20 旅の果
次に目を開けたとき、そこに怒れる女神の姿はなかった。
それどころか、空も、山も、大地すらもしんと鎮かな面持ちをたたえ、ただそこにあるがまま、ウルクのおごそかな遠景として佇んでいた。
夢から覚めたような心地の中、私は膝の上で深く息をしている彼女へと視線を落とす。
雨は止んだものの、濡れた衣服はじっとりと体に張り付いている。じわじわと広がる傷口の血も、まだちっとも乾いていない。私はとっさに上着を脱いで、患部にきつく巻きつけた。
「もう大丈夫です。今、兵士たちが担架を持ってきますから」
私の言葉にうすく微笑むと、イェトラさんは目を閉じて何かを考えるよう顎を引いた。
「名前様。未来の世とはどのようなものでしょう」
ずっと前から、彼女は知っていたのだと思う。自分の生い立ちを彼女に話したことはなかったけれど、王の前で語ったことは信じるに値しない絵空事として兵士たちの間にも知れ渡っていた。その上で彼女を始め、女官や祭祀官たちは深く触れず、ごく当たり前に接してくれていたのだ。
「神がいない世界で、人々は何のために生きるのですか?」
「自分の……自分のために生きます。自分と、自分が大切にする人たちのために」
私も同じように目を閉じて、生きてきた世界のことを思い出す。なんだかもうずいぶん昔のことのように思える。未来のことを過去のように振り返るというのも不思議なものだ。
「酷いこともたくさんあります。おぞましい兵器も、子を殺す親も、独裁の為政者も……貧困も疫病も略奪も搾取も、何も解決には至っていない。時間は細切れに刻まれて常に私たちを追いかけます。人以外の生き物は人に支配され、時には根絶やしにされる。でも……」
再びうっすらと開けた目に、昇りはじめた朝日がしみた。川の水は穏やかさをとりもどし、河原にたっぷりの養土を積もらせていた。
「良いところもあるんです。技術も、尊厳も、より良く生きようとする人たちの手によって少しずつ前へ進んできた。この国の王が信じてやまなかった人間の底力が、脈々と数千年間受け継がれてきたんです」
「……」
「優しい人たちがたくさんいます。必死で生きている人たちがいる。何かを愛し、自分を守りながら、みんな一生懸命に生きています」
「そうですか。では、同じですね」
彼女の目の中にも太陽が差し込み、きらりと琥珀の色を浮かせている。
「この時代と同じです」
「そうでしょうか」
「ええ、きっと素敵な世の中なのでしょう。あなたを見ていればわかります。豊かな物事に囲まれ、細やかな感性を養ってきたのでしょう。初めて会ったとき、なんて心優しく穏やかな目をしているのだと驚きました」
遠くから、救護兵が駆けてくるのが見える。その向こうにはコルトワ兵士長の姿もあった。
「死んだ妹もそうでした。たくさんの苦労をかけたけれど、天性の明るさをもって周囲をきらきらと照らしていた。明け方の川辺のような眩しさを、私はとても愛していた」
「イェトラさん、もう喋らずに」
「末の妹も同じです。あの子には才能がある。賢く、まだ幼い瞳で未来をしっかりと見据えている。変わりゆく時代にふさわしい人間です。だからどうか、あの子たちの行く末が明るいものであって欲しい」
自分はもう見守ることができないという目で、彼女は祈るように言った。祈りが根付いたこの時代に、彼女が熱心に祈りながらも、叶えられなかったことの多さを思えば涙が出る。
「イェトラさんだって同じです。私はあなたが眩しかった。強くて、温かくて、太陽のようだと思った。私にこの地で生きる理由を与えてくれた。あなたがいたから私は──この国を愛することができた」
「名前さま」
「死なないでください。必ず助けます」
私は体内で干からびたように乾いてしまった魔術回路に、もう一度体の隅々から魔力を集め、指先に灯す。
「おやめください、あなたが魔力を放ったとき、どれほどの負荷がかかったかは触れていた私にも伝わりました」
「大丈夫、これはちょっとしたおまじない程度のものなのです」
私の持つ生命力を、可能性として彼女に譲渡する。漠然とした条件がどれだけ作用するかはわからないけれど、私の回路と引き換えに何かを救えるとすれば試す価値はある。
朦朧とし始めた意識の中で、担架へ移される彼女の指先を握っていた。
運ばれていくその姿を見届け、私も一つ息を吐く。城へ戻らなければと脚に力を入れるが、どうにも力が入らない。少し休もうと土手の灌木に寄りかかったところで、背後から声が聞こえた。
