ついのすみか、一



「前回のデータノイズ発生時は、私の独断で処理をしてしまったわけだが」
 世界唯一の諮問探偵にして、カルデア随一の運営顧問であるシャーロック・ホームズはそう言って顎に指をそえた。
「今回はそういうわけにもいかない。いや何、あの時は私もカルデアに来たばかりでまだ人見知りをしていてね。もちろんログはすべて保存、共有しているから問題はないのだが」
 朝早くに呼び出され、一体何の騒ぎかと身構えた名前らに対し、彼は飄々と現状を説明している。
「要するに今から君たちにして欲しいことは、電脳ダイブだ。これはシミューレータとも違うが、レイシフトとも正確に言えば異なる。実戦訓練としては丁度いい加減かと思うのだが、どうだろう」
 名前がカルデアに来て以来まだ非常アラートは鳴っていない。アラートが鳴らないということは、この任務はある程度、予測の範囲内ということだろう。着任後のカンファレンスにおいて数度目にしたことのある探偵に対し、名前は状況を復唱する。彼は経営顧問を名乗っていたが、魔術協会の目が光る場において積極的に前へ出ようとはしなかった。人類史の観測と英霊の召喚を目的とする組織の運営を、他でもないサーヴァント自身に任せるという矛盾に対し、協会が良い顔をしないことを知っているからだろう。
「つまり……カルデアのシステム内部に入り込み、発生したデータノイズを除去すればいいのですか?」
「ああ。一度めはシミュレータ内のダストデータに人為的改変が加えられていたため些か厄介だったが……今回はまだ実態がわかっていない。その探索を頼みたい」
 前回処理に当たったのはマスター藤丸とそのデミ・サーヴァントのマシュ・キリエライトであったらしいが、この度は新たに着任したマスターの実戦訓練もかね、名前と円卓の騎士たちにお鉢が回ってきたというわけだ。
「この探偵も言っているけどね、前回は私も知らないうちに片が付いていたんだ。カルデアのシステム内部のことなのに、技術顧問のダ・ヴィンチちゃんを通さないなんてそんな話があると思うかい? おかげで面白いもの……興味深いものを見逃したよ」
 涼しい顔の探偵とは裏腹に、紅顔の天才女史はぷっくりと頬を膨らませ不満をこぼしている。
「ははは、すまない。先ほども言ったが私は人見知りでね。それに犯人があの男である以上、最少手で済ませたいという思いもあった。今ではこの上なく信頼しているよ、技術顧問殿」
 人見知りなどとは思えない、そつのない笑顔で宣うホームズにどう反応をすればいいのかわからず、名前はひとまず目の前のオーダーのことだけを考えた。
「できそうかい」
「はい。やってみます」
「いい返事だ。返事のいい者は運に恵まれる。統計をとったわけではないがね」
 ホームズなりのジョークなのか、にこやかに告げられた願掛けに背を押され、名前は背後を振り向いた。
「そういうわけなんだけど、どうかな」
「マスターがやると言うのなら、私たちに異論はありません」
「貴方の剣として本領を発揮する、またとない機会です」
 左右に控えた二人の騎士はそう言って、背筋を真っ直ぐに伸ばした。この快諾が単なる従順でなく、信頼の証であることを名前は知っている。彼らの言動は一貫してブレないが、そこには確固たる根拠があるのだ。
「オレたちが留守番なのは納得できねえがな」
「すまないね。レイシフトと違い、電脳空間へのダイブはマスターの令呪を触媒に、サーヴァントの精神を転送させる媒介方式だ。一人のマスターに対しサーヴァント二騎までが限界だろう」
 ホームズの説明に、理屈はわかっているが問題はそこじゃないという顔をしながらモードレッドは舌を打った。一方のベディヴィエールは至極冷静に頷いて、自己と状況を分析する。
「お二人と比べれば、まだマスターとの連携も顕現の日数も浅い。種火リソースの提供のおかげか、カルデアへ来てからみるみる霊基が充実していくことは実感していますが、その定着もまだ充分ではないのでしょう。モードレッド、ここはガウェイン卿とランスロット卿にお任せしましょう」
