02 脚の下
それから数日。
話の通り、王宮では幾晩にもわたり宴が続いているようだった。木枠の隙間から見えるジッグラトの城壁には、時間を問わず煌々と赤い火が炊きしめられ、離れたこの拘置所にまで賑やかな楽器の音が聞こえてくるほどである。
古代メソポタミアの夜は深い。日が落ちてあたりが闇に包まれてから、私は月の明かりと宴の喧騒だけを頼りに夜を過ごした。めぼしい持ち物はすべて没収され、カルデアとの通信手段もないままに迎える夜の中で、人々の騒めきが遠くに聞こえることはむしろありがたかった。まったく馴染みのない文化に生活だ。けれどどれだけの時代を遡ろうとも、人の営みの持つ温かさは変わらない。豊かな国なら尚更である。祭祀官たちの視線は相変わらず穏やかでいて隙がなく、統率のとれた彼女たちの様子からもこの国の堅実さが見てとれた。
「お食事はお口に合いますか」
「はい、とてもおいしいです」
嗅いだことのない香辛料や見たことのない果物は物珍しかったけれど、どれもお世辞でなく滋味深く、数日経てばすっかり舌に馴染んでいた。
「名前さまは、いくつの数えなのでしょう」
「年齢ですか? 今年で十七になります」
「十七、ですか」
尋ねた彼女はそう言うと少し考えるそぶりをして、頷く。私よりいくつか歳上なのであろう祭祀官たちは、現代で考えればまだ社会に出て数年という歳だろうに、とても成熟し落ち着き払って見えた。寿命も成人も異なる時代同士を比べても仕方がないが、この自律心には覚えがある。現代の日本においても魔術師と呼ばれる人種はみな彼女たちのように、若い頃から自分の成すべきことを明確に定めていた。
手のひらを握りしめ、目を閉じる。私だって例外ではないのだ。成すべきことと、避けるべきことがある。
「今宵、玉座の間へ拝謁していただきます」
その声にはたしかな緊張が潜んでいた。屈強な兵士ですら恐れひれ伏すという王の威厳は、この国の隅々にまで染み渡っているようだ。
私は数日ぶりに回収されていた現代の衣服に袖を通し、促されるままジッグラトの正面へと足を進める。白土の煉瓦に囲まれた宮殿内は、足を踏み入れるとひやりと体感温度が下がった。荘厳な造りだ。正面から招いた客を、玉座に辿り着くまでに圧倒し尽くす迫力がある。大階段から王の間のあいだにこれといって複雑な障壁などはなく、その堂々とした構造から王の絶対者としての自信がうかがえた。この時代に生まれ育った者なら参道の半ばで魂を抜かれてしまうのかもしれない。けれどあいにくこちらは余所者だ。身一つの私に唯一有利な点があるとすれば、それはあまりにも実感が伴わないということだった。足場の感触が変わり、艶やかな加工の施された王の間で、私は茫洋と顔を上げた。
目が眩む。王が身につける宝飾はどれもこの時代にありえないほど大ぶりでいて、精巧だ。
けれど眩しさの原因はきっとそれではない。金色の髪をした、美しき人型の男が放つ光気は周囲の空間を少しずつ歪ませているようだ。生まれながらに見上げられることを定めとしたかのようなその姿は、ぞんざいに脚を組んでなお王族の気品と厳かさに満ちている。
「艶やかな黒髪に、小作りな顔立ち……ここより遥か極東の地に暮らす民であるか」
先日森で遭遇したときより幾分穏やかな口調で、開口一番彼は言った。
王様は東アジアを知っているのだろうか。この時代の交易範囲を考えれば破格の見識だが、彼は純粋な人間ではない。人ならざる力を思いのままに操る上、神様譲りの目を持っているのだ。
「東の果ての大河の下流に、まだ文明ともつかぬ遊牧民の群れがいると聞く」
「……はい。私たちの言葉ではそこをアジアと呼んでいます」
挨拶もなく会話を始めてしまったことに畏れ多さを抱きながらも、私はそう口にする。
「その大河のさらに向こう、極東の島国に私は住んでいました」
「ふむ、島か」
傍らには一人の官女が侍り、その背後には兵士が五人ほど控えていた。一国の王の警護としては驚くほど少ない編成である。いくら相手が小娘の一人とはいえ、魔術の知識があるのならば油断はできないはずだ。
「して正体は何だ? 貴様この時代の者ではなかろう」
「……え?」
周囲の様子をそれとなくうかがっていた私は、突如突かれた核心に思わず間抜けな声を出す。
開示する情報を絞り、優位性をたもったままこの場を切り抜けようとしていたこちらの目論見など、王は全て見通しているようだった。玉座から下座まではゆうに十メートルはあるはずだ。それなのに赤い目が眼光を鋭くした途端、私の体はぴくりとも動かなくなった。
体どころか、目線ひとつで一瞬にして心まで掌握されたような心地になる。とても嘘など吐けないし、隠しごともできそうにない。魔術や武力で敵わないことはもちろん、この王相手に心理戦などもってのほかだと思った。
