少女たちは昼に眠る



右目の傷がわずかに痛む。左目には彼女がうつっていた。

 情報屋のことを人間として嫌っているかと聞かれれば、否だ。のらりくらりと煙に巻きつつ、自分のルールに従い生きているところには親近感すらわく。嫌悪はない。しかしひどいものだとは思う。それは自分に対しても同じことだ。お互い様だからこそ、落としどころを探して棲み分けるほかない。挑発の言葉を織りまぜながらこちらの領域に踏み入っていた情報屋は、俺の牽制を受け言葉を止める。そしてあっさりと踵を返した。

「そうですね。これ以上調子にのると良いことはなさそうだ。彼女からは手を引きますよ」
「そうしてくれると助かるねえ。おいちゃんも、ここでこの子に非行に走られると寝覚めが悪いんだよ」

 非行だなんて随分白々しい言葉とは思うが、彼女の今までの人生を考えればそうだろう。きっかけは友人との遊びかもしれない。けれど彼女が今ここにいる理由はおそらく自分にある。すでに情報屋に目を付けられている以上、すっとぼけても意味はないだろう。それならきちんと威嚇した方がマシだ。
 慇懃に頭を下げVIPルームを出て行った彼を、彼女はどう思ったのか。きちんと防衛本能が働いてくれていればいいが、自分に近づこうとしているような子だ。あまり期待はできない。目だけで見送り少女に視線を戻すと、彼女はそちらへは目もくれず俺だけをじっと見つめていた。いよいよ重症である。

「危ない遊びはやめたんじゃなかったのかい」
「……遊びじゃありません」
「そりゃますます困ったね」
「ごめんなさい、ありがとうございました……あの、私赤林さんのことが好きなんです」
「えーと」

 彼女は謝罪と礼を述べた後、さらに重ねて気持ちを告げた。

「どれに、どう返していこうかね。おいちゃんはもうオッサンだからさ、若者のテンポには着いていけないんだよ」
「せっかく心配してくれたのに、こんなところに来てしまってごめんなさい。あの人との会話を遮ってくれて、ありがとうございました。彼の手を取っていたら、きっと戻れないところへ連れて行かれていたんだと思います。それで……ええと、赤林さんのことが、好きです。初めて会った時から、ずっと好きなんだと思います」

 律儀な彼女はていねいにそう言い直し、俺を見上げた。薄暗い部屋の中、わずかな光を集めるようにしてやはりその目は輝いている。不穏な空気を察してか、いつの間にかちらほらいた客たちはみな退去していた。厚い壁の地下室には自分と少女の二人しかいない。どんな法律も世間体もここには入り込めないだろう。

「一応聞くけど、好きっていうのは愛だの恋だの、そういうことかな」
「男性として好きです。会ったり、触れたりしたいんです。ご、極道の情婦になれるような魅力なんて無いかもしれないけど」
「じょ……」

 彼女の発する赤裸々な言葉をなんとか受け止めていたけれど、最後のはさすがに聞き流せずおかしな声が出る。言うに及んで情婦とは、また大きく出たものだ。

「笑わないでください、本気なんです……」
「本気なことは、わかってるよ」
「じゃあ」
「けど駄目だ。せっかく情報屋の兄ちゃんの手から逃れたってのに、そんなこと言ってどうすんだい」
「……」
「それに、夜目もきかないようなお嬢ちゃんじゃ、こっちに来るにゃ危険すぎるよ」
「夜目なんて、きかなくていいんです。赤林さんさえ見えてればそれで」
「おいちゃんの周りは汚いかもしれないぜ? 薄汚れてて、危なっかしくて、びっくりしちまうかも」
「関係ありません。どうせ見えないんだから」
「参ったね」

 へらへら躱しやがって、と同僚に嫌がられることは多いが、これは躱すにも限界がある。力でかかって来る者ならその勢いを利用していくらでもすっ倒せるが、こんなふうにじりじりと想いを向けられてしまえば護身術も武道も用をなさない。

「羨ましかったんです。あのとき彼女が」
「彼女?」
「あなたに抱えられて、ていねいに扱われた友達のことが羨ましかった。赤林さん、私、品行方正に生きます。勉強して親の言うこときいて、良い大学を出てきちんとした会社に就職するって約束します。だから、赤林さんと一緒にいさせてください」
「お嬢ちゃん、自分の言ってることがえらく矛盾してるってわかってるかな」

