澪標みおつくし



「あれ、今日はオフじゃ……?」
 修練所の前でかけられた声に、名前は小さく振り返る。
 彼と話すことは初めてではない。カルデアへ入所した際には挨拶をしたし、同席のもと様々なガイダンスを受けた。それ以降もこうして日課の終わりにすれ違ったり、食堂で顔を合わせたり、時にはともに戦闘訓練をすることもあった。
「そうなんだけど、なんか落ち着かなくて」
「わかる。お互い様だね」 
 互いになんとなく決まりの悪い笑顔を浮かべながら、二人は背伸びをしたり深呼吸をしたりする。ふと名前が彼の額を見れば、そこにはまだしっとりと玉の汗が浮いていた。
「大丈夫? そんなに激しい自主練を……」
「違う違う、これにはちょっとした訳があって」
 手のひらをこちらへ向け首を振った藤丸は、事の経緯を説明しようと口を開く。けれど言葉を続けるまでもなく、一人のサーヴァントの声が聞こえてきた。
「マスター? 安珍様ー!」
 廊下の角の向こう側、カルデア中央へ伸びる三叉路の方から聞こえたその声は若き少女のものである。飛び跳ねた藤丸の肩を見ながら、名前はなんとなく経緯を察する。サーヴァントといってもその内実は様々で、大樹のような落ち着きをもつ者から、烈火のごとき苛烈な情緒をもつ者まで十人十色だ。なので時にはこのように、身を隠す必要性も出てくるのだろう。
 そんな暗黙の了解に口を閉じること数秒。別のどこかへと向かっていったサーヴァントの気配に、彼はほっと息を吐く。汗の様子からしてここまでだいぶ逃げ回ったようだけれど、相手の声色や彼のリアクションからして、今までも度々繰り返されたやりとりなのだろうとうかがえた。藤丸がサーヴァントに熱烈な感情を向けられている場面を、名前は他にも見たことがある。率直な反応を示しながらも、信頼関係にまでさし障ることがないのは彼の人柄のためだろう。
「清姫には悪いけど、午後は地形と布陣のシミュレート訓練をしたかったから」
 眉を下げ笑いながら、藤丸はドリンクサーバーの水をコップに一杯注いだ。
 もう少し話がしたい。そんな名前の心中を知ってか知らずか、彼はそのまま彼女の隣に腰を下ろす。なんとなく名前の方も気が抜けて、ふうと息を吐いた。こうして横に並んで水分補給をしていると、今まで彼に対して思い詰めていたいろいろなことが驚くほど軽くなり、ただ純粋な親しみ深さのようなものだけが残るから不思議だ。
「そういえば、あれもう食べた? 季節限定っていう噂の……」
「セミラミスさん監修のチョコレートファウンテン?」
「そうそう。ホテルのビュッフェみたいでゴージャスだけど、オレあれを見るとどうにも一昨年のバレンタインを思い出して」
「何かあったの? 確か去年は、謎の図書館と呪いの本、みたいなファンタジックな展開だったって聞いたけど」
「あれはあれで結構ディープだったけどね……。一昨年は、チョコ浸しになった空中神殿で無限にチョコを生産させられる羽目になってさ」
「空中神殿でチョコを!?」
 名前は機会があれば尋ねようと思っていた様々な相談事を忘れ、藤丸との世間話に花を咲かせる。彼の口から語られる珍道中とも言える旅路は、人理修復の寄り道としては驚くほど面白おかしく、明るく騒がしく、名前は耐えきれず何度もふきだしてしまった。藤丸の口調が、まるで苦労した学校行事を思い起こすようなものであることも大きかった。共同生活を共にする仲間という意味では学び舎と言えなくもないが、曲がりなりにもみな、一角の英霊たちなのだ。
「そっちはどう?」
 一通りの顛末を話し終えたあと、藤丸は名前にそう聞いた。
「あ、うん。なんとかやってるよ。円卓の騎士たちはみんな優しくて真っ直ぐで、いつも助けられてる」
 自分から切り出す前に尋ねられてしまったため、名前はつい反射でそう返す。その言葉に嘘はなく、まさにその通りなのだが、それゆえ心に引っかかるとある考えがあるのだ。
「藤丸くんは、立場とか役割に悩んだことってある?」
「立場?」
「そう。円卓の騎士をサーヴァントとして使役するにあたって、周囲や、彼らが私に求めているものってなんだろう、とか」
