ついのすみか、二



 珍妙な出来事や、摩訶不思議な体験談は藤丸の口からいくつも聞いていた。
 けれどいざ自分がその場に立ってみれば、とても頭が追いつかない。次々と這い寄るエネミー群を、騎士二人は手際良く両断していく。強度はそう高くなく、一度斬れば地面に染み込むようにして消え失せるのだが、斬るごとに纏わりつく粘液はだんだんと彼らの刀身を鈍らせた。
 二人に魔力を送りながらも、名前は自分に向かってくる斬りこぼしのエネミーを片付ける。これは騎士らの腕に隙があるのでなく、多数の敵に囲まれた際、マスターの戦力を信用し標的を分散させることで効率を上げ、短期戦に持ち込む彼らの策だった。シミュレータでの耐久戦においてその有効性は実証されていたが、いまだ衰えを見せないダストデータの増殖に三人の体力はだんだんと削られていく。
「自己増殖しているのか? データの容量からは有り得ない排出量だ」
「なんとか耐えてほしい、今解析をしてる。それから──」
 指示の声を遮って、ひときわ大きな声を上げた集合体が、ついに自らの長い手足をもたげる。攻撃範囲は相当広い。俊敏さはうかがえないが、本体そのものが移動しながら敵を産み続けるため厄介である。
「名前、魔力を!」
 ガウェインの声に促され、名前は彼への魔力供給を強める。令呪はサーヴァント転送の媒介装置として消費しているため、残り二画だ。その内の一画を使い、ガウェインの聖剣ガラティーンへと魔力を集中させる。
「この剣は太陽の現身。あらゆる不浄を清める焔の陽炎──」
 閉鎖空間において万全の力を発揮する宝具ではないが、彼の聖剣はエクスカリバーの姉妹剣であり、高い火力を誇る。セイバーでありながら広範囲の射程を持ち、狙いをつければ遠距離攻撃も可能だ。
「転輪する勝利の剣──!」
 聖剣から放たれた高密度のエネルギーは、一直線に蠢く人型を貫通し、燃えるような斬撃の光が消える頃には集合体もまた塵と化していた。飛び散る粘液から名前を守るように立っていたランスロットが、他のエネミーもろとも消え失せたことを確認し、振り返る。姿を消したあとも余韻として残り続ける断末魔が、寂しげに切なげに無機質な壁へと反響していた。
「エネミーとはいえ、女体を両断するのは快いと言えません」
「令呪も残り一画。ここは早急に引き上げましょう」
 騎士たち二人も、"彼女"の発した惑わすような嬌声にあてられているのか、普段と比べて顔色が優れない。
「確認できていたノイズの影は消失した。詳細の究明はこれからだが、こちらの想定より遥かにハイスペックな敵だったことは確かだ。何にせよこれ以上、三名で探ることではない。ひとまずこちらへ退去して──」
「阿呆が! あれがそんなしおらしいタマかよ、下だ!」
 ホームズの言葉を再び遮ったのは、今度はモードレッドの声だった。聞くが早いがぐらりと揺らいだ床のフレームが、粘ついた気泡をたて纏わりつく。床に染み込み消えたと思っていたエネミーの残骸が、プレートと一体化して足場を溶かしているのだ。
 騎士たちはとっさに跳び退いて、同時にマスターの体を抱え上げる。捕らわれる前に逃げおおせたはいいが、これでは斬ってもきりがない。何より騎士たちの経験が、この相手は接近戦に向かないと告げていた。ガウェインが宝具を打つにしてもあと一画が限界である。思い浮かぶのは弓使いの同胞の顔だが、今この場にいない男に思いを馳せても仕方がない。
「体力勝負になります。カルデアの解析が済むまで粘れますか」
「……やって、みます」
 問われた名前は頷いたが、その言葉尻はひどく頼りないものだった。
「と言いたいんだけど、なんだか……」
「名前?」
 彼女の声がまるで普段と違っていることに驚いて、ガウェインは名前の顔を覗き込む。
 その目は溶けたように潤み、黒いはずの彼女の瞳孔は満月のように怪しい色を放っていた。膝をついた名前の脚に、エネミーの粘液がぬらぬらと纏わりついている。確かに先ほど、流動体の残骸が下からが這い上がったとき、自分たちも足にそれを浴びた。
「名前、気を、たしかに……」
 けれど名前のように、体に異変は起きていない。女性にだけ作用するものなのか。もしくはマスターへの特殊な魔術干渉か。彼女の足首から垂れるとろりとした液体が、床に溜まりを作っていく。頬は火照ったように上気している。名前の纏う礼装は魔術への耐性も備えられているはずだが、何しろ未知の現象だ。脚を這い上がったあの粘液は、果たしてどこまで彼女の中へ──。
