ある晴れた日に君へ触れること
01
私を抱きながら他の女の話をする男だ。
細く細く慈しみ深く目を細めながら、彼は最愛の妻を語る。船のように大きなその体の上に私を乗せ、遥か昔に寄り添った幸せな夫婦の物語を紡ぐのだ。そこに生臭さはなく、ただ色褪せない鮮やかな激情があった。
「あれは愛と美の女神、ハトホルの化身よ。今にして思えば──ネフェルタリさえそこに居れば側室など求むるに能わなかったのやもしれぬ」
そんなことを言いながらも、こうして私に手を伸ばすのだから男というのは勝手なものだ。
彼が初めて私に触れたのは、窓の外が一際吹雪く真冬の夜のことだった。
「つまらぬ白さだ」
大きなガラス窓の正面に立ち、ファラオ・オジマンディアスは真っ直ぐに外を見つめていた。吹雪にけぶる遠景は距離感をなくし、ぺたりと張り付いたように窓枠のうちに収まっている。
「カルデアは外も内も無色に過ぎる。わが大神殿から一歩踏み出てみればこの無機質さよ。人の営みの生臭さというものを忘れそうになるな」
たしかにこの施設はいたるところが白い。だからこそ、行き交う過去の英雄たちの鮮やさがひときわ浮き立って見えた。異分子であり、陽炎のような一瞬の奇跡であるということを、おかげで忘れずにいられる。太陽の光をまとうこの男も、いずれはこの度の役割を終え、光の一粒も残さずにシステムの中へ還っていくのだ。研究員としてここフィニス・カルデアで働き始め、もうしばらくが経つけれど、連続性のある奇跡の数々に慣れることはまだない。
「霊基も霊核も安定しています。半受肉体に違和感はないでしょうか」
「ふむ、違和感と言われれば常、感じている」
「それは──」
「だが申しても詮無きことであろう。余の肉体を万全かつ全盛の状態で顕現させ続けるなど、この施設においては不可能」
定期的に行われるサーヴァントたちのバイタルチェックも今日で八度目となる。特異点を越えるたびに増える、人を超えた人型の霊子体──その数はもう施設内の個室を埋め尽くして余りあるほどになっているのだ。彼の言うとおり、電力エネルギーだけで供給を賄い続けるのには限界があった。
「申し訳ありません。遠征や、日課の編成に組み込まれたサーヴァントには優先して魔力を回しますので」
ただでさえ、やれ娯楽施設を充実させろ、個室の内装を自分好みに変えろと、一時代を築いた英雄たちの要望には際限がない。彼の望む大神殿の顕現にだって、日夜相当な魔力リソースを割いているのだ。
「まこと不便なものであるな」
「そのための半受肉です。生前と同じく適切な食事と睡眠を摂ることで、一定の疑似生命エネルギーを自給することができます」
「それは心得ておる。だが半受肉とは、今まさに一度目の生を紡ぐ貴様には理解できまいが、これはこれで……」
彼はゆっくりと腕を組み、ローブの上の宝飾をじゃらりと鳴らす。常に前を見据える黄金の瞳が、珍しく伏せられ睫毛の下で陰っていた。ぞっとするほど美しい造形だ。やはりこれはこの世のものではない。生前ですら、彼を間近に見たものはそう感じたのかもしれない。
「難儀なものよ。食さずとも死なぬが、口にすれば愉しめる。だが不思議とな、貪欲に求めれば求めるほど腹がすき始める。体が生きていると錯覚し始めるのであろう」
「錯覚……」
「半受肉などという半端なものに慣らされ、体が欲を思い出せば次に起こることも予想ができよう」
「すみません、私にはとても」
正直にそう告げると、彼は少しだけ足を開きこちらへ体を向けた。
「衣食住を整えたのち、生き物が求むるは繁栄よ。繁殖と言い換えてもよい」
当然のように言ったファラオの視線を受け、私は彼の逸話を思い出した。頑丈な体躯に雄々しき才覚。そのカリスマ性で思うがまま国家を牛耳った彼は大層、精力盛んであったという。聞くところによれば百八十人の子供がいたという話もある。そんな彼が受肉体を手に入れ、じわじわと三大欲求を得つつあるとすればそれは確かに、悩ましいことだろう。