「テメーみてえな軟弱な霊基と一緒にするんじゃねえよ! オレとお前じゃそもそもの造りが違えんだ!」
 モードレッドは正直な人間だが、決して公正というわけではない。どちらかといえば展開や状況によって気分も左右され、ときにはこうして感情的に他人を攻撃する。円卓の騎士の間においてもやはり相性というものはあるのだ。絶対の王という存在あってこそ騎士らはかろうじて統制されていたが、名前にまだその力がないことは本人もよく自覚している。
「モードレッド。どちらにせよまだ私は、四人同時に魔力や指示をとばせるほどの能力も、とっさの判断で連携をとれるほどの経験もない。申し訳ないけど、今回はここでダ・ヴィンチさん達と一緒に観測をして貰えると助かる。あなたは目が良いから、改善点がよくわかるでしょう」
 名前は転送室の扉に手をかけると、そう言って彼女を振り返った。
「普段は厳しすぎて泣いてるけど、モードレッドの駄目出しは私の命綱だからね」
「わかってんなら、普段から泣きごと言うじゃねえよ。それから二人、オレにできることをお前らができなかったらただじゃおかねえ。……マスターを任せたぞ」
 空気圧の変わる音とともに扉が閉まり、人工音声がカウントダウンを刻む。ホームズ曰くレイシフトとは異なる技術であるらしいが、肉体を置き去りにした精神の転送という意味では名前にとって初のオーダーとなる。
「ああ言い忘れたが、一つ。シミュレータとは違い、電脳空間において負ったダメージはすべて肉体へと還元される。くれぐれも用心したまえ」
 三秒前にして聞いたのはそんな言葉であったが、今さらできる覚悟などたかが知れている。大切な言葉を後回しにするのは探偵の悪い癖だ。ごくりと唾を飲む名前の横で、二人の騎士が霊子となって彼女の令呪へ融合する。そのうち自分の精神すら魔術回路をつたいどこかへと流れ落ちていくようで、名前は強く目を閉じた。まぶたの裏に青い光の粒が見える。まるで宇宙の始まりのようだ。

 そう思ったときには消え失せたはずの足が地面を踏み締めていた。周囲に巡るのは星でなく簡素なワイヤーフレームである。なるほどこれはいかにも電脳的だ。納得する名前の横で、ガウェインとランスロットもまた辺りを見回していた。
「聞こえるかい。そこはまさにカルデアのシミュレータシステム内部だ」
「聞こえます。視界も良好。ですがいまいち空間の広さがつかめません」
「そうだろう。電脳空間は普段君たちが生活をする三次元空間とは成り立ちが異なる。加えてこのシステムを作った人間は些か偏屈だったようでね。コードの組み方に癖があるんだ」
「癖はあるが正確だ。ただ私の好みではないね。数列だって美しくあるべきと私は思うが……アムニスフィアのエンジニアはずいぶん朴訥な人間だったらしい」
 プレートから伸びたいくつもの通路に、角度の違う階段が張り巡らされる様はまさに迷宮だ。三人はぐるりと状況を見渡してから、再度管制室に指示を請う。
「それで、問題のデータノイズはどこに溜まっているのでしょう」
「ふむ。先ほども話したが、前回はダストデータに人為的な改変が施されていたため、ダイブしたとたんあちらから襲いかかってきたのだが」
「襲いかかって?」
「とある事情によりエネミー化していてね」
 こちらへ飛ばされた途端、自動装填されていた魔術礼装が戦闘用のものであるのはそのためかと名前は納得する。それはまさに、先日試着した剣と袴、そして外套がセットになった騎士風のものだった。初めて見たときにはいろいろと思うところもあったが、こうし実戦の場で身につければ気が引き締まり、頼もしく思える。
「アンカーを背にして十時の方向にダストデータのホットスポットがある。本来なら時間とともに自動消去されるほどのものだが、なんらかの原因で消えずに残ったデータを核として、吹き溜まりができているようだ」