「……ガウェイン」
 一瞬にして巡った様々な思考を、麻痺させるように名前の甘い声が響く。
 これはいつもの彼女ではない。彼女の意思では決してない。そう思っても目を逸らすことができず、自分の頬に触れる彼女の細い指先の感触に、ガウェインは一瞬、けれど戦場において致命的となりかねないほどのあいだ、静止した。
「ガウェイン卿、気をしっかり持つのは貴殿の方です!」
 叱るようなランスロットの声が耳元に響く。ガウェインはとっさに顔を上げ、再び人型を得ようとしているダストデータと、さらには床から増殖するそれらの残骸たちを見据えた。令呪はおそらく使えない。己の魔力のみで宝具を打ったとして、その後動けないマスターを守りきれるか──。目前の敵を薙ぎ払いながら、そこまで考えた時だった。
 遠くから高速で飛んできた何かが、再生しようとしていた集合体の頭部を打ち砕く。続けざま、流星のように降り注いだ幾筋かの光により、周囲のエネミーはまた地面へと消失した。
「王様! ここは腐ってもカルデアのシステム内部なんだから、無差別射撃はやめて!」
「フン、何を悠長な。このように醜悪なものを生み出すシステムなど、一度根本から破壊し尽くした方がよい」
 聞こえた声は、よく知るものだった。
「貫いても死なぬか。これでは際限がないな」
「そのためのコレですよ」
 ちっと舌打ちをして己のマスターを見たその男は、今まさに欲していたアーチャーのクラスだ。個人的な好悪感情はどうあれ、実力という意味では申し分ない。加えて勢いよく手のひらを掲げた藤丸には、何か秘策があるようだった。
「ダ・ヴィンチちゃんが超特急で作ってくれたんだ。とある地球外特異点の攻略ログを元に作った装置らしいんだけど」
「その名もムーンセル式ウィルスバスター(バージョン2.1.1)さ」
 彼の持った巨大な注射器のようなものが、ワイヤーフレームの隙間へと刺し込まれる。びくんと一度波打った地面はじわじわと粘液をにじませて、どこからともなく恍惚の声が上がった。
 薬品を模した抗コンピュータウイルスワクチンが、注ぎ込まれるにつれ激しくなるその喘ぎに、今度こそガウェインは名前の耳を塞ぐ。ぐったりと項垂れた名前は彼の肩に寄りかかり、わずかに残った理性で事の成り行きを見守っていた。
「……なんとも胸焼けのする敵であったな」
 満足を得たかのように絶頂、そして鎮静した電脳内の様子を見渡し、さしものギルガメッシュもうんざりとした顔をしている。
「怒りよりも、欲望の方がおそろしいってことがよくわかったよ……」
 前回と比べだいぶ方向性の違う展開に、藤丸は脱力しながらそう言った。そしてガウェインのもとへと歩み寄り、抱えられた名前の容態をうかがう。ダストデータは消滅したが、彼女への侵食作用はなかなか抜けないようだ。
「助かりました、立香。なんとも不甲斐ないところをお見せした」
「ううん、ワクチンの完成まで粘ってくれて助かった。名前さん、聞こえる……? 早いところ引き上げよう」
「……私たちは、毒の効かない貴方の体質に甘えすぎていたようです」
 騎士たちの顔は暗く、また名前の顔は目に見えて悪かった。元来たアンカーへと引き上げるまでのあいだ、管制室からの指示以外彼らに会話はなかったが、転送の準備が整ったときギルガメッシュがふと声を発した。
「円卓の騎士は女に弱いらしい。それとも──」
「……」
「その女に、か」
 この王にしては寡黙である。元から場所を問わず喋るたちでなく、言及する価値なしとみなせば口すら開かないのがサーヴァントとしてのギルガメッシュであるが、さすがに今彼らを貶めるようなことはしないらしい。けれど思わせぶりな言葉を残さねば気が済まないのもまた、彼の性根である。
 対して二人は特別否定することなく、正面からその言葉を受け止めた。彼らもまた己の未熟さを棚に上げるほど幼稚でなく、かといって必要以上に恥じ入るような卑屈さもない。
 本来であれば肝の据わった者同士そう相性は悪くないと思えるが、理想の王に『騎士王』を掲げる円卓の騎士らにとって、英雄王の在り方はあまりに縁遠かった。忠実さより個の在り方を部下に問うギルガメッシュにとっても、彼らの精神は生真面目すぎる。それは騎士と王であるゆえの、譲れなさといえた。


