三年番茶と創世記

 「ホンモノを見つけたんだ」

 彼はそう言いながら嬉しそうに川面を見つめていた。

「一つの時代に、聖女は幾人もいない。いたとすればそれは……」

 水筒のお茶がちゃぷりと鳴って、彼の目がこちらを向く。私は身構えることもせず、ぼんやりと続きを待った。昔から先手を打つことが得意でない。

「どちらかがニセモノということさ」

 笑顔にみえるのに感情をともなわないその顔が嫌だ。生きているのに死んだようにみえる瞳孔の開きも。決してまじわらない種族同士と痛いほどわかるのに、なぜ彼は私の腕をつかむのか。

「それなら、もう私に用はないはずです」
「そう言うなよ。聖女でないにしろ、君も俺の好みであることに変わりはない。苦難を乗り越え、天へ昇ってほしいと思ってる」
「……天国ってそんなにいいものでしょうか。死んじゃったら元も子もないのに」
「魂の昇華こそ、人々が求めるべき最上の道だよ。俺は君にその価値があるか、ずっと眺めてきた」

「天国へ行きたいと思わない?」彼が初め、そんなことを言いながら近づいてきたとき、俗人である私はこれが噂に聞く脱法ドラックの売人というやつか、と身を震わせながら首を振った。

「く、薬には興味ありません」
「薬? まさか。そんな簡易的なものじゃないよ天国って」

 薬でないなら宗教勧誘だろうか。もしくはアダルトビデオのキャッチスカウト? それとも春の陽気のせいで気が大きくなった新進気鋭の詩人だろうか。頭に浮かぶ下世話な可能性を吹き飛ばすように、彼は指先ひとつで土手の下の川を割り、私の探し物を見つけだした。

「友達のかな?」
「……ここで落としたと言ってたから」
「親切なんだね」
「ちょっと探して、なかったら帰るつもりで」
「かれこれもう二時間はここにいる。靴がどろどろじゃないか」

 見つかるなんて思っていなかったし、忙しければわざわざこんなところに来やしない。偶然暇をもてあまし、ちらりと川辺に目を向けているうちに、幼いころ同じように大切なものを落としたことを思い出したのだ。そうして気づけば数時間が経っていた。こちらの土手から向こうの橋げたの袂まで見て、みつからなかったら諦めようと宝探しのつもりで草葉を分けた。
 不自然に水の引いた川を見ながら、そういえば大昔にもこんな奇跡を起こした人がいたらしいと思う。無信心な私だって知っている逸話はしかし、悪魔の所業などではなかったはずだ。それはどちらかといえば──。

「聖人や聖女と呼ばれる者が、この世にはいる」

 彼は自分の存在を明かし、自分の求める人間を語り、それらの人を導くのが「試練の悪魔」である自分の意義だと宣った。
 自分を人外だと言い張る人間がある年齢に差し掛かったころ増えることは知っているけれど、彼はそれより少し年上に見えたし、浮世離れした雰囲気や、なにより引いた水が川底に流れ込むザアザアという音に後押しされるよう、私はすっかり彼の言葉に飲み込まれていた。中二病と言うにはあまりに底知れぬ迫力があり、精神がイカれているというほどのちぐはぐさもない。判断能力の鈍った私はとりいそぎお礼を言い、天国には行かないけどお茶くらいなら、というわけのわからない約束をしてその日はさよならをした。

 マステマと名乗る悪魔との付き合いはそれから数ヶ月、こうして川辺で水筒のお茶を飲んだり、ちょっとしたお菓子を食べたりという呑気なものとして続いている。悪魔とピクニックをする中で気づいたことは、彼がかれこれ数千年は生きていること、その間さまざまな人物の命運を見届けてきたこと、そこに彼の恣意的な力が及んでいること、などだ。
 彼は嬉しそうに「ホンモノ」の話をし、暇つぶしである「ニセモノ」に哀れみの目を向ける。

「試練は人を変える。君だって今から聖女になれるかもしれない」
「……」
「なにがいい。迫害? 災害? 政治的弾圧、思想の剥奪……不治の疫病なんてのもある。君を突き動かすものはなんだろう」
「……試練なんて」
「要らない?」
「要らないと思ってたけど、もう遅いみたい」

 私の言葉に彼は初めて真顔をつくり、不思議そうに首をかしげた。川の水はいつもどおり、上から下へ流れている。

「千年生きた悪魔に想いをよせるなんて、それ以上に残酷な試練がありますか」

 マステマは少しの沈黙のあと目を細め、やはり暗い瞳孔のまま、笑顔のようなものをつくった。

「千年? 二千二百年は生きてるよ」

 年の差なんて、十を超えればみな同じだ。苦難の道に変わりはない。
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