04 庭の内
懐かしい匂いがする。
暗がりから明るみへ、引っぱり出された体がじわじわと光を吸収し、熱をもった。指先から手足へと徐々に感覚が戻っていき、自分の意識が心臓へと向いたところで体を包む温かさが光でなく、湯であることに気付く。
ちゃぷりと肌の上で揺れる湯は、ぬる過ぎず熱過ぎず心地良い温度に保たれていた。水面には白い花がいくつも浮かんでいる。お茶の中に浮いていた花と同じだ。こちらに来て初めて飲んだ茶の香を懐かしいと感じるほど、私はここ数日、生命の気配から遠ざかっていたのだ。
「ご安静に。祓いの薬湯にございます」
傍から私の肩を支えていた女性は、そう言って額の汗をゆっくりと拭ってくれた。
「お体に死霊の呪いがこびり付いておいでです」
声を発そうとするも腹に力がこもらず、私はぼんやりと周囲を観察する。身を横たえている陶器の風呂桶以外にこれといった調度品はなく、壁に埋め込まれたモザイクの紋様からここが何らかの儀式に使う部屋であることが予想できた。窓の向こうの景色からみて高度はそれなりにあるようだ。おそらくはジッグラトの一室だろう。
しばらくして、湯から引き上げられた私は藁編みのカウチへと促される。涼やかなその一間で、女官は乳白色のスープのようなものを一杯、私にくれた。時間をかけて飲み下し、ようやくほっと息をつく。それは今までに飲んだどんな飲み物よりも美味しく、滋味深く、体の芯から生命が息を吹き返すような心地がした。
「ヤギの乳で、川魚の粉末を溶いております。それから薬草と果実の汁を少し」
「……死なずに済みました」
「死なずに済んだのはあなたのお力です」
「いえ、お礼を言いたい人が」
食料を恵んでくれた祭祀官がいなければものの数日ほどで息絶えていた。聞けば私が牢へ入れられてから、もう三十日が経っているらしい。ひと月ものあいだこの命がもったのはあの麻袋があったからに他ならない。けれどそこまで言って、私は言葉を止めた。命令に背いた施しであったなら、表沙汰にするわけにはいかないだろう。胸に秘めたまま、いつか恩を返せる日を待つしかない。
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一晩眠り、日が高くなるまで寝台の上でへたっていた私は、自分が今どこにいるのかを知るために裸足のまま石の廊下へ出た。ジッグラトの内部と思われる一室は南向きのへりにあるためか、続く廊下には転々と四角い陽光が射している。温度が低く過ごしやすいのに、王宮内は暗く翳ることなく、存分に光を取り入れていた。相変わらず開放感のある造りだ。直線的な廊下を一度、二度曲がり、外の空気の流れ込む方へ足を進める。
昨日まではあんなに細やかな監視があったのに、今は一向に人の気配が感じられない。部屋の周囲に格子や柵なども見受けられず、代わりにしんと静謐な空気が漂っていた。
ふいに青々とした植物の匂いを感じ、角を曲がる。目に飛び込んできたのは色鮮やかな中庭だった。
暖かな場所で育つ植物たちは、よく手入れをされながらも力強く葉を茂らせている。木陰には見慣れた灌木があり、白く細かな花を無数につけていた。枝に手を添え顔を寄せると、容易くはらりと一枝折れてしまい、私は大いに慌てた。折るつもりはなかったのだが、想像したよりも繊細な構造をしており、思いがけず花泥棒のような絵面になってしまう。
「捕虜の分際で宮内をうろつくでないわ」
タイミング悪くかけられた声に肩が揺れる。見つかるとしても、良くて見知った祭祀官、悪くて庭園の管理人だろうと予想していた私の脳内は、その声の正体を処理しきれず混乱した。
「見窄らしさに拍車がかかったな、子ネズミ」
振り向いた先にいたのは、まさにこの国の王であった。
窓の眺めからここがジッグラトの上層部であることは理解していたが、まさか王の行動範囲内であるとは思わず、たちまちに手足が強張る。
「王様のお庭へ侵入するつもりは……」
「侵入など、何を今更のことを。ウルク周囲の森とて我の庭に変わりはない」
緋色の羽織りを肩に掛け、ゆるやかに首を傾けている王様は玉座で見上げたときとはまたべつの厳かさがあった。同じ高さの地面に立ち、悠然とこちらを見ている。人ならざる男と立つ場所を同じくするというのは、なんとも居心地の悪いものだ。
「あの環境でいみじくも生きながらえるとは、さぞ地下での生活が合っていたとみえる」
王様は数歩近づくと、動けない私の手から灌木の枝を奪った。大きな掌がすぐそばに見え、袖口で金糸のふさが揺れる。まるでおとぎ話の挿絵のように美しい羽織りだ。
「……試練だったのですか」
現実感のないままに、私はそう聞いていた。全てを話せと剣で脅し、話したならば無能であると幽閉された。この一月のことは、未来から紛れ込んだ魔術師を試す一種の試練だったのだろうか。
