彼の肖像
橋の上には心地よい風が吹いていた。
風を心地よいと思えるようになったのはここ数日のことだ。自分の身に起きた出来事をうまく受け止められず、この世のすべてを拒絶するような日々が続いていた。
けれども考えてみれば、私は本来、わりに穏やかな性格なのだ。あの男と付き合い始めてからは、互いの情緒を乱し合う足の引っ張り合いに慣れてしまっていたけれど、こうして限界を迎えてみればいかに不毛であったかがわかる。別れてしばらくは両家の親からさんざん電話がかかってきたが、ようやく諦めたのか呆れ果てたのか、もうスマートフォンも光らない。
風は川下から吹いていた。
久しぶりに出歩く気が起きた私は、外食でもしようと、大きな川を渡り新都へ向かっていた。並行して架かる赤い大橋にはちかちかとテイルランプが並んでいる。この街も数年でだいぶ復興が進んだ。大火災の後に越してきた私のような新参者には、その悲惨さを実感しきれないけれど、火の手の上がった街の北西部にも今では小綺麗な建物が立ち並んで見える。
川を遡る秋風に合わせ、私は一つ息を吐いた。点々と続く街灯のあかりが橋の欄干をまあるく照らしている。その一つに手のひらを乗せ、私は薬指から銀の指輪を抜きとった。ありふれたデザインだけれど気に入っていたものだ。物と思い出を切り離して考える私にとっては惜しいことだが、いつまでも持っていても仕方がない。
手すりの上にぽとりと置いたそれをぼんやり見つめ、思い悩む。勢いに任せ川へ投げ捨てられれば格好がつくのだが、それはそれで自分に酔っているようで恥ずかしい気もした。どうしたものかとしばらく考え──結局そのまま、踵を返す。中途半端だが私らしい。ごちゃごちゃと物を考え、最善にたどり着かなければといつでも気を焦らせてきた。けれどそんなことはもうどうでもいいのだ。他人任せでも風まかせでも、私が楽ならそれが一番いいではないか。
そう思い振り返ると、いつの間にか、背後に一人の男が立っていた。
右側からも左側からも、人の近づく気配はしなかったように思う。けれどその男は私の真後ろに直立し、じっとこちらを見下ろしていた。とっさに身構えるにはあまりに現実味がなかったのだと思う。私はしばらくのあいだ黙って男の姿を眺め返し、それから彼の視線をたどった。随分と派手なジャケットだ。明らかに堅気の人間ではないだろう。人気のない夜道で女の背後に立つ男がまともとは思えないけれど、考えてみればこんな場所で数分にわたり逡巡している私こそ不審に映ったのかもしれない。
「ええと、飛び降りるつもりは」
私の言い分にこれといった反応を示さず、彼は手すりの上の指輪を見ていた。逆光であまり顔が見えないけれど、高い鼻筋は馴染みのないものだ。言葉は通じないのかもしれない。
「投げ捨てる勇気がないから、そこに置いておくんです。誰かが捨ててくれるかもしれないし」
そう思ったら気楽になって、私はありのままを口にしていた。男は数歩前へ出て、私の隣に並び立つと、大きな手のひらでぞんざいに指輪を払い退ける。ぽちゃりと小さな音を立て、指輪はあっけなく川底へ沈んだ。
「……親切な人ですね」
「貴様はくだらぬ女だな」
唐突に返された流暢な日本語、もとい核心をついた一言に面食らう。確かにそうかもしれないけれど、初対面の男にそんな言葉を投げつけられ頷けるほど物分りがよくもない。私が眉をひそめると、彼はまた表情を変えないまま、今度は赤い橋へと目をやった。ちょうど車が途切れたのか、橋は死んだようにしんと佇んでいる。火災のときはここから多くの救助や救護がかけつけたのだと聞く。
反射的に川面を覗き込めば、真っ黒な水面が小さな波風を立て光っているのが見えた。確か昼間に見たときには大きな鯉がたくさんいたので、すでに魚の餌にでもなっているかもしれない。
指輪の処分も終わったことだし、この親切で無礼な男に別れを告げて夕飯でも食べに行こう。そう思い「では」と会釈をすると、男は「礼もなしか」と不満げな声をあげた。
「あ……ありがとうございました」
「まあ親切でやったのではないがな」
なんなのだろうこの人は。気味が悪いが、中途半端な断捨離にケリをつけてくれたことも確かだ。礼を告げ、頭をさげ、そのまま逃げるように歩き始める。しかし彼もまた街へ用があるのか、同じ方向に歩き出したため結局距離をとることはできなかった。