「た、たしかにバイタルの安定には生理的欲求の解消が望まれますが……」
「案ずるな、余は欲の処理のためだけに女を抱いたりはせぬ」
無意識レベルで身構えた私の様子を察し、彼は先んじてそう言った。ほっと息をついたのもつかの間、しかしオジマンディアス王は私の肩を大きな掌で掴む。獲物に照準を定めるような、爛々とした光を宿し、視線すら逸らせないよう私の瞳孔を射止めている。発言と行動の矛盾に混乱しながら、私はなんとか問いかけた。
「では、何のために」
「無論、欲したものを得るために抱く。生殖の目的とは本来そういうものであろう」
「……」
「この女にこそ余の子を孕ませんとす、強い意志のもとよ。女を見下していてはそれが出来ぬ」
彼の提示する安心と、私の思うそれはどうやら違っているようだ。私の処遇はもうすでに決まっていて、覆ることはないのだとわかる。その上でこの王は、それを栄誉なことであると宣言しているのだ。
「そのつまらぬ白を脱ぎ、中を見せよ。人の営みの鮮やかさをその身で示してみせるがよい」
彼の剥いだ白衣が廊下の床へばさりと落ち、私の研究員としての匿名性は剥がれ落ちた。
吹雪を背景にした褐色の肌と、金の宝飾が目に眩しい。どこまでも白い世界の中、向き合う私たちだけが誤魔化しようもなく生き物だった。
そう広くもない私の私室に、サーヴァントがいることは不自然に思えた。とくに彼は王という立場だ。本来このような手狭な寝所で寝起きをすることはないだろう。私にとっては充分なサイズのベッドも、体格のいい彼が寝そべれば小さく見える。
オジマンディアス王は力の抜けた私を体の上へ引き上げると、広い胸で受け止めて息を吐いた。彼が深く呼吸をするたび、揺りかごのように胸が揺れる。太陽のようにあたたかな肌の上、自然とうとうとと微睡んでゆく。
「さすがに孕まぬか」
こぼされた呟きはどうにも不満げだ。思うまま私のことを抱き尽くしておきながら、満足からは程遠いといった様子である。
「……カルデアにおける受肉は、本来のそれとは異なります」
「わかっておる。英霊が子など成せるとなれば、それは一つの特異点ともなり兼ねん歴史への干渉行為。そのようなことを望むほど余は分別を捨ててはおらぬ」
穏やかながら厳然とした声音だ。その声は、やはり真っ白な私の部屋を染め抜くように濃い色をしている。土の匂いのような、空の青さのような、濃く重い生命の響きだ。
「だがつまらぬものはつまらぬ。抱くのであれば子種を授けるのが男の責務であろう」
それには同意しかねるが、物足りなさを感じている彼と違い、私の方は溶け出しそうなほどの消耗感を抱いていた。孕まないと彼は言うけれど、本当にそうなのだろうか。この世の物理的法則など、すべてねじ伏せ反故にしかねない力強さが彼の肉体には宿っている。
「余の子を五人産み、育て上げたよき妻がいた」
ふいに優しい息遣いをしながら、オジマンディアス王はそう言った。
「名はネフェルタリ。幼き頃から共に育ち、その生涯を余の傍で過ごした唯一無二の伴侶だ。あれの笑みは格別に余の心を鎮め、癒した。純真さにおいては他の何に例えるすべもない」
褐色の肌は先程よりもさらに熱を帯びている。まるで眠る前の子供だ。毎晩捧げる、決まった祈りの文言のように、彼はそうこぼし私を抱え直した。
代わりにしているのではないのだと思う。代わりなどいない女性なのだということはその言葉からありありと伝わった。ただ単純に、今もまだ、寂しいのかもしれない。
「……愛していたんですね」
「愛している」
しっかりとそう言ったファラオの声が、耳に染みる。自分でない誰かへの愛の告白に、こうまで胸が揺さぶられるのはなぜだろう。この気持ちが哀しみでないことを願いながら、私は強く目を閉じた。胸が大きく沈み、揺りかごは一艘の船となる。ナイルを下る太陽の船だ。死出の旅を共にすれば、私もよく笑う彼の妻に会えるだろうか。
外はきっと吹雪だ。ここはこんなにも晴れているというのに。
支度