた言い方しなかったよ。もっと素直だったし、こんなに激しくなかったし」
 言われてみればそうかもしれない。臨也と関わりはじめてから、私はどんどん気が捻くれているし気性も荒くなっている気がする。人を疑うことを覚えたし、諦めることにも幾分慣れた。口が悪くなり、我が強くなり、そのわりに心が弱くなった。なんということだろう。こんなんじゃいくら元彼を無視したところで、新しい恋人なんてできやしない。
「責任取らなきゃね」
「は……」
「結婚でもしようか」
「え」
 マグを置いて、聞き返す。確認すべきは彼の正気だ。
「臨也、死ぬの? 私この歳で未亡人になんて」
「アメリカでも飛ぶ?」
 求婚に不吉さを感じさせるこの男と添い遂げる自信はないが、もうなにもかも面倒くさくなった私は遠い海の向こうへ思いを馳せた。
「……シカゴがいいな」
「俺は西海岸がいい。おやすみ」
 いつの間にか横になっていた臨也は、そう言ってごろりと後ろを向いた。すっかり日の暮れた窓の外にはまだ細かな雨が降り続けている。カリフォルニアでサメに襲われる夢でも見てうなされればいいと思う。つられてなんだか気が緩み、私もとろとろと横たわった。鎮静効果が思いのほか効いている。目が覚めたときこの男の姿がきれいさっぱり消えていることを願いながら、シカゴの大地を思い描く。
 からりと晴れた青い空だ。不純物などなにもない、砂と枯草と、どこまでも続くハイウェイ。似合わなすぎて夢にしたって笑えてしまう。ふわりと前髪を風が撫でる。とても優しく、懐かしい風だ。

material from free-photo.net | 18.05.14 tsujico




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