北緯30°/ 金のゆめ


 血を吐く音が聞こえる。
 えずくような嗚咽に混ざり、ぼたぼたと垂れる赤と銀の、飛沫。

「もうおやめください」
 何度止めたかしれないこの惨状を、見守る人がいなくなったのはいつ頃か。人払いの成された王宮は冬の静けさと冷たさを際立たせ、私の指先をつんと鈍らせた。
「ふむ、此度もまた随分と凄惨な結果だが……」
 自らの口をぬぐい、げほごほと寝台へ横たわりながら彼は他人事のように笑っている。
「飽きもせず、其方もよく朕の醜態を眺めに参るな」
「飽きもせず、皇帝陛下が御身を虐めているからです」
 扶桑樹の製薬に水銀を使うと言い始めたのは、先代の調合師だった。すべての生命の根源であるなどと、まことしやかに語られるこの柔らかな鉱石が、彼の体を守り昂める気配は今のところない。
 私は寄るなと言われている彼の寝所にたびたび赴いては、血反吐を拭いて回っている。彼は人を避けているけれど、気鬱を起こしているわけではなかった。日に日に傷む身体と裏腹に、心は不気味なほど快活だ。
「世話をかけるな。情の深き女よ」
「もう、あまり……」
 無理をなさらないでください。そう言おうとして口を噤む。こうまでして生きるため死にかける男に、今更なにを言ったところで無駄なのだ。部下に言い含められ行いを正すくらいなら、初めからこのように狂気じみたことはしないだろう。
 私は諭す代わりに彼の手首に触れ、脈をとった。とくりとくりと、なんら変哲のない鼓動の音がして、安心する。彼が人でない何者かになってしまいそうで恐ろしかった。
「もうお休みくださいませ」
 そう言い残し、本殿から宮庭へ踏み出たところで、私は足を止めた。
 技術によるものか、仙術によるものか、王宮の造りも近年急激に様変わりしている。見たこともないカラクリがそこらじゅうに根を張って、重厚な石造りの城壁に奇怪な影を落としていた。縦横の直線で成り立つ、整然とした秦国の王宮の姿はもうどこにもない。
 国を統一し、世に泰平をもたらした彼の皇帝の寿命が、尽きようとしている。陛下は正気を失っているのだ。誰も彼もがそう噂をしていた。

 遠ざけていた医師の代わりに、若い技師たちが本殿へ出入りをするようになったのはその頃からだった。城の整備に来ているのであろう彼らは、ときに何かしらの大きな部品を、ときに見たこともない奇妙な器具を持ち、本殿へと入っていく。
 漏れ聞こえる陛下の声は近頃とても活力に溢れていた。水銀を煎じることを止め、以前のように盛んに人と関わるようになったため、精力が戻ってきたのかもしれない。彼が自ら方針を転換したことにほっとして、血を拭う綿布を洗うこともなくなった頃──私は久しぶりに私室へと招かれた。
 陛下、と呼んだ私の声は醜く掠れていたと思う。その部屋に漂う濃い空気は、決して心地の良いものではなかった。しつらえにしても、もはや異界の趣だ。仙道について詳しくはないが、衰えた身体をカラクリにつなぎ、人智を超えた何らかの力によって彼が延命を果たしていることは明らかだった。その目には青年のように鋭い光が宿っている。幼い頃に見た、若き日の皇帝陛下そのものだ。それだというのに、私の心は更に重たくなった。
「扶桑樹のみに頼るのは悪手であった。人の身に堪えられぬ劇薬というならば、先んじてこの身の方を変えねばなるまい」
「……」
「ながらく世話をかけたが、血反吐の処理をする必要はついぞなくなりそうだぞ」
 朗らかに無邪気に、陛下は笑っている。彼はいつでも笑うのだ。ならば私が泣くわけにはいくまいと、頭を下げて彼に触れた。脈は力強く宿っているが、それはカラクリのように無機質な精密さを帯びていた。彼の肌はこんなに白かっただろうか。つるりと硬くこわばり、背後の管と共鳴し合っている。なんと恐ろしいことだろう。背筋に細かな震えが走り、私は今すぐにでもこの場所から逃げ出したい気持ちになった。
「陛下、私は貴方が……」
「案ずるな。試行中だが死にはせぬ」
「ですが、これは正しいやり方でしょうか」
「……よもや其方も、立場を捨て寿命に没っせと申すのか?」
「いえ、貴方には生きていてほしい」
 それは本音だ。けれどこの狂気と言える判断が、己でなく何かのためであるならば、そんな使命は捨ててほしいとも思う。管は変わらず轟々と鳴っている。まるで肥大化させられた魂が、苦しみに喘いでいるようだ。



