03 牢の中
服を返してもらえたことは不幸中の幸いだった。一見普通の衣服に見えるが、これはカルデア産の礼装だ。気配遮断と魔力探査の機能が備えられたこの礼装は、慣れない土地で危機に瀕した際、最後のライフラインとして残るよう開発部が製作してくれたものだ。これが役立つ状況に陥ること自体、できる限り回避するというのが当初の話ではあった。しかしカルデアからの通信も索敵もないまま死霊の巣に放り込まれた今、まさに頼れるのはこの衣服のみであった。
数年前に封鎖されたという捕虜牢は酷く荒れ果て、地下へと続く石段のあちこちに亀裂が入っている。そこから漏れ出る薄ら寒い冷気は、私の脚をすうすうと冷やした。祭祀官の女性たちは淡々とした様子で牢の鍵を閉める。けれど、その内の一人の女官が去り際、ふいに顔を覆うベールを上げた。
「せめて、これを──」
声を聞いて、彼女が私に年齢を聞いた女官であると思い至る。彼女は格子越しに麻の袋を差し入れると、私の手を強く握った。その指先はわずかに震えていた。臣下にとって、王の命令は絶対だ。このような場所に女を一人閉じ込めることを、彼女たちが望んでいないことは私にもわかる。数日間共にいただけで、祭祀官たちの敬虔な善良さは私にも充分に伝わった。
私に袋を授けると、彼女は再びベールを下げて階段を上っていく。重厚な石の扉が閉められ、牢内の明かりは隙間から差し込むわずかな光だけとなった。
麻袋の中には、薄い殻に覆われた豆のような雑穀が二握りほどと、乾燥させた果物が数十粒入っていた。せめて、と渡されたものがこれなのだから、食料の補給は望めないのだろう。荒廃した牢の中にはわずかに水の匂いがする。探索をしようと奥へ足を進めると、地下牢の石壁は所々崩壊し、自然の洞窟と一体化しかけていた。これは思わぬ僥倖である。私は魔術で強化した鉄柵の切れ端で、岩肌を掘削し探索を続けた。土の質からして、近くに水脈があることは間違いない。地道に掘り進めること半日、その予想は的中し、大きく開けた洞の片隅に地下水の溜まりを見つけることができた。
砂煙の舞う地上と違い、地下の岩肌はつるりとしている。不純物の混じらない地下水はまさに命の水だった。貰った豆に塩がまぶしてあることもありがたい。当面の餓死の心配は免れたが、問題はどう脱出するかだ。崩れかけた洞穴と違い、出口へと続く扉には封印の魔術がかけられている。私の力で打ち破ることは難しいだろう。
そして何より──。
私は礼装の胸の部分に手を当てて、じっと息を殺した。足元から這い上がっていた冷気が、つむじ風のように渦巻くとともにうっすらと光り始める。ぼんやりとしかその実態を掴むことはできないが、これは人の魂を侵食し、肉体を蝕む死霊と呼ばれるものなのだろう。気配を遮断しているため私に標的が向くことはないけれど、礼装の能力を発揮するのには魔力がいる。私の魔力量は少ない方ではないが、供給なしで保たせるには限界があった。私はひとまず牢の前方へと戻り、できる限り燃費を抑えるため魔力探知と気配遮断を交互に発動した。死霊は常に近くにいるわけではない。こまめに探知をしながら、効率よく気配を消せば魔力の消費は抑えられる。
そうしてわずかな食料で体力を繋ぎながら、細切れの睡眠をとって数日を過ごした。差し込む陽の位置で時を計り、日が落ちてからは口に含んだ果物の甘さだけを慰めにした。夜は呆れるほど長く、気が狂うほど続く暗闇を薄めるよう、一筋の光が岩壁に浮かぶのを見てようやく、今日も死なずに朝を迎えられたと息を吐く。
その筋に沿うように刻んだ日付が七を超えようとしたころ、とうとう魔力の限界が訪れた。張り詰めた精神だっていつ途切れてもおかしくない。死霊に足を捕らわれる恐怖でろくな休息もとれず、体力の回復もままならない。麻袋ももう随分と軽くなった。
私はふらふらと地下水の溜まりまで歩いていき、水を飲むのをやめたら死ねるだろうかと考えた。慌てて頭を振り、手のひらに水を溜める。冷たい地下水で顔を洗い、揺らぐ湖面をじっと見た。わずかな光源を取り込むよう、水はちらちらと光っている。それを不思議に思い、目を凝らした。水底が光るのは岩の質が違うからだ。筋のように数本、青ばむ場所を見つけ、私は顔を上げる。
鉱脈だ。それも、これはおそらく貴重な鉱石である。
いろいろなことが限界を迎えようとしていたけれど、心身の奥底にある最後の力を振り絞り、私は勢いよく立ち上がった。青い筋を辿り、七日ぶりに洞窟の掘削を進める。体力が尽きるか、魔力が枯れるか、精神力が果てるか、どれが先でもおかしくないと怯えながら何かから逃げるよう必死に地中を掘り進め、大きな岩盤の塊が足元すれすれに剥がれ落ちた時だ。
割れた壁面のその奥に、青い宇宙が広がっているのが見えた。
深い夜空のようなその色はラピスラズリの鉱脈だ。中東を原産とする青金石は魔術師にとって類を見ない財宝である。神代の力を色濃く残すこの地において、自然の鉱脈は大量の魔力を蓄え、深々と光り輝いていた。
私は鉱脈に頬を寄せて、大きく息をした。膨大な魔力が体を満たしていくのを感じる。私には強すぎるほどだ。魔術回路をつたいすっかり私の体に魔力が満ちるまで、ものの数分とかからなかった。まだ生きてゆける。燃費を度外視してあらゆる魔術を駆使すれば、きっと脱出の手立てはある。
まずは原石を少しずつ削り、水に溶かし染料を作った。宝石魔術の応用である。魔術陣を知る限り描いて試し、扉の結界を解くのだ。
「──ほう、息があるか」
惜しいところまでは、いっていたのだと思う。
けれど私の魔術が正解へと辿り着くより先に、食料が尽きてしまった。水だけを飲み陣を描くこと数日。日付の刻みを掘ることも忘れ、私はひたすらに青い陣を量産した。もう指先も擦り切れて爪が剥がれかけている。死霊を何度か避け損ね、柵で作った急造の槍を振るったこともあった。
寝てはいけない。そう思っても意識がもたず、魔力探知をする間もなく、眠りの中へ引きずられる。これはただの睡魔などではない。体が生きることをやめようとしている。ここまで手段を尽くしたというのに、魔力が満ちていても生き物としての栄養が不足していれば人は生きていられない。魔術師である前に人間なのだという当たり前の事実を実感しながら、私は扉の前に倒れ伏した。まぶたを閉じて、カルデアのことを思う。
死ぬわけにはいかない。私の負った責務を、私が託された希望を、ここで途絶えさすわけにはいかない。悔しい。悔しい。心を満たす口惜しさに涙が滲み、痛みでもなんでもいいから意識を繋ぎ止めてほしいと指先を握りしめたとき、聞こえてきたのは金の光を纏ったような、悠々とした声音だった。
「骨も残さず死霊の餌食にされたかと思ったが、まだ一丁前に女の形をしているではないか」
差し込む陽光を背にして、男の影がこちらを見下ろしている。迫る死を感じながらにして、私はそれを美しいと思った。やはりどこまでも眩しい男だ。暗闇に慣れた目は耐え切れず白々とくらみ、意識は溶けるように消えていく。
2019_01_03