07 川の岸

※特異点としてのバビロニアではないため、イシュタルのビジュアルは凛モデルではありません。準公式のPFALZさんデザインを参考にしています。


 降り続いた雨がようやく上がったのは六日後のことだった。
 豊穣の祀りを明日に控えたウルク市街は、あちこちに祭壇の火が焚かれ星空のように煌めいている。温かな色だ。摩天楼の夜景とは違う朱色の灯火が、夜風に揺られまたたく様はまさに銀河を映し込むようだった。星を読む民族なのだと聞いたことがある。太陰暦を作り上げたシュメール人は、月とともに耕作をし、星とともに豊穣を祈る。
「綺麗ですね」
 仕事を終えた私たちはジッグラトの城壁に出て、冷え始めた夜の空気にあたっていた。イェトラさんの瞳もまた、町の灯を映しこみちらちらと光っている。私の目も同じだろうか。瞼を閉じて、深く息を吸う。
「星をかき消すほどの街灯り、というものを想像できますか」
「……星を? あんなに遠くにあるものをかき消すのに、一体いかほどの魔力が要りましょうや」
 答えを探しあぐねる彼女の声は、謎かけを解く少女のようだ。
「私たちの街は、夜になっても煌煌と光っていました。星の数を忘れ、星座は途切れ、人々は空を見上げなくなった」
 私は瞼の裏にまだ自分の時代を思い描けることをたしかめてから、またゆっくりと目を開ける。ビル群の輝きと比べれば、あまりに心もとなく、ささやかで、それゆえに胸を打つ光だ。一つ一つが魂のように揺らめいて、懸命に生きようとしている。それは紛れもなく生命の根源だった。
「では、どのように神へ祈ったのでしょう。神様は空におわします。星の間を抜け、太陽の光を背に、私たちを見下ろすのがわが都市神、イシュタル様とその御父上アヌ神様であります」
「神は……」
 退いたのだ。とどまることのない文明の発展が、神を空の向こうへと追いやった。火は熱を生み、やがて大いなるエネルギーとなる。人は闇を克服し、数多の技術を得る。そしてその発端となった人物こそ──。
「ギルガメッシュ王は、神々を疎んでおいでです。ですが私たちには、神様の御加護を授からぬ世など想像もできない」
 それが良いことかはわからない。けれど文明を享受して生きてきた私が、今さら神におもねることはできない。
「祭祀官にとって神はわが身の存在意義そのもの」
 そう言う彼女の横顔は美しかった。そして、あんなに遠い存在であったギルガメッシュ王のことを、私は初めて身近に感じた。心底から神に敬虔なこの女性こそ理解の及ばぬ存在に思える。王は地上に根ざした人の力こそ、人が信じるべき確かな底力だと知っていたのだ。神との決別を選んだ、人類史の祖、ギルガメッシュ。後世に残る叙事詩を知れば彼女は哀しむだろうか。
「明日も、晴れると良いですね」
 けれど私は彼女に好感を持っている。このウルクで唯一心を寄り添わせることのできる存在だ。彼女の生き方を理解することは難しい。それでも私たちはこうして優しい心を交わし合うことができる。
「晴れるでしょう。風でわかります。名前様は先におやすみくださいませ」
 彼女は口元のベールをしっとりと弛ませ、お辞儀をする。
「私どもは今宵のうちから祈りの儀を始めます。どうかお体を冷やすことのないよう」
「はい。おやすみなさい」
 ウルクの夜は早い。夜にまで光を灯す理由など、祈り以外にありはしないのだ。
 星とともに眠り、朝を待つ。一際強く輝くあれは、金星だろうか。



 翌日は彼女の言う通り、気持ちのいい晴れ日だった。
 日が昇りきる前から祭祀場の周りには楽器の音が鳴り響き、焚かれた香が王宮の中層部にまで匂い立っている。ジッグラトの裏手から川下へと続く牧草地には、この秋に獲れた農作物や果実、干ぼしの魚、絞められた鶏、山羊の乳や醸造酒、またそれらを使った豪勢な料理の数々が所狭しと奉納されていた。
 祭祀官でない私はそこに踏み入ることができないため、こうして通常の執務に励みながら、窓辺から賑やかな城下を見下ろすのみだ。国の豊かさを凝縮したような光景は本来であれば国王の誇りそのものであろう。
「気を入れて扇がぬか! 我はこの香を好かん」
 それだというのに、王は朝から機嫌が悪い。玉座に腰掛けたまま近侍に檄を飛ばし、自分の周りの空気を精錬に保てと無茶を言っている。階下で水汲みをする私の元にまで聞こえてくるのだから相当なものだ。戦々恐々と王の命令に従う側近たちは、どうかこれ以上の王の情緒が荒れることなく、今日の儀式が終わるようにとただ祈っているようだった。

