ある晴れた日に君へ触れること
02
この雪山へ来る前のことを思い出す。
そこは白くなく、寒くもなかったけれど、とりわけ温かくもなく、そして色もなかった。自分の出生を特別に不幸と思うわけではない。ありふれた吹き溜まりであり、よくある地獄だ。この世のどこに地獄を有さない極楽があるだろう。両極を内包しないことには、均衡をたもてないのが世界なのだ。
一つ一つと、鮮やかな影が消えていく。
最大の役割を果たし終えたカルデアは、その簡素な白さを取り戻しつつあった。
「魔力供給率、異常なし。霊基、霊核とも安定しています」
こうして向き合う古き王も、定礎修復という大きな役割を終え、在るべき場所へ還ろうとしている。
「狂騒なる宴は終わった。だが──」
彼と話すのはいつも窓の前だ。ベッドの中ということもあるのだけれど、私はできるだけそのことを思い出さないようにしていた。一度ではない逢瀬だ。でも正直なところ、それをものの数としてかぞえていいのか私にはわからなかった。彼とのことはすべてが陽炎のように不確かだ。触れているときはあんなにも確かだというのに。
「これより続くは、比類なき苦難の道であろう」
降り止んだ雪の先を見通すように、彼は言う。未来視を持たずとも、偉大なる王とは人離れした先見の明を持つのだと聞く。
「死して尚続く冥府の旅のようなものだ」
「死して……?」
「例えだ。貴様らは生きながらに死を背負い、在りながらに亡きものを抱え続けなければならぬ」
確信じみたことを言うファラオの言葉を聞いても、私にはこれから起こることをうまく想像することができなかった。人理修復ののち、再び世界と向き合いながら、折り合いなど付くべくもない後処理をしていくことは確かに大変なことだろう。けれどあの無残な焼却行為と命がけの死闘を思えば、それ以上に過酷なことなど存在しないように思う。
しかしこの王は、苦難は続くと宣言する。バイタルチェックを終えた私たちは、白い壁を背にして温かいコーヒーを飲んでいた。暑い国の王がマグカップでコーヒーを飲む様は不思議なものだ。絶対の価値観を持つのであろう男だが、彼は新しいものや現代的なものをよく好んだ。その柔軟さがなければ、きっとエジプトはあれほどまで栄えなかったのだろう。
「良い豆だ」
組まれた足の指の先が、妙に身近に思え悲しくなる。この人だって、明日にはいなくなっているかもしれない。面倒見はいいけれど、潔もいい男だ。私は彼に触れるたびに思っていたあることを、聞くならば今しかないと思い切り、口を開く。
「死出の旅路というならば、私もいつか、ファラオの奥方に会えるでしょうか」
「あれも比類なき女だ。いつかそういうこともあろうな」
オジマンディアス王は、金の瞳を少しだけ見開いてこちらを見た。
「だが今、此処にいる余がかつての余そのものでないように、我が妻が顕現し得たとして、それは妻そのものではない」
「そう、なのでしょうか」
「そうだ。英霊が生前のままの感性を交わし合えたとすれば、それは現世にとって都合の悪いことであろう。生身の激情を失わず心に留めておける者などバーサーカークラスくらいのもの。そういう意味で、彼奴らは何よりも貴重であるのだ」
「……」
「我を忘れるがごとく激情に身を焦がす彼奴らを、それでもどこか羨ましく思うのはそういうわけであろうな。誰でも持ち得る適性ではない。代えがたき一つの才覚というものよ」
彼がわずかでも、誰かを羨むことを知り意外に思う。その内容もまた意外だった。
「でも、貴方の想いは色褪せていないように見えます」
「……心の柔き女であるな、貴様は」
コーヒーのマグをテーブルに置き、彼はやはり空を見た。山以外には空しかないような土地だ。けれどそのシンプルさが、今の私たちにはありがたい。
「当然、妻を想う余の心に変化などない。このさき幾度顕現をしようとも、失うことも損なわれることもない。だがまあ──そういうことではないのだ」
私も同じように空を見て、彼の言葉に耳を傾ける。なんて贅沢なことだろう。一言も聞き逃したくなく、忘れたくなく、私は雲の形と山の稜線にこの瞬間を刻み込むよう、じっと目を凝らした。
「生は一度きりだ。同じように、その身に宿る心とて一度きりなのだ。歴史に名を残す英雄であってもそれは変わらぬ。そうでなくて生きることに何の価値があろうか」
憎みあい殺しあった仇同士が夕飯を共にするのも、今生の別れを果たした友同士が飄々と戦術を語るのも、そういうわけなのかもしれない。私には想像のつかないことだが、確かに生身の激情は、霊子体にはいささか湿っぽすぎて馴染まないのだろう。
そんな存在と、湿っぽさの最たるものと言える関係を築いてしまったことが、今さら心にずっしりとのしかかるようだ。私は少し肩を丸め、目を閉じる。
「また会えますか」
「英霊としてのこの姿は、余にとっての死出の旅だ。また道が交わることもあろう」
過酷な運命のさなかでしか出会えぬこの人と、苦難の道を共にするのは決して幸せなことではないだろう。けれどそうであるならば尚さら、共に歩むのが彼であってほしいと思う。
「貴様が余の子を孕めば、それは愛おしいものであったろうな」
必死で本来の距離感を取り戻そうとしている私へ向けて、彼は平気でそんなことを言うのだ。
「貴方の子どもは頑固そうです」
「ふ、王の子だ。当然であろう」
頷きながら、オジマンディアス王は少年のように笑った。世界に対する父性の象徴のような王様だが、時折りこうして愛すべき子どものような顔をする。神や両親の祝福のもと、愛されてこの世に生まれ落ちたのだと、どこまでも己を誇る男だ。幾人もの英霊を見てきたが、そのような出生を持つ者は決して多くない。彼は生命の誕生に圧倒的な希望を抱いている。子が生まれ、親が育むその営みを、愛しているのだ。
私は──それに救われたのかもしれない。
この山へ来る前のことを思い出す。寒くなく、白くなく、温かくもなく、鮮やかさもなかった世界だ。悲劇の英雄でなくとも、生まれを誇れぬ者はいる。ありふれた失望と焦燥のもと、自分で自分を奮い立たせ必死で生き延びた者もいるのだ。
「私も、自分を誇っていいでしょうか」
「当然だ。余に愛された女だぞ」
気を抜くと涙が出てしまいそうだ。この貴重な瞬間を、湿らせたくはないのに。
「それにな、例えその事実がなくとも、貴様は己を誇ってよい。余の許しを得ずともだ」
「……」
「歩め、名前」
顔を上げたときには、彼は姿を消していた。
窓の外にはまた雪が降り始めている。雲の形は変わり、山の稜線はぼんやりと曇っていた。
明日には査問会議が始まる。それにしても冷える日だと、白衣の裾を握りしめた。東欧のように寂れた風が吹きはじめている。私は袖口で頬を擦り、さっきまでそこに在ったものに思いを馳せ、前をむく。
歩むのだ、どこまでも。この鮮やかな死出の道を。
始末