少女たちは昼に眠る



背後から襲われた時は、どう対処するのだったか。
考えているうちに耳元で声がした。


「静かに」
「はなして、だれか!……んう」

 抵抗をしようにも、腕を固めるよう取られてしまい体が動かない。強い力で押さえつけられているわけでもないのに体の中心線をずらす事すらできず、相手は私なんかよりずっと護身術に長けているのだと思った。

「静かにしなって。騒ぐと気づかれるよ」
「……! ……?」

 背後から回ってきた手のひらに口を覆われ、息がつまる。噛みちぎってでも逃れなければと必死でもがいていたのだが──ふと違和感を覚え、動きを止めた。その声にはたしかに聞き覚えがあった。盛大に馬鹿にするよう私を煽っていた、憎き声だ。内容と似つかわしくない爽やかなそれは耳元で聴くには少し甘すぎる。私が黙ったことにより顔からはがれた指は、長く綺麗な形をしていた。

「こんな風に、あの人も助けてくれたのかな?」
「……折原さん」

 彼はくすくすと笑いながら囁いた。背後から覗き込まれ、近い目と目にどうして良いかわからなくなる。折原臨也だと思った男は暴漢で、暴漢と思った男は折原臨也だったのだから頭の中は大混乱だ。

「あの、もう騒がないので、離してください」
「あれ? 俺には惚れてくれないんだ?」
「……折原さん、ほんとうに」

 茶化すように頬を撫でてきた指が怖くて、ぎゅっと目をつぶると、折原さんは「ごめんごめん」と軽い調子で体を離し大通りの方に顔を向けた。

「人が来たから散ったみたいだね」
「え?」
「さっきの奴ら。君のこと追っかけてたけど、ノリで悪さしてるような学生だよ。そんなにしつこく付け狙ってくることはない」

 そうは言うけれど、ノリで悪さをするような輩が一番怖いという事は身をもって知っている。そもそもどうして自分が目を付けられているのか、彼はそれを知っているのだろうか。問いかける前に手首をとられ、タイミングを逃す。

「行こう」
「……どこに?」
「どこがいい? 君の行きたいところに行こう」

 私はどこに行きたいのだろう。じっとしていられないことは確かなのに、裏の世界に行きたいわけでもなく、うずうずと身を持て余しているのが現状だ。答えられない私をよそに彼の足取りに迷いはない。私が本当に行きたい場所などわかっている、とでも言いたげだ。いつの間にか鮮やかな看板たちはなりをひそめ、くすんだライトやあやしげなネオンが闇の中に浮き立っている。

「本当に雑多な街だよね。昼は子どもの遊び場、夜は大人の遊び場だ。道幅のわりに高い建物が多くてさ、まるで迷路だよ」
「……くわしいんですね」
「ここらの路地は昔から駆け回ってるからね。体に染みついてるんだ」

 どうして駆ける必要があるのか、と思ったが聞かなかった。彼のような人間が走るとしたらそれは何かから逃げるときに違いない。私の知らない道を歩き回り、いくつ目かわからない角を曲がると、そこには当然のようにΜίδαςと書かれた看板があった。神話にでてくる神さまの名前だ。触るものをすべて黄金に変えるという。

「洒落た名前だけど、ここで生まれるお金はだいぶ汚れてるみたいだ」

 私の手を引いたまま、彼は軽やかに階段を下りる。鳴り響く低音と小刻みな電子音。シラフでだって充分、気が飛びそうになる空間だ。そんな騒々しいフロアを横切り、分厚い防音ドアをいくつかくぐり抜けると、趣の違う一室にたどり着く。途中ちらちらとした視線をいくつも感じた。肩を掴まれそうになり、折原さんの方へ身を寄せたこともあった。『ダラーズで見た』男はたしかそう言っていた。それがどこであるにしろ、あまり良い認識をされていないことは肌で分かる。

「ダラーズって……」
「知らない? ずいぶん前から噂になってると思うけど」
「あまりそういうのに詳しくなくて」
「だろうね。まあ、いわゆるカラーギャングなんだけどさ。誰でも入れる、無色透明の組織って言えばいいのかな」
「カラーギャングなのに、色がないんですか?」

 そう聞くと、彼は笑みを深くして頷いた。

「矛盾してると思う?」
「はい」
「そうだね。ダラーズは常に矛盾を孕んでる。清濁あわせもつ器があると思いきや、簡単に方針が偏ったりもする。まあそんなところも含めて人間そのもののようで面白いんだけど……」

 彼の言葉は聞き取りやすく論理的なのに、その内容は半分も理解できない。フロアと違い、奥の部屋には厚い絨毯が敷かれている。遠くで鳴り響くクラブの音を通奏低音にして、静かなジャズが奏でられていた。そう広くない室内に人影はちらほらとしか見られない。子どもといえるような人はいなく、うるさいフロアよりさらに場違いに思えた。

