私の問いかけに彼は一度振りむいて「ん?」と首を傾げた。
人好きする目つき。そつのない表情。一見して後ろぐらいところなんて一つも見当たらないこの男に、どうしてか汗をかくことがある。
「それって、えーとどれやっけ?」
「……ん、なんでもない」
「なんや気になるやんな」
それはほんとうに何気ない日常会話だったのだけれど、返事をして五秒、自分がとても的外れな返しをしたのではないかと不安になった。思わず聞き返すが彼はとぼけて笑うばかりだ。そんなことは時おりあった。
人の心に波紋をよぶ石をぽちゃりと投げ込んでおいて、意味を問えばひょうひょうとかわすのだ。そこに他意はないのか、それともしらばっくれているのか。後者ならたちが悪いが、前者のほうがより悪い。
「ところでこんなところで油売っててエエの?」
「侑くんこそ部活は?」
「知っとるやろ、今日はお休み」
放課後になっても制服を着たままの彼が、スクールバックを肩にかけ階段を下りていく。一緒に帰るつもりはないが、急いでいることは事実だったためそのまま後を追った。靴を履きかえ、門を出る。一定の距離をたもちながら駅までの道を歩く私に、彼はもう一度振り返り、今度は少しだけ眉をゆがめた。
「心配せんと追い越し。一緒にならんようゆっくり歩いたるから」
「べつにそんなんちゃうよ。侑くんこそ意識しすぎ」
「せやな。……治とは昔っから女の趣味があわへんねん」
その言葉の示すところは鈍い私にもさすがにわかった。聞き流すにはだいぶ大きな石を投げ込まれ、ぶくぶくと心の底がうずまいていく。こんなときに限って言い返すこともできないのだから意気地がないと思う。黙り込んだ私がとぼとぼと横に並ぶまで立ち止まり、彼は素知らぬ顔で歩きだす。彼の双子の兄弟である宮治と、こんなふうにして二人で帰ることが増えたのは最近のことだ。付き合っているわけではないのだと思う。だからこそ同じことを侑くんとはしたくないのだ。
「あいつ話おもんないやろ」
「話とかようせんもん」
「ほんま? じゃあ何するん?」
悪びれず会話をつづける侑くんに適当な相槌をうちながら、赤くなった膝小僧を見つめる。一度冷えると夜まで冷たいままだから、冬はあまり好きじゃない。冷え性なのに今日は手袋を忘れてしまった。手のひらを小さく握っては開くことを繰り返していると、彼は少しだけ目を細め、それから通りの反対側へ顔を向けた。もうすぐ駅に着く。高架下に私鉄の音が響いている。
「な、向こうでアイス食べへん?」
「え?」
「アイス。今日安いって」
「……冬やし。それに私このあと用事が」
「冬のアイスは格別やろ。それ遅れたらあかん用?」
部活がない日は一緒に帰ることの多い治くんが、今日は早々に教室を出て行ったことが気になっていた。LINEの既読もつかず、今さらどうすることもできないのだけれどなんとなく、以前一緒に入ったカフェに足を向けたかった。そのときも偶然だったのだ。いまいち身の入らないテスト週間、ため息をつきながらラテの氷を揺らしていたところ、向かい合わせのカウンターで同じようにしていたのが治くんだった。彼は私に気付くと「あかんな」と笑みを浮かべ、単語帳のリングをくるりと回した。長く綺麗な指だった。
「あかんの」
「待ち合わせなんてしてへんのやろ?」
「……」
「アポあるみたいやもん、あちらさん」
同じように長い指がすうとさした先に、またもや偶然がころがっていた。今度は私にとって都合の悪いやつだ。壁の大きな広告に背を預け、彼は誰かにむかって手を伸ばしている。誰かは見慣れない私立の制服を揺らしながら、うれしそうにその手をとった。
「ゆうたやろ、治とは女の趣味があわんて」
侑くんはそう言って、冷えた私の指先に触れる。そっくりだけれどちがう指。どんなに優しく包んでくれたって、私の手は一度冷えたらずっと冷たいままなのだ。
「やっぱアイスはやめとこか」
頷いて背を向ける。どこかここではないところで、あたたかなものが飲みたかった。