西経0°/ 青のゆめ


 青い光。
 それは星々の輝きのようで、夜に光る河のようで、あの冷たい保管庫の中で微かに見た、幾筋もの魂の煌めきそのものだった。

「気分はどうですか」
 黒髪の少年に尋ねられ、私は不意に顔を上げる。立ち竦む私の肩に手を添えて、彼は心配そうにこちらを覗き込んでいた。ずいぶんと無機質な空間だ。見たこともない設えや造りであるはずなのに、私の頭は不思議とそこがどのような場所で、自分がなぜここにいるのかを理解することができた。
 青い光に誘われて、誰かの呼び声へ応えたのだ。私はサーヴァントとしてこのマスターに召喚され、今ここに立っている。それはわかる。
「ありがとう。大丈夫です。私は──」
 けれど自分が何者であるのか、それが定まらない。私は私であるはずなのに、体と思考、器と心がうまくかみ合わないようで言葉が出なかった。当たり前のことだ。私は本来、英霊として座に刻まれるほどの人物ではない。それがこうしてサーヴァント化し顕現し得ているのだから、私の魂は純正ではないのだろう。
「いくつかの神霊の気配がするね。君の存在がどのような名称で座に認識されているのかが、いまいち判別できない。生前の名は? 思い出せるかい?」
「自分の名は、思い出せます。けれどそれはワタシではない」
「ふむ。それでもいい、と言いたいところだけれど──このシステムにおいて名前というものは想像以上に大切な要素だ。今はキャスター、とだけ呼んでおこう」
 瀟洒な赤い洋服を着た女性は、そう言ってにこりと顔を傾けた。私は自らの胸の内でさわぐ神霊たちの声に耳をすませながら、小さく息を吸う。肺に呼吸を送るのは久しぶりに思えた。霊子体と呼ばれる擬似的な肉体だとしても嬉しく思う。とうとう、あの世界では叶わなかったことだ。
「しばらくは、この施設の中でゆっくりと過ごすといい。近い由来を持つ者と巡り会えば、ハイ・サーヴァントとしての君の自我も確立されるかもしれない」
 火急の事態であるからこそサーヴァントを喚び出しているのだろうに、即戦力にならない私に対し女性も少年も急かすことをしなかった。善良な人たちなのだと思う。この世界の成り立ちについて私がいくつかの質問をしたときにも、二人は少しだけ言いづらそうに眉間をこわばらせながら、正直に誠実に、真実を打ち明けてくれた。
 私が異聞帯に由来するサーヴァントだということは、既に彼女らも知っているようだった。