 ふいに、空が光ったと思った。
 閃光のように走ったそれがユーフラテスの下流に風を巻き起こし、積まれた麦の穂が祝福のように舞いすさぶ。
 楽器の音がぴたりと止み、祈りを上げていた祭祀官の誰もが次の瞬間には平身低頭していた。彼女たちの向く先、何者かが舞い降りた川辺の一帯はやはり眩しく光っている。目を凝らせばそこに在るのは黄金の髪と、曲線美──女性の体だ。裸に近い格好をしたその人は豊かな肉体を地上数メートルに浮遊させ、捧げられた奉納品の数々を眺めていた。
「あれが、豊穣の女神イシュタル」
 小さく呟いただけのつもりだった。けれど彼女は、私の声に反応するかのように顔を上げ、金の目で真っ直ぐにジッグラトを捉えた。途端に自分の息が肺の奥へと押し戻されていくのを感じる。城壁から見下ろしていた者たちも皆、気付けば作業の手を止め身を屈めている。自分だけが彼女を直視しているのだと、気付いた時には汗が顎までつたっていた。操られるようぎこちなく頭を下げながら、私は王に跪いたときのことを思い出した。自らの出生や立場、育んできた価値観など関係ない。神の血を引く者たちは、それらを一瞬で捩じ伏せ塗り替えるほどの力を持っているのだ。
「来たか」
 冷や汗を滲ませる私の上に、続けて降ったのは王の声だった。
 ジッグラトの最上階から聞こえてきたその声はやはり不機嫌さに満ちており、私はようやく祭祀官や側近たちの気苦労を思い知る。同時に気付いたのは、女神の視線の先にあるのが私などでなく、彼女を見下ろす国王その人であるということだ。
「意地汚く奉納品をかき集め、さっさと天へ帰るがよい」
「おかしな口をきくのね人の王。目をかけてやっているのをいいことに、随分とつけ上がっているようだわ」
 彼女の声は目視した距離感を無視し、頭のすぐ上から響くようだった。きっとここにいる誰もがそう思っているのだろう。ゆえに私たちはぴくりとも顎を上げられない。国王と女神の問答をただじっと聞いているしかなかった。
「何を思い上がるか。貴様にかけられた情なぞ、全て手も触れず下水に流しておるわ」
「……あなたはいつか後悔をするでしょうね。虚勢を張っても所詮は人の血を持つ混ざりもの。いずれは死に怯え、哀れに朽ち果てるだけの存在だというのに」
 イシュタルの声には、粘つく母性と少女の無邪気さを混ぜ合わせたかのような恐ろしさがあった。端で聞いている私でも身の毛がよだつエゴイズムだ。同時に陶酔してしまいそうな魅力も感じる。奔放な女神とイェトラさんは言ったが、これは確かに生みの親ですら制御のできぬ奔放さだろう。
「その前に私のものになりなさい。あなたの心根の傲慢さには辟易しているけれど、見目の麗しさはまだ私を飽きさせていないわ。シャマシュに感謝をすることね」
「我が貴様のものになるだと?」
 冷や汗をかく私たちの背後でそう尋ね返すと、王は天に向けて大笑を響かせた。
「何を馬鹿げたことを! 女の哀れな思い込みもここまでくれば笑えてくるぞ。貴様、天空の女主人などやめていっそ道化師にでも転じたらどうだ? さすれば贔屓にしてやるが」
「……始祖神アヌの血を引くこのイシュタルに向けて、よくもそんな侮辱ができたものね」
 イシュタルの纏うオーラが急速に高揚していくのを感じる。畏怖の念を防衛本能が上回り顔を上げる。こちらを睨む彼女の目は、昨夜見た金星のように朱く燃えていた。地上にいる祭祀官の幾人かは、膝をわななかせ地面へと倒れ伏している。そうして怒りに身を震わせた女神が辺りの作物や草木だけでなく、川の水までもを渦巻かせ始めたとき、勇敢にも彼女の元へ歩み寄った一人の女性がいた。
 周りとは違う色の布に身を包んだ年配の女性は、おそらく祭祀長だ。彼女は深々と頭を下げ、何かを女神へと告げていた。詫び、宥め、懇願しているのだろう。他の祭祀官たちも背後へと続き、共に頭を下げている。その中にはイェトラさんの姿もあった。私は急に恐ろしくなる。信念のため裁きを恐れぬ彼女たちが、差し出しているのが自分の命だとしたら──。王は彼女を鞭で打たせたが、神の裁きはきっとそれよりも苛烈だ。
「──いいでしょう」
 しかし女神イシュタルは腕組みをすると、途端にからっとした声を出した。その長い爪を自らの肘に添わせながら、悠然とした微笑みを浮かべている。
「彼女たちの敬虔さに免じ、今日のところは赦してやるわ。民に恵まれた王なのね、あなた。暴君には過ぎるほどの王国だわ」
「我の民を貴様が評するな」
「これは私の民でもあるのよ。この地を誰が守護していると?」
「もはや神々の守護など──」
 再び激化しそうになったやりとりをそこで止めると、意外にもギルガメッシュ王は声を抑えた。
「まあよい。我も今日はその先を言わぬ」
 国を守らんと懸命に尽くす祭祀官たちを、貴重と思っているのは彼もまた同じのようだ。この儀式に泥を塗るまいと判断したのか、王は踵を返し玉座の間へと戻っていく。
「我とて、貴様の権能を見くびるつもりはない」
 牽制だろうか、それとも彼なりの評価なのだろうか。そう一言残し、宮内へと帰る王の背を見つめる女神の目は、今日見たいつよりも貪欲に光っていた。
「あなたやっぱり、人の寿命では惜しいわ」
 この王は何歳まで生きたのだったか。再び襲うぞくりとするような寒気の中で、私は神と王の決着の行方を思った。

2019_02_01


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