 ホームズの言葉を受け、名前一行は前方にある急勾配のスロープを上っていく。じぐざぐと細かな曲がり角が続くものの、方向としては指示通りの方角へ向かっているはずだ。簡素なワイヤーフレームと時おり明滅する青い床に、だんだんと目が慣れ始めた頃、それは現れた。
「これは……」
 その辺りだ、と管制室から声が聞こえたのと、現場の三人が息を漏らしたのは同時だった。しばしの沈黙のあと、その反応を訝しく思ったダ・ヴィンチが報告を急かす。
「どうだい?」
「なんとも報告しがたき形状……特に、淑女の前で口にすることは憚られます」
 ガウェインはそう言いながら名前の目を手のひらで塞ごうとするものの、ここが予測不能な臨戦現場であることを思い出し思いとどまる。
「ふむ、こちらでも熱源のシルエットは大方把握できるが、見間違いであってほしいと願っていたところだ」
「残念ですが、おそらくそのままです。ありのまま、いえ生まれたままと言った方がよいのか」
 うごめくデータの残骸たちは絡み合い重なり合い、巨大な人の形をとっていた。正確に言えば女性の形だ。加えてその胴体は極端なほど凹凸し、四肢は大きく開かれている。見る者を誘うようなポージングは極めて蠱惑的であり、この現象が人の手により作為的に仕掛けられたものであることを明らかにしていた。
「女体が艶めかしいことは自然の摂理ですが、ダストデータごときが女体の艶めかしさを得ることは自然の摂理に反しています。一騎士として、いえ、男として看過することはできません」
 いつもの低くよく通る声で、わかるようなわからないようなことを言ったのはランスロットだった。義憤とも私怨ともとれる複雑な感情を抱きながら、二人の騎士はそれぞれに勇んでいる。
「今回も人為的エラーであることはほぼわかっていたが、問題は犯人に見当がつかなかったことだ。実態を見ればプロファイリングできそうな情報の一つ二つ隠されているだろうと思ったが、まさかここまで明け透けだとは」
「隠されているどころか丸見えだね。痕跡を探しに行ったら、犯人が全裸で登場したようなものだ」
 一方、管制室の二名はごく冷静にそのような所感を述べている。カルデアに着任して数ヶ月、いまだ全てのサーヴァントやマスターたちの特性を把握できているわけではない名前にとって、これが誰の仕業かと見当をつけるのは難しかったが、どうやら二人にはそうでないようだ。
「ミスリードや目くらましの可能性もあるため先入観は良くないが、まあこのストレートな自己主張からしてほぼ思い描いている人物の仕業に間違いないようだ。前回ダストデータに付与された動機は"怒り"だったが、今回はさながら"欲望"といったところか」
 そんなホームズの分析とは裏腹に、こちらの存在に気づいたノイズの集合体は蠢かせていた肉体をより一層震わせて、喉にあたる部分から大きな声を漏らした。
 嬌声、といって差し支えない響きである。叫ぶような、喘ぐような悲鳴が電脳空間に響き渡り、名前は思わず耳を抑えた。気のおかしくなりそうな声だ。空間の霊子をつたい体内までも振動するようで、くらくらと視界がおぼつかなくなる。
「気を確かに、名前!」
 聞こえたガウェインの声にとっさに顔を上げれば、生み出された正体不明のエネミーが目前まで迫っていた。
 ランスロットの剣がそれを一刀に斬り捨てる。慄いている場合ではないと自らも剣を握りしめるが、見れば見るほどに目の前の光景は鮮烈であった。そのエネミーたちは文字通り"生み出されて"いるのだ。女体を象るものの股座から、嬌声とともに噴き出るなめくじのような流動体に、名前はたまらない嫌悪感をもよおした。唾を飲み込み、一歩退く。管制室からこちらを観る、探偵の冷静な瞳を思い出しながら、名前は霊子の指を力ませた。

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