斜め後ろを歩く恐ろしい風貌の男のおかげか、人通りの多いはずの繁華街は驚くほど歩きやすい。状況をつかみ切れずぎくしゃくと歩くこと数分、どうしたものかと思いかね、つい振り返ると男は一度頷いて「ここか」と言った。
「まあよい。会計は貴様持ちだ」
「え?」
「付き合ってやるが、別れた男の話などはするなよ」
なんということだろう。そこがちょうど週末に賑わう立ち飲みバルの前だったことも手伝い、何を勘違いしたのか男は勝手に納得をして、私の背をぐいと押した。そこでようやく気づく。
初めから、これは新手のナンパだったのだ。恋人と別れヤケになっている女など簡単に引っかかると思ったのだろう。思惑どおりこうして小洒落たカウンターでコロナビールなんかを飲んでしまっている。自分のちょろさに呆れながら、この際、一度ヤケになってみるのもいいかもしれないと考えた。別に今さら誰に義理立てする必要もないのだ。
それにしても浮世離れした男である。呆れるほど整った顔立ちをしている割に、俳優のようともモデルのようとも思えない。どちらかといえば高貴な生まれの、世間知らずな王族といった面持ちだ。私は古い映画を思い出しながら、男女が逆ならもう少し様になるのにと思った。
「日本に来て長いんですか」
「時の流れなどそう気にもせんが、もうじき十年という所か」
「十年は長いですよ。私はこの街に来て、まだ二年です」
婚約者の都合で越してきた街だが、もうそれも意味がない。すごすごと逃げ出すようで癪だが、長くいたい土地とも思えなかった。
「引っ越そうと思ってるんです。近々」
「ふん。まあ──どこにいても変わらん。人間の命運など」
男はビールを一瓶空けたあとグラスワインを注文し、その味に一通りの文句をつけた。搾りかすに酢を混ぜたような味だ、だの、大量の罪なき果実をよくもここまで無駄にできるものだ、だの、散々悪し様に罵ったあと、それを私の方へ寄越し今度はべつのビールを注文し始めている。随分とマイペースな人だ。押し付けられたワインを一口飲んでみるが、そう悪いとも思わない。
「庶民の飲む酒の質は、その国の質に比例する」
「要するに」
「とるにたらん国だ。だが極端に悪いということもない。この時代に見合った粗悪さというやつよ」
「口が悪いんですね」
こうまで言われればまっとうに眉をひそめる気も起きず、私は呆れながらそう返した。そして思う。こんなふうに明快に生きられれば、ある意味見事な生き様といえるだろう。真似はできないけれど、私だってもっと──。
「もっと、言ってやればよかった」
「男の話をするなと」
「悪口くらい良いでしょう。最悪な男でした。あなたの口の悪さなんてかわいく思えるくらい」
会ったばかりの男の本質などわからないけれど、少なくとも今の私にとっては歴史上のいかなる極悪人より別れた恋人が憎いのだ。
「我と比べるとは不敬な女だ。だがまあ、我と比べれば全ての男など取るに足らぬことも確か。女どもも哀れなことよな」
「口説くの下手ですね……」
「口説いておらぬわ。大概にせよ」
そこからビールとワインをもう一杯ずつちびちびと口に運び、めいっぱい元婚約者の悪口を言った。私なりにいつになく発散したつもりだったが、男からすればてんで甘すぎるらしく「貴様には悪態をつく才能がないな」と切って捨てられた。
そんなぁ、とカウンターへ突っ伏しながら、なんだか楽しくなってきたことに危機感を覚え店を出たのだ。
タクシーをつかまえ乗り込むまでのあいだ、男が私を引き止める様子はなかった。口説いていないと言っていたが本当にそうなのかもしれない。
不可思議な夜を過ごした私は、ほろ酔いのままぱたぱたとマンションの階段を上った。ドアの前へ着いたとき、カチリとパンプスのヒールが何かを踏んだ音がした。屈みこみ、拾い上げる。
落ちていたのは捨てたはずの指輪だった。
とたんにぞっと震えが走り、指先の銀色をよくよく見て、気付く。確かにデザインは同じだが、いくらかサイズの大きなこれは私の物ではない。
そうして背後に人の気配があることに気付いた。
振り向けば今度は金色の男ではなく、過去の男がそこに立っていた。
支度