少女たちは昼に眠る



こんなにも気分が重いのは、彼の言葉がすべて的を射ていたからだ。


「なんだ、また溜息が増えたな」

 影次郎さんは呆れたようにそう言って私の拳をいなす。動きや表情が一見無気力なだけに、どうして自分の突きが彼の体を捉えられないのかが不思議だった。まともに戦っているところを見たことがないが、きっと恐ろしく強いのだと思う。本当に強い人は余分な力というものが少しも感じられない。あの人だってそうだった。

「ほらまた。溜息の呼吸じゃいい突きは出ねえぜ。強くなりたいなら息の仕方から変えないとダメだ」
「はい」

 珍しく指導者らしいことを口にしながら、彼は私の手首を掴みとる。次の瞬間にはマットの上に寝ていた。回る視界に酔ってしまいそうだ。見上げた先には近頃棒術をはじめた茜ちゃんの姿がある。

「師匠〜私たちにも稽古つけてよ」
「お前らやたらと金的狙ってくるからやりづれえんだよ」
「師匠が女の子泣かす前に潰しちゃおうと思って」
「恐ろしいことを言うな。それに泣かすほどモテてねえから安心しろ」
「確かに!」

 ジムのメンバーは今日も個性豊かだ。広いトレーニングフロアには十人ほどの男女が点在しそれぞれの課題と向き合っている。中には少し、いやかなり声をかけづらいタイプの人間も混ざっていた。見え隠れする非日常。今まで気づかなかったキナ臭さに、敏感になっている自分がいる。

「なんか食べて帰ろ!」

 着替えを終えたロッカールームで舞流ちゃんに飛びつかれ、手持ちのお金を思い浮かべる。買い食い代さえ捻出に苦労する受験生だ。あやしい情報なんて買っている場合じゃない。

「安いとこね」
「シネマズの前にクレープカー出てたよ」
「忍(カーミラさいぞうとの)……協(コラボ)……」

 彼女たちとの交流にもすっかり慣れてきたけれど、どうしてかお兄さんと会ったことは伝えられなかった。きっと心配するし、私にしたって悪く言わない自信がない。二人がこうしてジムに通ったり、防犯のために自前の唐辛子スプレーを持ち歩いてるのだって彼の影響かもしれないのだ。きっとそう聞いたら、二人は否定するのだろうけれど。

「そういえば、最近赤林さん来ないね」
「うん……忙しいんだろうね。元気だといいんだけど」
「抗争とか発砲事件とか聞かないから大丈夫だよ。あの人、重火器以上のものじゃなければびくともしなさそうだし」
「たしかに」

 体一つと杖一本あれば熊でも倒せそうなのが彼だ。私の世界を切り開いた黒い杖を思い出し、目を閉じる。鼻先にクレープの香りがただよった。やっぱり私は甘っちょろい世界の方がまだ好きみたいだ。




 彼女の顔を再び目にしたのは、まったくもって意外なところだった。
 近頃は何かと忙しく茜のお嬢のところにも行けていなかったが、とりたてて目につく火種もなく、街は落ち着きをみせていると思っていたが──まさかこんなところから燻りだすとは。もはや見慣れたトップ画面をくぐり、街の縮図である雑多な情報をななめ読みしていたところだった。あどけない笑顔に思わず舌打ちが出る。掲示板の黒い背景に浮き立っているのはまぎれもなく彼女の写真だ。正面からのものではなく、ピントもぼけているため盗撮なのかもしれない。けれど充分に個人を特定できるものである。
 街にはびこるカラーギャングの縄張りを、ネット上に張りめぐらせるなどという突飛な発想には舌を巻いたばかりだ。いかようにも使えると思った。同時に悪い予感もした。匿名の掲示板やSNSなんてものは、情報発信の自由と過度の共有が生み出す地獄のようなものだ。飛び交う電波は人の悪意をあっという間に拡散する。スレッドの一番上には『ミダスに出入りしてる女教えて』と書かれており、彼女の他にも数人の少女の写真が並んでいた。あの日たまたま居たのだろう彼女がこうして目を付けられてしまったのは不幸でしかない。口さがないコメントやレスポンスが溢れる中で、彼女の一枚がとりわけ目立って見えるのは俺の主観によるところではないだろう。彼女の容姿は人目を引く。ひとことで言えば、美人なのだ。

「……穏やかじゃないねえ」
「なんだ赤林、てめえのシマぁまだ荒らされてんのか」
「いや、俺のことじゃなくてね」

 同僚の低い声をかわしながらスマートフォンのライトを落とす。若頭のお嬢や園原堂の娘と違い、彼女に対してこれといった義理があるわけではない。けれど他人事と切り捨てるには遅く、いくつかの言葉や表情が妙に胸に残ってしまっていた。「イロか?」と聞かれ苦笑する。

「そんなんじゃねえや」
「たまには女つくって息抜きでもしてこい。てめえは本当にわからねえな」
「俺にもいろいろあんのさ」

 言いながら席を立つ。
 昼飯でも食べようと事務所を出て、気付けば息抜きとも言えない用事のため、駅向こうの住宅街へ足を向けている自分がいた。管理人が対処したのか、数時間後には削除されていた画像が一体どれほどの端末に保存されたのか。いよいよお節介が度を越してきたと思いつつ、この際自分の気の済むように動けばいいと開き直ってもいた。そもそもこうして歩き回り、目と耳とわりかしきくこの鼻で街の様子を探るのは昔からのやり方だ。文字だけではわからない匂いがそこにはある。本業さえこなしていれば、俺が単独でそこらをふらつくことを組は黙認している。そんなところが楽でこの組織に属しているのだ。

「てなわけだから、よろしく頼みますわ」
「わかりましたよ。あんたも大変だな、そんな性格で極道やってると」
「いやあ、それが意外と向いててね」

 楽影ジムの顔である精悍な青年は、首をひねりながらそう言った。お転婆な双子に絡まれてたじたじになっているところをよく見るが、腕前は相当なものである。俺も一時期は世話になった。笑いながら返事をしたところで、そういえば彼にも妹がいたことを思い出す。

「そういや、美影ちゃんは元気かい」
「あいつはいつでも元気だけど、どうも付き合いがな……いまだに胡散くせえ奴らと切れてないらしい」
「ああ、そいつは心配だね」

 彼女の実力は兄をも凌ぐと言われているくらいだし、防犯面での心配は野暮かもしれない。けれどいくら強くたって、自ら死地にばかり飛び込むようじゃ身内の心配は尽きないだろう。その付き合いとやらが胡散臭い情報屋をはじめとした裏側の人間であるなら尚更。

「まあ、あいつももうガキじゃないから口出ししねえけどな」

 俺から見たらあの辺りはまだまだ総じてガキだが、さて、本物の子どもらに悪さをしようと企てているのはどこのどいつなのか。一つ息を吸って空を見た。あまりいい空気とは言えない。腹の底に不快な澱が溜まっていた。

つづく
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