彼女の肖像


「くだらぬ女とくだらぬ男が、猫のように争ったか」
 赤く腫れた私の頬を見て、男は愉しそうにそう言った。人の不幸を肴にビールを傾ける姿には腹が立つが、今一番の憎悪の対象と比べればそれもまた瑣末なことに思える。
「……奢ってください」
 飲み友達というにはおかしな関係だ。名前も知らない異国の男は、今日もまた華美な服装をしてそこに立っている。
「厚かましいな。だが良いだろう、女の痣を肴に酒を飲むというのも悪くない」
 悪趣味だと思う。けれど金持ちの娯楽というものは往々にして俗悪なものだ。偏見だろうか。
「話していいですか」
「話すな話すな。聞きたくもないわ雑種どもの痴話喧嘩など」
「痴話喧嘩じゃありません。一方的な暴力です」
「……どう違う。愛だの情だのの本質は所詮、暴力の振るい合いではないか」
「それは随分──」
 当然のようにそんなことを言いだす男に、今更ながら驚いて私は思わず居住まいを正す。
「強い人の言い分ですね」
 暴力を肯定するのは、いつでも強い側の人間だ。たとえ愛から暴力が生まれることがあったとしても、暴力自体は愛ではない。
「私はそんなのは御免です。だから彼とは別れました」
「そう思っていたのは貴様だけのようだがな」
 遺憾なことだがその通りだ。捨てた指輪を思い出しため息をつく。舞い戻ったと思ったそれは彼のもので、なぜお前は付けていないのだと私は散々責められたのだ。別れたからだ。もう会いに来ないでほしい。そうはっきり告げる以外に、どうすればよかったのだろう。自分の部屋に逃げ込みとっさにドアチェーンをかけなければ、殴られるだけでは済まなかったと思う。
「貴様の拒絶そのものが、男にとっては暴力なのだろうよ。殴るのは報復に過ぎん。まあ、甚だ愚かな理屈ではあるが」
「そんな勝手な……」
「だがその愛を心地よく思っていた頃もあったのだろう」
 くだらないと言いながらも、こうして持論を展開してくるのは根本的に他人の与太話が好きだからだろうか。こちらを見る男の目は明度が薄く、目の前の景色がスクリーンのように写り込んでいる。同じ、生き物なのだろうか。ふいにそんな疑問が浮かび、ぞくりと首に震えが走った。元彼を前にしたときとは違う、所在ないような違和感だ。ごまかすようにビールを一口飲んで、火照り、麻痺した頬に触れる。本当はアルコールを止められているのだ。転んだと言って駆け込んだ外科の先生は憐むように眉をひそめていた。
「これを飲んだら、帰ります」
 私はぼそぼそとそう言って、視線を泳がせた。カウンターの中には色とりどりの瓶が立ち並んでいる。粗悪な酒だと言っていた。そのわりにはこうしてまた飲みに来ている。暇つぶしでもしているのだろうか。そうだとしたら、本業は何なのか。
「やっぱりお金、自分で払いますね」
「好きにしろ」
「そのビール、おいしいですか?」
「不味い。粗悪だ」
 予想通りの返答を聞いて、私はとうとう笑ってしまった。本当にろくでもない男だ。けれど気晴らしにはなる。連絡先でも聞いておこうか、などと軽薄なことを考えながら、結局そのまま二人で店を出た。
 アルコールと痛み止めでふわふわとした頭を揺らし、繁華街の角を曲がったところで、私は一度足を止める。
 何かを言おうとしたのだ。けれどそれを発することなく、ごほりと一つ咳をこぼした。
 腰のあたりに受けた衝撃が、そのまま体の中を通り抜け喉から溢れたのだ。かくりと膝から力が抜け、地面へ倒れこむ。コンクリートに染みていく血の色を見て、ようやく自分が何者かに刺されたのだと気づいた。
 背後からは「やっぱりな、わかってたんだ」と繰り返す元彼の声が聞こえてくる。一体、何をわかっていたというのか。私ですら間近で酒を交わすこの男の正体などまったくわからないというのに。
「なんだ、死ぬのか」
 金色の男は私を見下すと、大して焦ることもなくそう聞いた。
「もう、最悪です……逃げてください」
「逃げるだと?」
「かんぜんにキレてるので。ああでも、二人殺したら、死刑ですかね?」
「戯言を」
 路地裏の室外機から吹く生ぬるい風を受けながら、私はうんざりと項垂れていた。彼がしている誤解はわかっている。そういえば殴られたときにもそんなことを言っていた。婚約指輪を早々に捨て、夜の街で男漁りをしている私が気に食わないのだと。とんだ言いがかりだ、と思いかけ、そうでもないかもしれないと思い直す。現に私は目の前で人が刺されても微動だにしないこのおかしな男に、興味を抱き始めていたのだ。
「それにしても随分と甘い司法よな、この我に狂犬の如く下衆な目を向けているのだ、その時点で死罪であろう」
「前から思ってたけど、どういう世界観で生きてるんですかあなた」
「ふん、腹から血を垂れ流しているわりによく喋るではないか」
「酔ってるせいか、あまり痛みがないんです……」
「そうか、安酒にも効能はあるものだな」
 声を上げて笑い出した男に、元彼の怒りが向いているのはわかった。けれど急に腹の底が抜けたような虚脱感に襲われ、それ以上声が出せなかった。下手に恨みを買い巻き込まれる前に、さっさとこの場を離れてほしい。そしてできれば警察と救急車を呼んで欲しい。けれどやはりそんな常識的な行動をとってくれるはずもなく、男はどんな心持ちか、その場に足を踏み止めている。
 薄れゆく意識の中でわかったのは、何かを叫びながら刃物を振り上げた元彼が、それ以上の声をあげることもなく路地に倒れ伏したことだった。おかしな角度で体を曲げ、ぴくりとも動かなくなったかつての恋人の指先には、まだ銀色が光っている。
「その男のゆびわ、すてて」
 なんとか声を絞り出して、私は最期にそう言った。死ぬにしても、奴の指にあんなものが嵌ったままというのは癪だ。これではまるで心中のようではないか。
「まったく、最期まで他人任せなことよ」
 屈んだ男の金髪が目の前で揺れている。きっと救急車は呼んでくれないけれど、彼は指輪を捨ててくれる。もう二度と人の目の届かないところへ。深い深い、川底のようなどこかへ。
「腹に穴が開く前に、一度口説いておけばよかったか」
「……ばかですね」
 こんな状況だというのに彼は冗談めかして言うと、そのまま立ち上がりどこかへ行ってしまった。
 赤い血が薄らとネオンを写している。私は以前にもそんなものを見たような気がして、なんだったろうと目を閉じた。ああそうだ、あの赤は彼の──。



 冬木の火事の話を聞いたのは、その一月後のことだった。
 傷の膿が引き始め、痛み止めの量が減ったころ、ふいに病院のテレビから流れてきたのだ。以前より規模は小さいものの、山の中腹から上がった火の手はまたもや原因不明のようだ。
 あの人は無事だろうか。そう考えたところで、私はやはり笑ってしまった。
 無事に決まっている。あのあり得ないほど性悪な男が、他の誰かに侵害されるところなど想像ができなかった。それでももう、会うことはできないのだろう。
 それだけはなぜか解り、私は笑いながら少し泣いた。
 街を出よう。粗悪でいて不可思議な、この美しい街を。


2019_11_03
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