「よくわかりません」
「わからないんだったら、入ってみる? ダラーズは来るものを拒まないよ」
「……入ったら、少しは」
「少しは、近付けるかもしれない」

 何に? と聞けず、おし黙る。すぐそばで折原さんの目が三日月のように揺れていた。二人の妹を思い出しなんとなく悲しい気持ちになる。彼女たちはダラーズを知っているのだろうか。彼の手が伸びてきて、襟足のあたりに優しく触れる。「別世界だなんて思わない方がいい。日常と非日常は一続きだ」「君にだって夜の街を歩く権利はある。好奇心や探究心は他人に制限されるべきものじゃない」「現に君はもう踏み出してしまってるんだよ。みんな君のことを知ってただろう?」「楽しい世界に飛び込もうじゃないか。俺は歓迎するよ」優しげな口調で誘い文句を並べる彼は、まるで催眠術師のようだ。彼の声を聞いていると頭がぼんやりとして物事が考えられなくなる。頬に沿っていた手のひらが、すうと降りてきて目の前に差し出される。この手をとったら今日みたいにまた、私の行きたい場所へ連れ出してくれるのだろうか。私すら知らない私の願望を見つけてくれるのだろうか。それはとても楽なことだ。葛藤や自問自答をせずに済む。私はこの悪魔のような男のせいにして、いくらでも落ちていけるだろう。
 体の横に垂れていた手が、自然と持ち上がっていた。長い指に、白い肌。何度見ても綺麗な手だ。そこへ自分の手のひらを、重ねようとした時だった。

「困るねえ」

 穏やかな口調は目の前の男と似ているかもしれない。けれどその声は、私の頭にかかっていた靄を勢いよく晴らした。いつの間にそこにいたのだろう。薄暗い部屋の中、すぐ背後のソファーからそれは聞こえてきた。あるいは初めから居たのかもしれない。そして一度気付いてみれば、彼の存在感は圧倒的なものだった。折原さんが催眠術師なら、彼は魔術師だ。カツンと杖が鳴り大きな影が立ち上がる。背筋が粟立って、息が苦しくなった。

「兄ちゃんみたいな玄人さんが、いたいけな少女をたぶらかすのはどうなんだい」
「いやだな。粟楠の人間と比べたら、僕なんて素人同然ですよ」

 少しの動揺も見せない折原さんは、きっと初めから気付いていたに違いない。むしろこの展開を望んでここへ来たのではと思うほどだ。理由はわからないけれど、愉しそうな彼の顔を見ていたら全ては彼の手の内なのだと錯覚しそうになる。互いに飄々とした態度をとりながらも、二人の間の空気はちりちりと張り詰めていた。いや、一方的に発せられる威圧を、もう一方が巧妙に受け流していると言えばいいのか。圧力をかけているのはもちろん赤林さんの方だ。

「何企んでるか知らないが、おいちゃんにも侵されたくない領域ってもんがあってねえ」
「それは失礼しました。粟楠のお嬢さんや骨董屋の娘さんのことは認識してましたが、まさかこの子もそうだとは」

 後者のことはわからないけれど、組長の孫娘の話題を出してヤクザの幹部を牽制するなんて、この男は命が惜しくないのだろうか。そもそもそこまでして不穏な動きをする理由とはなんなのか。悪びれない口調に不気味さを感じながら、赤林さんの方を見る。彼は挑発に乗ることなく、杖に体重をあずけたままじっとそこに佇んでいた。顔をわずかに伏せているため、薄いサングラスが反射して表情が見えない。

「あんたとは持ちつ持たれつ、と思ってたんだけどね。情報屋さん」
「僕も、赤林さんのような方を敵に回す度胸はありませんよ。……だからわざわざここへ来たんです」
「……」
「止めに入らなければ、彼女に次の仕事を手伝ってもらう予定でした。そう、あなたの言う企みってやつです。けどやめた方がよさそうですね。なかなか面白いコマ、いや失礼、女の子だと思ったんですが」
「やめた方がいいね。正しい判断ができるようで安心したよ。ちなみにもう一つ言わせてもらうとさ、そろそろ黙った方がいいってことには、気付いてるかな」

 サングラスの奥の目を私は想像することができた。薬を売る青年たちを一蹴し、こちらを振り返ったとき、彼の目は鬼のように鋭かったのだ。きっと今もそうなのだろう。私は泣きたい気持ちになって手のひらをぐっと握った。彼のことが好きだと思った。情けなくて申し訳なくて、辛くて悲しい気持ちも確かにあるのに、それを覆い潰す圧倒的な歓喜が胸に渦巻いている。本当に勝手なものだと思う。けれどもう、止められないのだ。


つづく
- ナノ -