 再召喚をするにあたり数人のマスターが藤丸の依り代となっているわけだが、やはりマスターの人柄に縁が左右されるのか、各々に傾向というものが見受けられた。円卓の騎士ばかりを喚び戻す彼女はその表出がとくに顕著といえるだろう。
「そんなつもりがなくても、何かを重ねられることってあるし」
 白い壁へ向けてやんわりと発せられた名前の言葉を聞いて、藤丸は少しのあいだ沈黙した。腕を組んでいるところから、彼女の問いに対する答えを真剣に考えていることがうかがえる。
「……清姫にとって、オレは安珍様らしいんだけど」
「え?」
 唐突にそう言った彼に、名前は思わず問い返す。そうして思い出すのは先ほどの声だ。確かに、焦がれるような少女の声はマスターへ呼びかけたあと、そのような名前も口にしていた。
「あれって、藤丸くんのことだったの?」
「そう。初めはそうじゃなかったんだけど、彼女のマスターとして共に戦ううち、日常を過ごすうち、オレは彼女にとっての安珍様になった」
「……」
「清姫にとってはオレは安珍様だし、ファントムにとってはクリスティーヌだし、ジャックにとってはおかあさん。キルケーにとってはピグレットで、ロムルスにとってはローマなんだ」
「ロ、ローマ?」
「そう。豚になったり国になったり、大変でしょ?」
 冗談めかした答えのようだが、きっと言葉通りの意味なのだろう。持ちかけられた真剣な相談事に対し、そこまで大それた冗談を返すような人でないことを、名前はすでに知っている。誰もが知る物語の、個性苛烈な登場人物。迷宮入事件の犯人に、伝説の魔女、そして世界史の立役者。並べ連ねるにはあまりにちぐはぐな、それでいて有名すぎる英霊の名に、名前は思わず目がくらんだ。さらには藤丸曰く、その各々から全く別のものを投影されているのだという。
「でもさ、マスターなんてそれでいいと思うんだ。とくにカルデアみたいに、一人が多くのサーヴァントと契約する場合、オレのアイデンティティなんかはライセンスフリーというか……いや、違うな」
 とんでもないことをさらりと言ってのけた藤丸は、しかし最後に自らの言葉を否定する。
「オレを何者かにしてくれるみんなに、オレは助けられてる」
 己の令呪を握りしめ、彼はそうつぶやいた。彼の普段のイメージからは想像できない、とても小さく静かな声だった。
「それにみんな、本当に同一視してるわけじゃない。なんていうか……きっと親愛の証なんだ」
「親愛の?」
「うん。みんなが生きてきた人生のことはわからないけど、そこに触れてもいいよって言われてるみたいで嬉しくなる。もちろん、たまに逃げだしたくなるときもあるけどね……さっきみたいに」
 彼の言っていることは直接的ではなかったけれど、まさに名前が問いかけたことへの答えそのものだった。名前が口に出せなかった固有名詞の代わりに、自分のことを話してくれたその優しさが嬉しくて、名前は思わず俯いた。その拍子に一粒、水滴が落ちる。
「泣いてる!? 大丈夫?」
「泣いてない。これはね、鱗だよ」
「鱗……」
 名前にとっては、まさに目から鱗の返答だったのだ。彼女の言い分を復唱し、藤丸は曖昧に頷いた。そしてもう一度何かを思案して、気遣うように首を傾ける。
「真面目に考えるの、きっと良いことだと思う。答えが出ることと出ないこととあると思うけど……」
「うん」
「でも大事なのは考え続けることだし。頑張っていこうね、名前さん」
 彼は考えすぎだとも、考えなくていいとも言わなかった。名前はそれにほっとして、彼が先ほどそうしたように右手の令呪を握る。やれることをやるしかない。見られるものを見るしかない。私たちの目は不自由で、ただ目の前の壁や、色や、人の顔しか見られないのだ。名前はそう納得し、白い壁から彼の顔へと視線を移す。
「ありがとう。頑張ろう」
 差し出した右手を、彼の右手が握る。一人で握る令呪よりそれはいくらか温かく、そして圧倒的に頼もしかった。
 かつて生きた人も、今を生きる人も、手を取り合うことでしか行けない場所があるのだ。笑い合って、前を向く。

二〇二〇 三月七日
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