06 床の端

 イェトラさんの家は、四代前から王宮に仕える由緒のある一族であるらしい。三人姉妹の長女とした生まれた彼女は、いつでもその誇りを胸に自らを律してきたと言う。五歳下の妹さんは二年前の夏に熱病に侵され亡くなったそうだ。理知的な茶色の瞳が私によく似ていると、頬に手を添えては微笑んでくれるため、姉のいない私ですらどこか懐かしい気持ちになった。
「午後は水汲みに行かれるのですか」
「はい。イェトラさんは祭祀場へ?」
「そうですね。豊穣の祀りが七日後に控えておりますので……出来る限りの支度をしておかなければ」
 どこか憂いを帯びた彼女の顔に、私はこくりと首をかしげる。
「豊穣の祀りとは一体どのような儀式なのでしょう」
 彼女にとってその儀式は、幼いときから己の存在意義と教えられるほどの聖務であるらしい。何も知らない私をよほど物珍しく思ったのか、いつもゆるやかに細められている目をまんまるく見開いて、頷いた。
「ウルクの都市神であらせられるイシュタル様は、六つの権能を司る素晴らしき女神様です。この国の豊穣も隆盛も、あのお方の御加護なしには決して成り立ちません」
「都市神、ですか」
「もちろん、祀りの支度は滞りなく進んでおります。人員においても常、万全を尽くしております。ですがそれでも、憂うべき点があるとすれば──」
 そこまで話したところで、彼女はまた少しだけ眉を下げ、そんな自分を戒めるよう首を振った。己の信仰を裏切らぬよう、言葉を選んでいるのだ。
「イシュタル様のお力はその系譜の純正さゆえ非常に強大であらせられます。そして御心にいたっても、大層豊かで、奔放でいらっしゃる」
「なるほど」
「我が王もまた──神から授かりし高潔なる玉体に、苛烈な魂を宿すお方。アヌ神の娘御であるイシュタル様に少しの引けをとることもない王の神性は、半人の御身に収めるには些かお強すぎるのです」
「要するに……」
 彼女の言葉は高潔だが、このような苦労は私にも覚えがある。どこの世でも起こりうる、身近でいて悩ましい問題だ。
「……仲が悪いんですね?」
 私の返答に、彼女はこほんと一度咳をして表情を整える。
「そのようなお二人が互いのご意向を発露し合うとすれば、万が一のことも考えられます」
 祀るべき都市神と、国王が不仲となれば祭祀官たちの気苦労は推して知るべしである。宮殿付きの女官と違い、儀式を司る祭祀官たちはいわば神と王による板挟み状態なのだろう。神々の力が弱まりつつある過渡期の時代とはいえ、否、であるからこそ、神は人の驕りを決して許しはしないのだ。
 何か力になれることがあればいいのだが、未来から来たぽっと出の魔術師が干渉できる類のことではない。私は彼女の横顔をそっと見つめ、全てが上手くいくようにと空へ祈った。