「俺は死なない皇帝陛下のもと、永遠に戦争ができればそれでいいがね」
 韓信殿はそう言って、ふくよかな顔の下に指を添えた。
 あれから暫くのときが経ち、近頃ではあちこちにきな臭い火種が燻っていた。今陛下が崩御すれば張り詰めた糸は切れ、再び戦乱の世へと舞い戻るだろう。多くの血が流れ、文明は分断され、文化は後進し、また一からの再建を余儀なくされる。人の進化を遮るものはいつだって人なのだ。それが大変な損失であることは理解できる。
「あのお方は、ここで呆気なく退場していい人じゃない」
 韓信殿の声を聞きながら考えた。大局をみればそれは正しい判断である。
 しかし私はいつまでも、彼の見上げる方向へ顔を向けることができなかった。よく晴れた秋の日だ。畑には麦が光り、豊かな穂先を揺らしている。ひときわ大きな風が吹き、宮庭の木々がざわりと揺れる。けれど背後におちた大きな影は微動だにしなかった。
 私は諦め、宮殿の敷居をまたぐ。すっかり様変わりした王宮の梁のあいだから垣間見える、皇帝陛下の姿に生き物としての面影は残っていなかった。
「なぜそこまで国を思うのです……民を憂うのです……御身を失ってまで」
「失ったものなど有りはせぬ」
 声だけはずっと変わらず、なおも穏やかなままだ。
「朕は常、得続けている」
 私はそっと歩み寄り、皇帝陛下だったものの一部へ触れる。ひんやりと冷たく、脈と言えるものは何一つ感じ取れない。代わりに規則的なカラクリの振動が聞こえる。一律で素っ気ない、ざらざらとした振動だ。確かにここに彼の魂が、そのまま宿っているのなら嘆くことなどないのかもしれない。
「陛下は何を得たいのですか」
「得たいではなく、得続けていると申したであろう。其方からの献身にしてもそうだ」
「それは私が、貴方のことを」
「──だがその深き情、この先の世には些か過分である。誰もが朕のように、情や業を泰然と受け止められるわけではないからな」
 私の一番の美点はその情の深さにあると、いつだか言ってくれた皇帝陛下の言葉とは思えなかった。彼はそのまま穏やかに、儒に通ずる豊かな感受性など、一民が持つべきものではないと語った。
「さしあたって凍結処置を前に、何か申しておくことはあるか」
 隣で韓信殿は首を振った。そのじっとりとした目が私へと向き、とうとう本音が漏れてしまう。
「では今すぐ、私の首を刎ねてください。凍結保存など……まっぴら御免です。そもそも戦の能力も知識も持ち合わせない私を、駒として永久に保存する理由がどこにありましょう」
「……」
「皇帝陛下、あなたらしくない。合理的な理由もなく、限りある技術を個人のため浪費するなど」
 乱世の気配を前にして、着々と進行したこのおかしな技術にだって、一人あたりに莫大な資源と資金を要するのだ。私以外の選抜民はみな一角の武将であり、軍師であり、後世に残すべき名だたる戦力だった。側近とはいえ、ただの宮仕えの女である私が選ばれる理由はない。
「理由はある──理由はあるのだ、名前」
 ここへきて、陛下の声は初めてわずかな震えを帯びた。韓信殿が退室するのが横目に見える。彼は複数の技師や仙道師に囲まれて、満足げに廊下の奥へと足を進めている。彼には彼の哲学があるのだ。皇帝陛下に勝らずとも劣らない、時を経てなお衰えることのない純真な欲望だ。私にそれがあるだろうか。
「朕はおそらくこれより千年の孤独を生きる。それはこの朕の精神力をもってしても、拠り所なくしては耐えきれぬことだ」
「……千年の」
「共にあり、息絶えぬと約束してくれ」
 なんて勝手な人なのだろう。意志も意識もない、凍ったままの女を拠り所などとのたまうこの男は、とっくに人の心をなくしている。硬く冷たい歯車となっても、心があるのなら良いと思っていた。けれどやはり、そんなことは不可能なのだ。
 肉体を失い死から解放された生き物が、他の生き物を対等に扱うことは難しい。心とは、一生をかけて使い切る、等身大の体の中に宿るのだ。人には人の大きさがある。心だって体だって、それは同じだ。
「──わかりました」
 けれど今、この男が寂しいというのなら私に選択肢はない。考えてわかったことは、私にだって気の遠くなるような欲望はあるということだ。そしてその願いは、永遠の眠りとともに行き場をなくす。
 彼はきっと、忘れてしまうだろう。保管室の端で眠る私の存在を、いつしか思い出すことすらしなくなる。巨大化する体躯と比例して、その心も土から離れ、宙へ浮くのだ。一人の女に打った楔などで繋ぎ止められるはずもない。
「贏政さま」
 もう誰も呼ばない彼の名前を呟いて、私は暗い箱の中で目を閉じた。
 天空から見下ろす秦国はさぞ広く、眩いことだろう。一人の男の心など、簡単に押し潰してしまうほど。

2019_10_06
支度

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