 私がここに居るのだから、彼だって居て然りだ。そう頭では理解していたが、こうして向き合えばまるで夢の中のようで実感が伴わない。管制室から少し歩いた青白い廊下の先に、私はその姿を認め──しばし足を止める。
 その人は若き日の皇帝陛下と限りなく同じ顔立ちをしていたが、そこかしこに人らしからぬ造形を帯びていた。碧い髪と白い肌。肌には宝玉が光り、上等な羽織のような、艶やかな羽毛を纏っている。爪は鷹のように長い。
 彼は赤い隈取りの目をわずかに揺らすと、うっすらと口を開けた。
 彼の喉から声が漏れる前に、私は人差し指を口元へやる。
 いけませんと首を振れば、陛下はすべてを理解したように唇を閉じた。今の彼から呼ばれる名を私はまだ持っていない。それに今、彼に生前の名を呼ばれてしまえば、私の中の神霊はどこかへ霧散してしまう気がした。器の感情など、不用意に揺れ動くべきではないのだ。
「ご健在のようで──」
 そこまで言ったところで、今度は私の方が続けるべき言葉に迷う。正史を外れ、どこまでも安寧の虚ろに落ちた秦国は、すでに露と消えたのだと聞いた。詳細はわからないが予想はつく。その結末に納得もいった。けれど──。
「言うべきではないのであろうな」
 皇帝陛下は碧い袖口を揺らしながら、彷徨海と呼ばれるらしいこの海の端に佇んでいる。
「だが言う。言わねばならぬ。聞き留めよ」
 私はもう一度首を振ったが、今度はその言葉を遮ることはできなかった。
「其方を忘れたことはなかった」
 それを嘘とは思わない。けれど彼はついぞ最期まで、私を呼び起こすことはしなかった。私の想いは凍ったまま、強張ったまま取り残され、そうして世界と共に消えたのだ。
「ただ一人の真人としてあの世界に君臨した朕にとって、宝物庫の運用は文明の補完という義務にかられてのことであった。だが、冬眠英霊の保管庫は違う」
「……」
「あれはまさに朕が生きるための要石そのものだった」
 過去形で話す陛下の言葉に、昔を懐かしむようなノスタルジーは感じられない。彼はつい昨日のことであるように、彼の国とその成り立ちを語る。
「非人道的と言われればそうだが、常人の寿命というものはあまりにも短い。朕とともに永劫を担うべき選民……などという傲慢を振りかざすつもりはない。むしろそれは限りなく、合理的な理由によるところだ」
「合理的?」
「彼奴ら冬眠英霊は、世界を統一し、秦国泰平の基盤を作るためには必要不可欠な駒であった。何よりも貴重で代え難い、人材であり武力だ」
「けれど不満もあったでしょう。あの夢のような……悪夢のようなシステムでは」
「ふむ、どうか。全盛の若さのまま、生を分断することへの償いとして、有事の際には出し惜しみなく彼奴らの解凍処置を行った。その一瞬に生の歓びを濃縮させるが如く、高純度の責務と達成を与えたつもりだ」
「……では過不足なく、数千年ものあいだその仕組みが成り立っていたと?」
「信じられぬか? だが天賦の才をもつ武人や軍師と、そのシステムとは相性が良かったのであろうな。歴史の契機を担う高揚を、快しとせぬ者はいなかった」
 それもきっと、嘘ではないのだろう。彼は事実を見極められぬほど愚かではない。己の能力を振るうに最善の場所を、いつでも求めてやまない才人の例を私は韓信殿で目の当たりにしている。
「だが──其方は武人ではない」
 一呼吸空けて、彼はそう続けた。
「其方自身が申していたな。其方を凍結し保存したのは朕の我欲だ。故に……解凍の機会を見失った。目を覚ましたところで其方への報酬は何もない故な」
 ああ本当に、この人は何もわかっていない。その心のなさを私はカラクリのせいにしていたけれど、きっとそうではないのだ。この男の本質こそがこういった鈍感さであり、残酷さであり、率直さなのだ。
「名前」
 そう実感した私の名を、彼はためらうことなく口にした。止める間もない真っ直ぐな感情が、私の胸に飛び込んで渦を巻く。
「その身に宿す愛や情ごと、凍り固めた名前という存在は、まさに朕にとって何にも代え難い宝玉であった」
「陛下……」
「物のように、蔵の一番奥深くへしまい込んだことは謝ろう。変わらぬ何かが欲しかったのだ」
 静止をする隙もなく、次々と与えられる感情──などいう言葉ではもはやごまかせない、確かな愛情にかき回された魂は、そのまま霧散すると思いきや、私の中にどっしりと留まった。
「私はあなたの知る名前とは違う。貴方も、私の知る皇帝陛下とは異なります」
「そうなのであろうな」
「ですがたしかに……変わらぬものはあるのでしょう」
 私自身の感情と、私に宿った魂とは、どうやら矛盾するものではないらしい。擬似サーヴァントとはうまくできたものだ。こうして様々な神や英雄を戦いのため駆り出しているのだとしたら、陛下の蓄えた凍結英霊といったい何が違うだろう。
「変わらぬもの、か」
「はい。御身を取り戻した陛下に宿る、人としての心もその一つです」
「朕の心はいつでも変わらぬ。機械化を果たした時でさえ、心根はさして変わらなかった。其方や周りが、どう思っていたかは知らぬが」
「そうかもしれない。貴方のことを、以前のように見られなくなっていたのは私も同じなのでしょう。管や歯車だらけになったかつての陛下に、私は恐れを抱いていた」
「結構ショックだったぞ。あれはあれで気に入っていたのに」
 白い手のひらに生えた爪の先が少しだけ丸くなり、それはゆっくりと、私の方へ伸ばされる。
「だが──触れ合えるというのは、これもまた良きものであるな」
 彼はそう言うと、傷付いた蝶のように背中の羽をそっと閉じた。一人で背負い、一人で敗北した、秦の始皇帝だ。始まりと終わりのすべてを担ったこの体は、もうとっくに擦り切れているというのに。
「亡国の王として、目前の世を見定めねばなるまい」
 まだ誰かのために戦うのだという。守れなかった世界のために、この人はまだ──。
 
 自由のきく腕で、体温のある手のひらで、私はようやく彼の背を撫でた。行き場をなくし続けた想いがさらさらと音を立て彼を包むのを感じる。指の先には柔らかな羽の手触りがする。この世界にも、鳥や虫はいるのだろうか。青白い廊下の内も外も、まだ私は何も知らない。
「今度は共に」
 戦えることを嬉しく思う。
 始末をつけるのだ。彼の言う通り、失った世界と皇国のために。私たちなりの方法で。

2019_11_16
始末

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