多くのことを看破されているのではと予想はしていたものの、まさか時代を遡るなどという絵空事めいた事実を向こうから言い当てられるとは思わず、私はただ瞠目するほかなかった。唾をごくりと飲み込み、体にかろうじて自由が効くことを確かめる。
「私たちは……とある事情に迫られ、過去への干渉技術の確立を目指していました」
「過去への干渉だと?」
戯言と切り捨てられる心配はもはや不要のようだ。突拍子もない私の告白に、王様はそう驚く様子もなく首をひねると、しばらくのあいだ黙る。
「フン、未来の魔術師どもの苦肉の策というわけか。過去に解決策を遡るとは、よほど先の見通しが立たぬとみえる」
「けれど、私がここへ来たのは何らかのエラーです。本来は西暦千八百年前後の日本……私の故郷の一都市へと飛ぶ予定でした」
そこまで言って言葉を区切った私に、王は俄かに目付きを細めた。何か失言をしただろうか。いつのまにか滲んでいた汗が背中をゆっくりつたっていく。
「鈍い女だ。その『事情』とやらが何かを聞いている」
「それは……」
数秒足らずのことだったと思う。何をどこまで言うべきか。魔術師として当然の取捨選択を脳内にめぐらせた瞬間、襟足を風が吹き抜けた。硬質な音が殿内に響き、振り返れば床に一振りの剣が刺さっていた。
「無駄な手間をかけさせるな。貴様の知る限りのこと、隠し立てなく手短にすべて晒せ。二度は言わぬ」
耳たぶが妙に熱い。剣先はかすめていないはずなのに、頬に若干の痛みがある。剣が射出されたのは彼の背後に浮かぶ金色の輪だ。それがまだ消えていないということは、彼の持つ武器があの一振りではないという威嚇に他ならない。
「……二千十五年、私たちは人類の歴史を包括的に観測する目を、科学の技術により得ていました。その目が突如効かなくなったのです」
私の説明は、わりかし要領を得ていたと思う。現代の魔術師ですら全貌を把握できていない不確定要素に溢れたこの技術開発の、要点だけをかいつまみ話していく。アトラス院からフィニス・カルデアへと引き継がれた霊子転換システムの運用と、その必要性。未だ原因不明である途絶えた人類史とその原因──。
「なるほど」
「これが私の知る限りのことです。私がコフィンに入ったのは実験の最終段階でした」
「……大体はわかったがやはり無能だな。剣に怯え、人類史を揺るがすほどの機密をぺらぺらと漏らすなぞ言語道断」
金の輪を閉じた王様から殺意といったものはやはり感じられない。代わりに放たれたのは侮蔑の眼差しだった。
「我が、未来に仇成す者そのものであったならどうする? 時空を超えた干渉行為が魔術師だけの特権と思い上がっているわけではあるまい。そうであるから貴様らは、科学の力で紛い物の千里眼なんぞを作り上げたのであろうが」
その通りだ。王の言うことに間違いはない。けれど私の選択肢は二つに一つなのだ。そして、話すことを迷ったのは自分でも驚くほど一瞬だった。
「あれ以上答え澱めば、王様は迷いなく私の首を落としていたでしょう」
「当然だ。だがそうすべきではなかったのか? 人類史を守護せし者よ」
「……今の私に、命を捨てる覚悟はありません」
取り繕うことなどできやしない。私の言葉は、まさに言葉通りの意味しか持っていない。
「生きてしなくてはいけないことが山ほどあります。私にしかできないこともいくつか。何と言われようと、私は私の生存を第一に考えます」
死にたくないし、死ぬわけにはいかなかった。どんなに危険の伴う任務であろうと、死ぬ覚悟で臨んだことはない。死ぬということは自らが世界へ遺した因果のすべてを放棄するということだ。そして結果や結末の観測を諦めることでもある。この実験に私が選ばれたことは必然だ。その意味を自分でも理解している。何より自分という存在の余波を、自分以外に負わせることはもうしたくなかった。
「ならばその判断は誤りと言えような。──祭祀長よ、この女、北西十二区の捕虜牢へでも放り込んでおけ」
「……王様、恐れながらに確認をいたします。北西十二区は三年前に、祭祀官一同で封鎖をいたしましたが」
祭祀長の問いに、王様はつまらなそうに眉を寄せた。玉座に肘をついたまま飛ばす指示は、やはり害虫駆除以上の感慨を感じさせない。
「あそこは冥界からの隙間風がどうにも漏れすさぶゆえ、封鎖をしたのだったな。だがそこでよい、祭祀長。次に我の口を無駄に患わせればその首を跳ねるぞ」
「かしこまりました」
「今や死霊の餌場だが、このネズミにはちょうど良かろう。貧相ゆえ食わせるところは少なかろうがな」
捕らえられた後手に拘束具の冷たさを感じ、私は思い知る。近侍など五人でも多すぎるほどだ。彼の脚の下では心身とも、ろくな抵抗がままならない。最後の言葉を放ったときだけ愉しげに歪んだ彼の口元に、この王の性質を知る。刺さったはずの剣はいつのまにか痕だけを残し、綺麗に消え去っていた。
2018_12_26