「遅い」
開口一番そう言った王様の眉は、不機嫌そうに寄っている。
「すみません。構造はたしかに変わりませんが、設えが大分違っていたので」
道に迷ったのだ。やりとりの一部始終を遠巻きに見守っていた、巫女どころの女性たちが案内をしてくれなければ、とてもここまでたどり着けなかった。
「そのことでないわ……! 一体いつ、貴様からこうべを垂れ再会の慶びに咽び泣くかと思いきや──あろうことか、この我自らに機会を設けさせるだと? 貴様、世界を旅して歩くうちに驕り高ぶったか?」
「……そ、そうではなく」
部屋の中央で憤慨するその姿にはよく覚えがある。思えばいつも叱責されていた。かぶり物を取り、ベールを外した王様は、若き日の姿をますます彷彿とさせる。
「もう……忘れてしまったと思ったのです」
私にとっては怒涛の二年でも、王様にとっては大河の百年だ。そうであっても何らおかしくはない。悔しいし、納得がいかないし、寂しくもあるけれど、今は私の感傷など二の次であると、私なりに必死で世界のことを考えてきた。
「それこそ見縊りが過ぎるというもの。そも、我に忘却などという機能はない」
王様はさらりとそんなことを言って、こちらを見据えた。今の私は不慮によりこの地に迷い込んだ闖入者というわけでなく、彼をして認める大義のもとここへ立っているというのに、こうして見下されればすぐにでも下僕の心へと戻ってしまいそうだ。私は自然と跪きそうになる膝をなんとか奮い立たせ、代わりに一つお辞儀をした。
「お久しぶりです。ご健在のようで何よりです」
「ふん、取って付けたようなことを」
玉座での謁見と比べ、ぐっと近づいた距離感に心が揺れる。近くで見てもその肉体の完璧さは少しの陰りもみせない。けれど魂は、たしかに変化をしているらしかった。
時の流れを感じさせないと思った王様の目には、のぞいてみれば私の知らない歳月が宿っていた。青年の見目のまま老成をしたこの王の中には、底の知れない宇宙があるようだった。いよいよこの星の過去と未来をまるまる飲み込んでなお、あまりあるような宇宙だ。
「醜いものを見たか」
「……」
「綺麗事を言えぬほどには、おぞましく、救いようのない光景を見てきたのであろう」
私がこの足を踏みしめ見てきたものが、彼はこの場にいながらすべて視えるのだろうか。相変わらず反則的な存在だ。私は自分のすべてを見透かされる感覚に耐えられず、俯いて目を閉じた。
「たくさんの血が流れ、人が死にました」
「ほう」
「けれど私たちは……そこから多くのものを得てきました。凄惨な旅の中で、たくさんのものを与えられ、託され、掴み取ってここまでやって来たのです」
歩む先、遠い遠い過去で待つあなたの前へもう一度立つために、多くの街を、時代を乗り越えてきたのだ。どこの国の王にもこの男の面影を見て、相違点を見つけだしては自分を奮い立たせた。
「……初めに知ったのがあなたであったおかげで、私の精神は、原初の眩さにとらわれてしまった」
言っているうちに指先が震え、私はどんどん握るこぶしを強くした。彼に抱いている気持ちは決して単純なものではない。敬愛と憤懣と郷愁がぐちゃぐちゃに混ざり合って、苦しいくらいに胸を満たした。
「随分と熱烈なことを言ってくれる」
言葉とは裏腹に、彼は軽く鼻で笑うと、俯いていた私の顎に手を添える。
「して貴様──よもや未だに何もかもを切り捨てず、手の届くすべてを繋ぎとめようなどと思っているのではあるまいな」
「……たくさんのものを取り零しました。掴めなかったものの方が、よほど多い」
答える私を見つめる目は、やはり前とは違うものだ。制裁を下すためでなく、判断をするために見定める人の王。彼をそうさせたのが世界の終わりなのだとしたら、これは企ての首謀者にとって一番の誤算なのではなかろうか。
「それでもここまで来られたのは、私より先に手を伸ばす人たちが、常に隣にいたからです」
共に旅をした少年と少女は、心から怒り、悲しみ、苦しみながらも決して憎しみに飲まれることなく、人と世界を信じ続けてここまで来た。