「すまなかった。今回のことは完全に私たちの落ち度だ。クラスも編成人数も思わしくない中、よく耐えてくれた」
「いえ……」
 名前のバイタルチェックが終わってすぐ、様子を見に医務室へとやって来たホームズは、そう言って彼女を労った。経過観察は必要だが、とりいそぎ体の洗浄と点滴による栄養補給を終えたあとには意識もしっかりとし、人との会話も問題なく成り立っている。
「どんな事態にせよ、対応しきれないのであれば私たちの力不足です。カルデア内部だからどうにかなったけれど、これが本物の特異点だったら死んでいたかもしれない」
 名前はそう言って自らの令呪に目を向ける。この施設にいる限り、時とともに回復するものではあるが、戦いの場で一画ずつ薄れていく感覚には恐怖を覚えた。
「ひとまずはよく休養をとってくれたまえ。犯人──ことの発端となったサーヴァントに聞いたところ、あれは消去される前のダストデータの熱量をなんとか有効活用できないものかと、前例に習い"色欲"の概念を付与したところ、煮詰まったデータが自己増殖を繰り返し一つの像を結ぶに至った、ということであるようだ。語るに悍ましい展開ではあるが、本人はなんと定期的に一人であの場へダイブしては、蠢くデータたちと欲の慰め合いをしていたというのだから、真に恐ろしいのは人の方であるとはよく言ったもの……失礼。負傷者には刺激の強い話だったかな」
 真相を告げる探偵の語り口はいつになく滑らかで、やはり探偵というものはこの瞬間が一番輝くのだと名前は悟る。
「いえ。犯人のお名前は先ほど騎士たちから聞きました。彼らはあまり驚いていないようでしたが、私はカルデアの抱える人材の奥深さに驚かされるばかりです」
「彼女を一口に人材と言っていいかは迷いどころだが、ここにいる以上はとりあえず安全な者とみなしている。そうでなければ共に世界など救えはしない」
「それは……そうですね。信用をしないことには結束もしないのでしょう」
 それを自然にやってのけてきたのは藤丸立香だ。彼の築いた信頼を、後続の者が無下にすることはできない。
「接触はお勧めしないが、まあそんな人物も存在しているということを覚えておくといい」
「わかりました」
 一つ頷き、名前は不意に浮かんだ疑問を口にする。普段であれば特別親しい者以外に気軽に問いを投げることのない名前だが、いまだわずかに残る頭の火照りが判断をぼやかしたのだろう。
「ホームズさんは、カルデアをどう思いますか?」
「ふむ。難しい質問だね。仕事と考えれば激務だし、趣味と捉えれば退屈をしない」
「生活の場としては……?」
「生活? なるほどそういう観点もあるのか。私にとって欠けているものはまさにそれだ。何しろ、ベイカー街にいた頃から生活力というものに縁がなくてね」
「ふふ、それは知っています。ワトソンさんはさぞ困っていたことでしょうね」
「……ワトソン君の代わりとは言えないが、ここにはダ・ヴィンチ女史やフジマル君、マシュにブラヴァツキー夫人、それに頼れる研究スタッフたちが大勢いるからね。暮らしていくには、確かに良い場所だろう」
 ホームズは初めて口にしたという響きでそう言うと、いくらか表情を和らげて名前を見た。
「例え世界の終わりを前提にしたとしてもね。愛着を持つに値する場所だ」
 その言葉は彼女を励ますためのものであったのかもしれない。けれど口にした本人が、何よりも納得をした様子だった。人より速い思考力を持つばかりに、実務に追われる探偵はそうした疑問をもつ間もなかったのだろう。もしくはその淡白さは彼の自制心に表れなのかもしれない。
 けれど名前は知っている。例え自分の親しんだ物語の主人公、それそのものでないのだとしても、彼が誰より人間的で感情的な男であることを。
 ひとまず休養を、と言われた通り、名前は安心して目を閉じた。暮らしていくには良い場所だ。頼れる人たちと、人でない者たちがこうして共に過ごしている。世界の終わりをきっかけにして、世界で一番の奇跡を起こし続けているのだ。まるでなんていうことのない、ささいな住処のように。

二〇二〇年 九月二十一日
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