 イェトラさんと別れたあと、私は昨日に引き続き宮内の貯水槽に水を貯めるため、中庭の井戸から瓶を運んだ。
 ジッグラトの内部には三つの貯水場あり、それぞれを満たすため日替わりで回らなくてはならない。一つは下層にある厨房や洗濯場で使うための生活用水、もう一つは庭園の管理や湯浴みの儀式のため中層へと設置されたもの、そして最後の一つが、王のためにのみ使われるジッグラト上部の貯水部屋だ。瓶のまま冷水を保管するその部屋は、熱く乾いたメソポタミアの日中でもひんやりと心地の良い空気が流れている。しかしそこまで何往復と水を運ぶのはとても根気のいることだ。水瓶は重く、滑り止めの装飾が彫られているとはいえ汗をかけばよく滑る。機械による大量生産のないこの時代、一つ割れば無駄になる資源と労力は計り知れない。
 初めのうち、私は瓶を掴む手のひらと、踏み出す足先にばかり力を入れくたくたになっていた。しかしわななく筋肉を宥めながら数日間続けるうち、この器が慣れれば非常に合理的なものであると気付く。重心を低くとり、体の軸を安定させ、子を抱く親のような姿勢で体に馴染ませれば驚くほど負担が軽減するのだ。
 王のための水汲み番が回ってくるまでのあいだに、それを習得できたのは幸いだった。艶やかに磨かれた床の上でも今はそれなりに安定をして歩くことができる。
 そして私が二往復半を終え、傾き始めた太陽に額の汗を拭うころ、それは起きた。
 バリンという硬質な破壊音の余韻が、石の壁に反響していやに長く響き渡る。反射的に顔を上げた私は、自分の瓶をつられて落とさぬよう体勢を立て直した。
 曲がった廊下の先に見えたのは、開けた踊り場の半ばに散乱する瓶の破片と、膝をつく少女──そしてそれらを数歩先から見下ろす、王の姿だった。
「申し訳、ございません」
 少女は真っ青になった顔を小さくうつむかせ、か細い声を発している。対する王は無言だ。感情の読めない彼の顔は作り物のように整っているがゆえに恐ろしく、その圧力はいつまでも顔を上げられない少女の上に容赦なく降りかかる。私より先に駆け寄った年長の女官が、彼女の肩を支えている。庇うためだろう、彼女は少女に自分の瓶を差し出すと、破片は私が片付けるのであなたはこれを運びなさいと促した。数日前から見かけるようになった彼女はまだ幼い面ざしを目尻に残しながら、必死に王宮の執務を覚えていた。この国では十代も半ばに差し掛かれば、もう一人前の官女なのだ。
 しかし彼女の手足はまともな機能を取り戻さないらしい。この場から遠ざけようと効かせた機転が裏目に出た。
 幼い頃から国王を崇拝して生きてきた彼女にとって、当人と対面し、その身に視線を浴びることは私などには想像しがたい誉なのだ。警護もつけずに日頃から宮内をうろついている国王と、廊下の端で邂逅することがあるということを、たとえ話に聞き及んでいたとしても咄嗟には受け入れ難いのだろう。
 促されるままなんとか立ち上がった彼女だったが、いまだ仕草は覚束なく、瓶の水はまたもや大きく揺れ始める。対角からこともなげに見下す王様はきっとまだ激昂していない。けれど彼女が二度目の失態を犯せばそれも定かではない。それを認識しているのか、少女の動作はますます強張るばかりだ。
 趣味が悪いと思う。まだ慣れない仕事であることは彼女の様子を見ていればわかるのに、あえて表情を浮かべることもせず淡々と見定めている。庭園で私を屈服させたときにも感じた、強者の無遠慮な優越が広い踊り場に満ち満ちていた。王にとっては意識すらしないだろうその威圧が、私たちの自由をいいように奪うのだ。
 私は足の赴くまま彼女の元へと歩み寄り、迷った末にすれ違いざま声をかけた。
「大丈夫」
 片腕で水瓶を抱え直し、さりげなく彼女の腕へ手を添える。
「息を吸って。きっと真っ直ぐに歩けます」
 体に走る魔術回路を地図のように意識して、私も小さく息を整えた。わずかながら確かな交流を感じ、はっとした少女が顔を上げたと同時に、微笑み返す。少女の震えはぴたり止まっていた。
 こくりと頷いた彼女がたしかな足取りで歩き始めたことに安心し、二人で踊り場を抜けようとした、瞬間だった。
「こちらへ参れ。他は退がれ」
 無言を貫いていた王が突如そう発し、三人の女官のあいだに只ならぬ緊張が走る。王の目はまっすぐに少女の姿を捉えていた。
「そこの女だ。不自由な娘よ、貴様は耳も聞こえぬのか」
 よく通る王の声は呆れと愉悦を含んでいる。怒りは感じられないが当然、有無を言わさぬ迫力があった。
「それは置け。身一つでよい」
 言われた通り瓶を床へ置き、ふらふらと歩み寄る少女の肩を、王様の大きな掌が掴む。私は状況をつかめないながらに、思わず声を発していた。
「王様」
「なんだ。貴様は呼ばれもせぬのに我を呼ぶのか。……女官の躾役は重病でも患っておるのか?」
 割れた水瓶と私の顔を交互に見て、王様は目を細める。年長の女官は何かを理解しているのか、私を諌めるよう手を差し出して頭を下げた。
「失礼を致しました」
 退く私たちの背に、彼は一言「なに、悪くはせん」と零す。少女を置いてその場を去るのは心苦しかった。元来た階段を下るあいだ、私はイェトラさんの腕に残る赤い傷跡を思い出していた。目の前がぐらぐらと揺れ、足を踏み外しそうになる。
「ご安心を。王は彼女を裁きはしません」
「でも……」
「先に下へ参りましょう。しばらくは人払いを」
 神妙な顔でそう言った彼女に従い、私は他の執務に当たる。給水役の女官が上層への階段を上らぬよう気を配りながら、日当たりのいい中庭に干していた大量の衣服を、葦の竿から剥がしていく。取り込みがすべて終わるころ階上の廊下に王の金髪を認めた私たちは、入れ替わるよう再び踊り場へ足を運んだ。
 床には割れたままの瓶があり、その端に、壁にもたれるよう少女が座り込んでいる。駆け寄って声をかけると、彼女はぼんやりと顔を上げた。紅潮した顔に蜜のような涙を滲ませながら、しぼり出すように「先ほどは」と呟く。
「ありがとうございました」
「いえ……それより、大丈夫ですか。どこかお怪我を」
「わたしは……大丈夫です。ですが少し、お暇をもらっても」
「もちろんです」
 頷く私たちの顔をほっとしたように見つめ、少女は立ち上がった。初めと同じよう先輩に肩を支えられ、力なく階下へと去っていく。
「名前様。破片の処分をお願いしてもよろしいでしょうか」
「わかりました」
 指示をされ、私は腰巻の布に瓶の破片を集めていく。床へ目を落とし、あることに気づいた。彼女の座っていた場所に血の染みが滲んでいる。やはりどこかに傷を──と思ったところで、途端に力が抜ける心地がして、私はいろいろなことを理解した。
 全てを奪い、蒐集する。王が人を囲うとはそういうことなのだ。庭園の花を散らすのと変わりないその行いを、彼は悪癖とすら思っていないだろう。力んだ指先に破片がぷつりと食い込んでいく。

2019_01_24


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