 杖に乗せていた重心を少しだけずらし、彼女の顔をのぞきこむ。

「わかってるよね。お嬢ちゃんは馬鹿じゃない。俺と関係していくってことは、社会の裏側と繋がるってことだ。いくら嬢ちゃんにそのつもりがなくたって、綺麗なままじゃいられないんだよ。いつか後悔する日がくる。そんなの、お父さんやお母さんが望んでると思うかい」
「あなたの言ってることはわかります。逆の立場だったら私だってあなたと同じことを言う。わかってるんです。……でも、好きなんです。どうしようもないんです。止められ、ないんです」

 狂おしいほどの情愛をほとばしらせる少女の両目が、うっすらと赤らんでいる気がした。もちろん俺の幻覚だ。彼女はその身に刀など忍ばせていないし、ましてや斬られてもいない。一度斬られた者としてそれはわかる。けれど彼女から向けられる途方もない熱量は、俺の中のとある記憶を呼び起こした。

「嬢ちゃん、本当に、勘弁してくれ」

 女の情というのはぬかるみのようなものだ。一度嵌ったら抜け出せない。そこにきっと年齢は関係ない。あたたかく心地いい泥の中に二人で浸かれたら幸せだろう。しかしそんな幸せは俺には荷が重かった。守るためといいつつ、これこそただの自衛だ。

「春からは大学生です。一年と少しで二十歳になります。もっと綺麗になれるように、努力します」

 駄目押しの言葉を連ねている彼女に、手を伸ばす。応えられないと言いつつこうして甘やかす自分はたちの悪い大人だ。情報屋のことをどうこう言える立場ではない。それがわかっていたからあの程度の牽制にとどめたのだ。そうでなければ殴っていた。奴に触れられていた丸い頬に、一度だけ手をすべらせ、溜息をつく。

「何言ってんだ、あんたは俺には綺麗すぎるよ」

 きっとこれからだってなりふり構わず向かってくるだろう彼女を、俺はいつまで躱せるだろう。自信なんてこれっぽっちもないが、せめて今だけは格好をつけさせてほしい。

「もう夜だ。帰って寝なさい」

 不満げな彼女の背を押しながら、タクシー会社に電話をかける。小さなその体を、めちゃくちゃにしてしまいたいという一片の欲望に蓋をするよう、地下室のドアを閉めた。店の外には細かな雨が降り続いている。このまましとしとと染み込んで、腹の熱を冷ましてほしい。そもそも不穏な火種を消すのが俺の仕事なのだ。




 裏へ飛び込もうとした体を、すんでのところで押し返され今日も境目を歩きつづけている。
 普通以上の強さを求め、なにかを成すため、自分を守るため、拳を振るうこの場所はまさに境界そのものだった。鋭い目をした年齢不詳の男。黙々とテープを巻く学生。くるくると舞う双子。人一倍幼い、おかっぱの少女。みなが表と裏の境で足を踏みしめている。

「茜ちゃん、もうちょっとしたら休憩にしよう」
「うん。そうしたらあと二本」

 彼女の動きは近頃ますます機敏になった。うかうかしていればすぐに足を掬われてしまう。何本目かわからない組手を終え、汗を拭きながらウォーターサーバーで喉を潤していると、隣に座った茜ちゃんが小さく「まだまだだな」と呟いた。切実な響きを帯びたその声に、私は思わず問いかける。

「茜ちゃんは、どうしてここに通ってるの?」
「やっつけなきゃいけない人がいるの」

 彼女はなぜか顔を赤くしながらそう言った。理由はわからなかったけれど、なんだかとても馴染みのある感情に思え頷く。

「やっつけられるといいね」
「うん。お姉さんは?」
「私は……やっつけたい人は、いないかな」

 打ち破りたいのは彼との間にある壁だ。私があちら側に落っこちないよう、彼が懇切丁寧に打ち立ててくれているそれを壊そうとしているのだから、恩知らずなものだと思う。

「赤林のおじさんが言ってたよ。誰かを守るための強さもあるって」

 底が伺えないほど透明な目をして、にこにこと笑っている彼女にだってきっと大きな壁があるのだろう。そして彼女もまた、その壁に敬意を払っているのだ。それでいて倒したい。さらには守りたくもある。矛盾しているだろうか。

「うん。強くならなきゃね」

 大いなる矛盾を抱えながら私たちは前を見る。そっくりな顔の双子が笑いながらこちらを見ている。じっとしていられない。なにかをしなきゃと思う。例えそれにより傷ついても、少し泣いて昼の空気にまどろめば、夜には目を覚ますことができる。太陽もネオンもめいっぱい浴びて、そしらぬ顔で昼と夜とを行き来するのだ。止められないこの熱も体も、きっと少女たちだけの特権なのだから。


おわり
2016.10.5
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