「試練だと?」
王様はそう復唱すると、真昼の日差しの中で目を丸く見開き、そこらの子供のように肩を揺らした。
「そのように高尚なものでないわ!」
よほど可笑しかったのか、彼は大きく口を開け豪快に笑っている。よく通る声は庭園の高い天井に反響し、空へと抜けていくようだった。
「貴様が貴様の時代の決定事項をどれほどの大事と捉えているかは知らんが、この時代、この国においては一捕虜の吐く戯言に過ぎん」
「……」
「何故それをわざわざ試す必要がある? 捕らえたネズミを地下へ返したにすぎぬ」
「で、ではなぜ王自ら牢を開けになど」
「何、あの先の区域にラピスラズリの鉱脈が出てな。視察がてら近くを通った折に、そういえばと思い出したのだ」
王様はけろりとした顔で言うと、哀れみと叱責を込めた顔で私を見た。捕虜風情が思い上がるなということらしい。私の命は、王の気まぐれと幸運によって偶然にも繋がっているだけなのだ。
「何やら餌を持たせた者もいたようだが」
「あ、あれは……私がどうしてもと言って」
「ふん、裁きはせぬわ。同情を誘うその惨めたらしさも、貴様の能力の一つということにしておいてやろう」
苦し紛れの私の言葉をいなし、王は枝の花々を払い散らす。足下に落ちた花弁たちはわずかな匂いを立ち上らせ、王の召物にほんのりと染み込んだ。
「わが高潔なるウルクの土を踏んだ理由を『エラー』などとのたまった不敬者に、本来ならばかける慈悲はないが──」
その指が、今度は私の方へ伸びる。避けたいのに体が動かず、無造作に散らされ、王を彩る鮮血となる恐ろしいイメージが脳裏によぎる。彼は私の顔を掴むと、元から逸らせぬ視線をさらに強く固定した。
「しぶとく生き残ったのなら国のために尽くせ。貴様の国でなく、わがウルクのためにな」
くらくらとして視界がちらつく。その言葉は私のアイデンティティを容易に塗り替えかねない力を持っていた。私は逸らせない代わりに目を閉じて、自分の産まれた場所と生きてきた世界のことを思う。
「返事をせぬとは随分と馬鹿正直な娘だ。その場凌ぎで生きながらえると決めたのではなかったか?」
「……命のため、真実を吐露するとはできます。けれど嘘は吐けません」
心からの敬服でない限り、安易な肯定はむしろ無礼になるだろう。この王相手に嘘を吐き通す賢しさは私にはない。
「愚直を通り越して、ただの愚か者であるぞそれは。王の下命に無言を貫くと申すか」
「だって、全てを捧げると言えるほど、私はこの国のことを知りません」
「ほざくな。貴様に求められるは判断ではない、服従だ。理解をせずともそれくらいは出来よう」
王の揺るぎない支配者としての矜持に、私はどうすればいいか、何と返すのが最善であるか必死で頭を回す。けれど考えれば考えるほど誤魔化しや言い逃れでどうにかなる状況ではないのだと思い知る。
「私は……」
「拾った命を大切にできんとは期待外れだ。やはり死ぬか」
口先の服従など彼は初めから求めていない。かといってこれ以上の反抗が許されるはずもない。つまり、生きながらえるための選択は限りなく細い一本道しかないのだ。今この場で、心から、王に服従を誓う。故郷のため生き伸びたいのなら故郷を捨てよという、残酷な矛盾を彼は私に強いている。
彼はあえて武器を翳さないのだと思う。脅して従わせる類のことではないのだ。そして、ただじっと私を見据えるその目はどの剣より、矢より槍より鋭く、私の心の奥の奥へと突き刺さる。
「わかり、ました」
私が打算や心算を一枚一枚と脱ぎ捨て、裸の心を晒していく過程を王は無言で眺めていた。
「この身をウルクに、捧げます」
心を明け渡してしまえば、行動は自然とついていくものなのだ。私は自分でも驚くほど抵抗なく彼の前へ膝をつき、頭を垂れていた。
「そうだ。言葉でなく心を寄越せ。そうでなくて下僕の言葉などに何の意味があろうか」
王様は私の心を掌握したことに軽い満足を得たのか、かけていた圧を緩め、頷いた。
「貴様の事情を慮る由はないが、ことを荒立てぬというのなら王宮に囲ってやってもよい」
「……囲う?」
「野へ放すには信用がおけぬという話よ。王の後宮に入れるのだ。その身に余る光栄と知れよ」
長い指が傅いた私の襟足を掬い、遊ぶように動いている。王の悪癖、という町の人々の言葉が蘇る。
「ともあれそうさな、多少肉付きをよくしてからまた参れ。こう痩せぎすでは味見をするにも能わん」
そう告げた王様が庭園を出ていくまでのあいだ、私はじっと顎を下げ地面を見ていた。白い小花が王の靴に踏まれ、またほんのりと匂いを発している。庭の内側に囲われた可憐な花たちだ。この世界の象徴として、もうすっかり鼻に馴染んでしまっている。
2019_01_03