05 雨の横

 空が高く見える。水を含んだような豊かな青が、地平のぎりぎりにまで及ぶ光景は山に囲まれたカルデアでは見られなかったものだ。中東にしては湿潤な気候は季節によるものだろうか。私は手のひらを眉の上に翳し目を細めた。この広い空は、神々が飛び交う最後の空だ。そびえたつジッグラトは今日も天と地の間に堂々と鎮座している。人と神の狭。神代と古代の境。
「御支度が早くなりましたね」
 カウナケスと呼ばれる巻き衣を肩にかけ、腰帯を留めるのにも多少は慣れた。王は後宮と言ったが、私にあてがわれたのは幸いにも女官としての仕事着だった。簡素だが材質がよく、気品があり、その上とても機能的な衣服である。
「おかげさまで生活にも慣れてきました」
 王宮の先進的な環境は、当然ながら大量の人の手によって賄われている。時代を超越したかのような快適さも、手間と人出にいとめをつけない王の財力あってのことなのだ。するべき仕事はいくらでもあった。
 一通りの執務を覚えるだけでも一月はかかるだろうこの生活で、自分のことを考える時間はおのずと減っていく。目下最大の目標であった通信機器の返却も、こうなってしまっては言い出す術がない。そもそも降り立った瞬間からまったく反応を見せていなかった通信状態が、現在復旧しているのかも不明だ。私の存在証明が成り立っている以上、最低限のラインは繋がっているのだと思う。しかし目指していた時代と場所を外れた今、通信に適した霊脈を探さなければ機器が戻っても意味がないのかもしれない。だとしたら、まずするべきことは──。
「お気をつけくださいね」
 かけられた声にはっとする。
 全てを見透かす王の目と、祭祀官のまっすぐな瞳が重なって、雑念はどこかへ押し流されていく。そう、これは雑念だ。私は今、何よりもこの国を優先して生きるウルクの官女なのだ。この衣服は決して隠れ蓑などではない。この生活が、目的のための手段であってはならないのだ。
「雨の気配がします。こんな日には床が滑りやすくなっております」
「ああ、はい──」
 大きな瓶を抱えながら、私たちは宮内の貯水槽に水を運んでいた。
「でも、外は雲ひとつない青空ですが」
「この時期ウルクでは十日に一度ほどまとまった雨が降ります。風が変わってきたでしょう。湿った空気はそのうち雲を連れてきます。そんな日は床に湿気が篭り、ぬめりやすくなるのです」
 彼女の目線の先には、言われてみればたしかにうっすらと白雲の気配がたち始めている。気候のことも風土のこともまだ何もわからない。衣食には慣れたが住環境はそうもいかず、深く眠れない日々が続いている。同室の女官たちはみな親切だが、異邦人の私へ対する確かな緊張と警戒があった。当然のことだ。
 私は滑りやすい石の階段を上り下りしながら、瓶を滑り落とさないように細心の注意を払った。肉体的には疲れるが、単純作業に対し労力に見合った価値が認められる古代の環境はありがたかった。働き、生きるとはこういうことなのだと思い知る気分だ。机上で弁論を交わし合うカルデアの一日とは正反対の疲労感である。
 日が暮れる頃、ようやく水汲みを終えた私たちは女官に与えられた安息室で体を休めていた。王宮における女官の扱いは悪くなく、休息の時間にはこうして涼やかな場所で談話をすることも許された。ラタンで編まれたカウチに身を預けながら、互いの家族の話や今年の作物の出来具合、行商人から又聞いた隣国の噂話などに花を咲かせる。初めは異国の出である私にも、珍しい話はないかと話を振られることがあったけれど、捕虜上がりの私が酷い環境から生き延びたことを知っているのか、言葉を濁すと誰も深くは追求してこなくなった。よそ者である私がこうもすんなりと受け入れられている状況こそ、王の権威の証明に他ならない。全てのことは王の赦しにより成るのだ。例外的であろう私の処遇に、異論を挟む者は一人としていなかった。
 沸かした湯で薬湯を淹れ、パンと魚介のスープで腹を満たした私たちは、夜の執務に励むため腰を上げる。あちこちのランプ台に火を入れて、厨房へ向かおうと廊下の角を曲がったとき──ふと目に入ってきたのは見知った祭祀官の顔だった。石板の管理庫で松明の火に照らされながら作業をしている彼女は、たしかにあのとき私に食料を恵んでくれた人だ。ここで働き始めて一週間が経つけれど、彼女の顔を見たのはあの日以来のことである。私は周囲に人の目がないことを確認してから、管理庫の入り口に走り寄った。
「──よくぞご無事で」
 私に気づいた彼女は、優しい声でそう言ってこちらへやって来てくれた。
「なんとお礼を言っていいか……生き延びられたのはあなたのおかげです。本当にありがとうございました」
「私には、あなたほどの妹がおりました。とても見放すことはできませんでした」
 彼女はゆっくりと首を振って、牢屋越しにそうしたように私の手のひらを強く握った。私に年齢を聞いた彼女が、思案するよう顎を下げていたことを思い出す。会ったばかりの、得体の知れない私に、彼女が向けてくれた慈愛の深さに胸が詰まる。きっと大変な葛藤があったのだ。絶対である王の命令は、単に私を牢に入れよとそれのみであったはずだ。
 私は俯きながら彼女の手のひらを握り返し、美しい帯紐から優しげな腕へと視線を上げ──あることに気づく。カウナケスから除く彼女の褐色の肌には、大きな傷が浮いていた。痛々しく傷を覆うかさぶたはあらかた剥がれ、その傷がちょうど一月ほど前につけられたものであるとわかる。私は自分の血の気がみるみる引いていくのを感じた。そして同時に、彼女の身に起きたことを理解する。
「……王様は裁きはしないと!」
「ええ、受け取ったあなたに罪はありません。王はあなたをお裁きにならないでしょう。ですが、私は王の命に背きました」
 彼女は両手で私の頬を包むと、傷から目を逸らさせるよう優しく持ち上げ、言葉を続けた。
「元より処罰を受ける心づもりでありました。王は私の首を跳ねるかと思いましたが……三度鞭で打て、と仰り、それきりでありました」
「……そんな」
「御寛大な処置です。王は決して罪を見過ごしません。法を守ることは、国を守ることでもあるからです」
 彼女の声はとても穏やかだ。憎しみや嘆きのようなものは少しも感じられない。私はそれがとても辛く、苦しく、怖くなって目を閉じた。ここは私の知らない世界だ。天気のことも、食事のことも、人の心も、何もわからない。
「冷酷に思えるお言葉はその実、温情なのです。鞭くらい、なんでもありません」
「……」
「生きていてくれてありがとう」
 彼女はたおやかな瞳の中にうっすらと涙をたたえていた。古代の厳しい環境下で、生まれた弟妹がすべて生き抜くことはきっととても難しいことなのだ。私はそれ以上何も聞くことができず、自分の目からもまた、涙があふれ伝っていくの感じていた。
 この国のことは理解できないけれど、泣いてくれる人がいることや、涙をぬぐってくれる人がいることは、ここで生きる理由に充分なり得る。私はようやく自分の足が地に付いた気がして、息を吐いた。人の心を根付かせるのは命令ではない。誰かの手の温かさだ。私はここで生きている。否定しようのない実感が、次々と彼女の手を濡らした。
 外には雨が降り始めている。しばらくのあいださめざめと降り続くのだろう。それがこの国の決まりだからだ。

2019_01_19


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