「王様、幸いこの身はまだ二つに裂けていません。弱音を吐くなと言ったのはあなたです」
「身が裂けていればまだ楽であろうに。貴様らの魂は、とうに──」
彼は一度目を閉じると、持ち上げた瞼の奥に透明な色を映し出し、告げる。
「いや。言葉を変えよう。続けて命令を賜わす」
「……」
「その魂、ちりぢりになろうとも決して泣き言を漏らすな。例えこの先、何に囚われ、染まり、蝕まれようと……己を失うことは許さぬ」
ああ、以前よりもずっと厳しい。穏やかさを得たかのように思えた王様は、相も変わらず人相手に無理難題ばかりを投げかける。
「多くのものを得、失ったのは我もまた同じ」
私の知る彼の生涯は、しょせん書物から得た知識だ。彼が得て、失ったものを私はここで口にしない。問わないし、探らない。
彼と再会をするにあたり、唯一不安だったことがある。私はこの男の傷ついた姿を見たくなかったのだ。けれどそんな心配は杞憂であったとわかる。出会いと喪失の末、長い放浪を終え、賢君として今ここに立つギルガメッシュ王はどこまでも気高く、また呆れるほどのふてぶてしさだってちっともなりを潜めていない。彼は私などに同情をさせる男ではないのだ。例えどれほどの激情と感傷に苛まれたのだとしても、彼は今更、それを傷として周囲に見せることはしない。
そのことに、思った以上にほっとしてしまい、私は下唇を噛む。一粒落ちた涙を、彼は見て見ぬふりをした。
「人にとっての嵐になると決め、法も政も戦も思うままにやってきたが──些か状況が変わった」
「……はい」
「我を差し置いて我の国を滅ぼさんとす不届き者がいるのならば、王として我が民を奮い立たせねばならん。ここにきて我の役割は、支配者でなく、指導者としての王と相なった。それだけの価値がこの国にはある。当然の話よ」
窓の外へ目を向けた王様に、目の奥がちかちかと瞬いた。夜の中で、彼の光気はいっそう眩しい。
「何という顔をしているのだ。……だがその様子、守るものは守ってきたようだな」
「わ、私がしたことは僅かです」
これまでの旅について、復元した人理定礎について褒めてくれたのだと思いそう返すも、彼はまたもや顔をしかめた。
「その察しの悪さは一度死なねば治らぬのか? まったく、少しは女としての情緒を身につけたものかと期待したが」
「はあ……」
「貴様の、その体のことだ。よもや我以外に明け渡してはおらんだろうな」
とんと指先で小突かれて、私はようやく理解する。そしてじんわりと握った手に汗がにじむのを感じた。
「近頃は忙しくてな、女を抱く暇もない」
色褪せない彼の容姿に、少しのほころびがあるとすればうっすらと目の下に浮く隈だ。謁見のたび見かける王様の多忙さは、たしかに尋常ではない。並の人間なら三日と保たない仕事量に、持ちうる処理能力すべてを注ぎ込み、この国全体をフル稼働させているのだ。毎晩のように夜伽の女を呼んでいた以前の王からは考えられないが、その顔色を見ればあながち嘘とも思えなかった。
「そ、そうですか」
かといってどう返したらよいかもわからず、私は頷きながら一歩退がった。再会に伴う問答はもう充分にしただろう。一区切りをつけるよう息を吸って、明日の任務について話題を振ろうとするも、彼は私が二歩後ずさる間に三歩を詰めて、腕を掴んだ。
何を今更と呆れるような表情をしているが、もはや私が従順になる理由はない。私が彼に抱かれていたのは生き残るための苦肉の策だ。それを忘れているのだとしたら、この男の頭というのはなんて都合が良いのだろう。
「離してください」
「わけのわからぬもったいを付けるでないわ。我は疲れているのだ。余計な手間をかけさせるな」
「わけがわからないのはそちらです! どうして私が望んでいると?」
率直な問いかけに、王様はここぞとばかりに不敵な笑みをつくる。嫌というほど見覚えのある暴君の笑みだ。
「先ほど自ら申していたであろうに。いくつの時代を渡ろうとも、我ほどの男がいたか?」
「ち……ちがいます、あれはそういう意味じゃなくて」
