黒い泥が、平原の向こうから裾野を広げている。
 以前にもこのような景色を見たことがあった。あれはそう、エビフ山から押し寄せた溶岩の濁流だ。
 けれど禍々しさにおいて今回はその比ではない。邪悪と言いきって良いのかもわからない、この世の仕組みや、理解の範疇を超えた光景だ。


「我はおそらく明日死ぬ」
 遠見台からこの世の終わりを眺めていた私へ向けて、王様は静かにそう言った。自分の死を語っているというのに、本題に対する前置きのような淡白さすら感じられる。
「どうして」
 返答としてこれほど間の抜けた言葉もなかっただろう。けれど目の前の本人でなく、運命そのものに問いただすよう、自然と口から漏れてしまったのだ。
「死に方はわからぬ。だが決まったことだ」
 数刻前に開かれた、戦略会議の際に浮かべていた険しい顔はすでに晴れている。いくらか若返ったかとすら思えるほど、彼の表情は清々としていた。どこかで誰かとの濃密な対話を終え、すっきりとしたのかもしれない。
「視えたのですか」
「視えたのではない。申したであろう、決まっているのだ」
 私はその言葉の意味を自分の中へ落とし込みながら、否定したい気持ちをなんとか押しとどめた。感情のまま庇い、慰めていい相手ではもちろんない。けれど気を抜けばそうしてしまいそうなくらい、私は着々と動揺していた。
「神との離別。すなわちそれは我からの独立でもある。不要とされた仕組みの行く末は死よ。ティアマトを排しておきながら、我自身がそれを否定するわけにはいかぬ」
「それは……」
「だが誤解をするなよ。我は生き物としての生を終えるが、それは我という存在の終わりではない」
 顔を上げた私に彼はひっそりと告げる。
「まだ、己の目的を成し遂げておらぬゆえな」
「でも役目は終えたって」
「人類にとっての、ではない。我自身の目的よ」
 王様の視線が私の顔から背後の町へ、そして倒すべき遠方のティアマトへ、最後にそれらを覆う円形の夜空へと移っていく。王様の目的とは何だろうか。私は疑問を口にしようとして、すぐにやめた。聞いても怒りはしなかったかもしれないけれど、知らないままでいいと思ったのだ。
「貴様は我を憎んでいるな」
 ふいに彼は世界から私個人へと視点を戻し、そう尋ねる。王様の大きなスケールが急に頭の上に降りかかった気がして、私は一つ息を飲んだ。
「そうです。あなたにされたことを許すつもりはない。恐れも怒りも、憧れも敬いも、悲しみも、憐れみも……愛も」
 冷えた夜の空気が目にしみてぼやりとにじんだ。最後の夜だから感傷的になっているのではないのだと思う。これは長い長い旅路の中で、ずっと考えてきたことだ。
「忘れるつもりはありません」
 どれか一つを選ぶ必要はないのだ。これらが私が彼に対し抱いている感情のすべてだ。
 彼が死ぬと言うのなら、きっと覆らないのだろう。どのような結末を迎えるにせよ私たちがこの場所にいられるのも明日が最後となる。どの特異点においても、収束と、それに伴う別れを経験してきた。けれど、別れと死は別のものだ。生き物としてのギルガメッシュ王の死など、私は望んでいない。悲しくなって俯くと、王様は私の顎に指をかけ持ち上げた。
「ふん。愛憎というやつか。これだから女というものは」
「愛憎? きっと少し違います。愛の裏側が憎しみだとは思わない。愛は愛、憎しみは憎しみ、全く別のものです。別のものであれば共存も可能です」
「……相変わらず欲の張ったことよ。どちらをも手にしようなど、驕りが過ぎると言ったであろうが。我への愛や憎しみなど、貴様のその小さき魂に収めきれるものではあるまいに」
 私はかつて見た夜明けのチグリス川を思い出しながら、自分の胸に手を当てる。魂があるとしたらここだろうか。確かに王様と比べれば矮小で頼りない一瞬の命だ。彼が明日死ぬと言うように、私だって明日以降を生きられる保証はない。
「この魂がちりじりになっても、己を失うことは許さないと言ったのはあなたです。それに人は……いつだって狂おしい葛藤を心に抱え生きていくもの。私が特別とも、あなたが特別とも思いません」
 呆れたような表情をしていた王様は、その言葉を聞くと一変して笑顔になる。晴れやかなそれではない。どちらかといえば人をなじるときに浮かべるような捻くれた笑みだ。
「言うではないか! 特異点最後の都市ウルクにて、人類悪ティアマトを迎え撃つ万象の王をもってして特別ではないと?」
「あ、あなたは凄い王様です。この時代において、あなたほど特別な人もいないでしょう。でもそういうことじゃなくて」
 私は慌てて言い訳をして、それから続けるべき言葉に迷った。相反する二つの感覚が心の中に根付いている。この人は貴い人だ。何にも代えがたく、似ていなく、孤高で、孤独な存在だ。
 けれど同時に俗悪な男だ。傲慢で、自意識が強く、他者を虐げ、理解を求めない。それは一見崇高なようで、ただの不遜で嫌な男のようにも思える。
 どこまでも非人間的なようでいてその実、誰よりも人間的な王だ。どんな出生であろうと、能力があろうと、この身一つで地を踏みしめる生身の男なのだ。私はどうしても触れたくなって、王様の頬に手を伸ばした。指先がわずかに輪郭に触れる。こんなにも人の形をしている。体温はありふれていて、夜風に少しだけ冷えていた。
「ありがとう王様」
 守りたいと思った。世界一傲慢な願いだとしても、そう思った気持ちに嘘はない。弱い者が、強い者に庇護欲をもってはいけない決まりなんてない。これが女としての私の本能なら、やはり彼は原初の男なのだ。
「……貴様ごときが我を労わるなど、五千年早いわ」
「はい」
「終わるどころか、まだ最終決戦は始まってもおらぬのだ。ティアマトの撃破が叶わねば我の死どころか、貴様らもろとも人類史が消え失せるのだぞ」
 彼は私の手を払いのけるでもなくそう言うと、胸を張ったままこちらを見た。
「もう寝ろ。明日は早い」
「はい」
 私は手を引っこめて一つお辞儀をする。休息所へ向け踵を返そうとすると、彼は背後から私の名を呼んだ。
「名前」
 振り返り、もう一度彼を見る。
「よく休めよ」
 王様の声はとても優しく聞こえた。それだけ言うと、今度は自分から背を向けて遠見台の向こうへ去っていく。別れは近い。終わりがすぐそこまで迫っている。勝ち目は薄く、けれど負けることはできない。
 平原の向こうから悲しい声が歌のように響き、風向きが変わったことに気づく。生き残った人間のかがり火が町の中心に煌々と灯っていた。
 身を休め、力を養わなければならない。最後まで目を開けて、終わりと始まりを見届けるために。


2020_03_28


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