「野暮な女よ、照れ隠しなどしている場合か」
「勝手な解釈ばかりしないでください!」
あまりの図々しさに唖然としながら、胸を押し返すもびくともしない。本当に疲れているのかと疑いそうになるが、男の欲望のことはわからない。そうこうしているうちに窓際へ追いやられ、屈み込んだ王様の口が私の首筋へ触れる。熱い息が耳元を滑り、噛み付くよう肌を吸われれば条件反射のように体が震えた。そうして全てを思い出す。彼に覚えさせられた欲も、彼と離れてから見て見ぬ振りをしてきた自分の中の疼きも、全て引っ張り出され目の前に並べ連ねられたようだった。
悔しいけれどこの男の言うとおりだ。初めに知ったのがこの王である限り、私の体に次はない。そんなことはわざわざ世界を旅しなくたってわかる。本当に酷いことだ。首に落とされた口づけの一つで、息を荒げ前後不覚になる私を見て、彼は嘲りと慈しみを混ぜ合わせたような表情をした。
「ふ、言い訳をさせてやろう。これではあまりに哀れだ」
いつの間にか携えていた杯に、見たことのない色の液体が入っている。花の蜜だろうか。とろとろと口内に注がれ、飲み下せばぼんやりと視界が揺れた。思わず目の前の胸に縋りつきそうになるが、なんとか堪え手の甲を噛む。
「ふは、相変わらず強情よな!」
王様はとても愉しそうだ。濃い液体が喉から胃へと落ちるにつれ判断能力が曖昧になる。
「どれ、少しは育ったか」
するすると手繰られた服の裾から手のひらが入り込み、体の形を探られる。膝をついてしまいたいのに腰をぐるりと支えられそれすらできない。あんな甘いだけの花の蜜が、一体どれほどの言い訳になるだろうか。そんな弱気なことを考え、もはやすべて任せてしまおうかと、目を閉じる。受け入れてしまえばきっと楽だ。だって私はずっと、離れてからも病のようにこの体温を──。
「お、王様」
そう呼んだのは、私ではなかった。私は声を殺すのに精一杯でとても冷静に諌められる状態ではなかったし、何よりこれは私の声ではない。
「王様。藤丸です。藤丸立香ですが」
閨との仕切りに下がる羅紗の向こうから、聞こえてきたのは少年の声だった。ぴくりとこめかみを震わせた王様が振り返るのと、その影から立香くんが顔を覗かせるのは同時だった。
「し、失礼しました?」
「……っ失礼どころか、不敬千万だ! 誰が貴様を呼び立てた!」
激昂する王様が、捕らえていた私の腰から腕を離したため、とうとうその場へしゃがみ込む。乱された服をとっさに直し、私は朦朧とする視界で黒髪の少年を見た。
「は、花の魔術師マーリンから、王様が呼んでいるって」
「あ……の、似非魔術師めが……」
杉の森で出会った高名な冠位魔術師は、自身が世紀の遊び人なだけあってか、女性の窮地に敏感なようだ。差し向けられた立香くんが下手をすれば殺されることを除けば、彼の機転はさすがと言える。
「ええい、興が覚めたわ! 子供は疾く寝よ!」
憤慨しつつも、その場から彼を摘まみ出すにとどまった王様に安心しながら、ギルガメッシュ王も随分と丸くなったものだと感心する。肩の花も、額の宝石も、少しずつ彼の棘を落とし、しなやかさを引き立てていた。
「……貴様もだ!」
目が合ったとたん、彼はそう怒鳴り私の襟口を掴み上げた。同じように部屋から追い出され、床へへたり込む。そんな私を見て立香くんは困ったように一度目をそらし、それからゆっくりと手を差し出した。
この手をとったところから、旅は始まったのだ。死にかけても、落ち込んでも、花の蜜でぐずぐずに溶かされていようとも、彼はいつでも手を差し伸べてくれる。
そうして引き上げ、すべてを繋ぎ止めようとあがくのだ。どうして諦めることができるだろう。この無謀な少年と、彼を守る盾の少女をさしおいて。
だから私は明日からも、世界を救う旅をするのだ。この身が二つに裂けるまで。魂がちりぢりに、砕けてしまうまで。
2019_08_04
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