「相変わらず死にかけておるな、子ネズミ」
愉しそうなその声は、風雨の中で空から降ってきたそれと比べれば人間味にあふれている。
やはりこうして悪辣な顔をしていれば、生まれながらの神気も多少は薄れるのだ。そして私は、どちらかといえばこちらの彼を好みつつある。朝日の中で深く息をすると、わずかに活力が戻ってきた。鼻先に嗅ぎ慣れた香りが漂い、自分が寄りかかっているのがメスラムの灌木であると気づく。
「おかげさまで、この国に来てから生命力が強くなりました」
「フン、他人にやすやすと捧げておいて何を言う。貴様、そのままでは死ぬぞ」
王様の言葉に、やはりそうか、と思う。生きて帰ると決意したのに私はここ数日、死んでもいいと何度も思った。
「結局だめでしたね。二つのものを大事にするのは、難しいです」
未来も、世界も、責任も、すべて放り出しこの時代に生きる人間のため、死のうとしたのだ。とても両立とは言えないだろう。大きな口をきいておいて、そう多くのものは慈しめなかった。何もかもを抱きしめるには手が足りない。二本の腕どころか、もう一本だって動きはしない。
「強欲なことよ。身の程を知れ──と言いたいところだが、まあ、欲深な人間は嫌いではない」
「では、お言葉に甘えてもう一つ。私はやっぱり……あなたを愛おしく思います。そしてそれ以上に、憎らしい」
「ほう、今度は憎いときたか」
「当たり前です。あなたには出会ったときからずっと腹が立っていたし、今だって許せない」
されたことを思えば当然だ。たとえこの時代においてありふれたことであったとしても、踏みにじられた数々の尊厳を忘れることはできない。
「貴様、つい今しがた我の威光を拝んでおきながら、よくも憎しみなどという生臭い感情を向けられたものだな」
「……どれだけ空や大地のような荘厳さを持っていたところで、私が腹を立てているのはあなたの、男としての傲慢さです。神気をもってそれすらうやむやにできるなんて、思わないでほしい」
尽きていく気力にまかせ口から言いたいことを垂れ流す。彼は大きく腕を組むと、以前ジッグラトの庭園内でそうしたように呵々大笑を響かせた。
「貴様のような女が、我を人間へ引きずり落とすと言うか」
「……」
「くだらぬ。人は進化を誤ったな」
最後まで、どうやら歯牙にもかけてもらえないようだ。すっかり明るんだ平原を見渡しながら、私は悔しくて少し泣いた。王様の指がそれをぬぐったと思ったのは、私の幻覚だろうか。たしかに頬へ触れた気がしたが、もう視界も感覚がぼやけてしまい不鮮明だ。
このまま微睡みながら死に向かうのだろうか。走馬灯の中でくらい、故郷の両親やカルデア職員たちの顔をもう一度拝みたい。などと思ったところで、耳に聞き慣れた声が届く。私の走馬灯はどうやら音声付きらしい。ずいぶん豪華な仕様だと感きわまるも、すぐに王様の声にかき消され、怒りが湧いた。
「王様、声が大きいんですよ。最期くらい静かに……」
「たわけが! 何をわけのわからぬことを。せっかく返してやろうと言うのに、要らぬというなら川へ捨てるぞ」
「え……」
顔を上げれば、彼の手のひらにはカルデア産の通信機器が収まっていた。
『応答求む、応答求む。聞こえるかい名前ちゃん、聞こえていたら応答を──』
走馬灯と思っていたのは、どうやら機器から鳴り響く本物の通信音声らしい。人の良いドクターの声が聞こえ、白衣を纏ったその姿を久しぶりに思い描く。
「でも、どうして」
「エビフより走る川沿いの霊脈に加え、貴様が今身を寄せるその花は魔力を蓄える霊草だ。祭祀官どもが茶にしてよく飲んでいたであろう」
先ほどから頬を寄せていた、私の大好きなメスラム草。確かに彼女たちの生活には、常にこの花が寄り添っていた。思い返せば、私が彼女たちと上手く回路を繋げたのも、この花の加護なのかもしれない。
「って、そうではなく」
「我がなぜこれを貴様へ返すか、わからぬのか」
「わ……わかりません。王様は私に、ウルクの国民として身を捧げよと」
「そうだな、確かに言った。だが──」
王様は少し考えるそぶりを見せたあとで、すぐに鼻で笑い、宝物庫から一本の魔杖を取り出した。
「その先は言わぬ。答えはいずれ己で導き出せ。どれ、陣を描いてやろう。この地に粗末な屍をさらす前にさっさと帰れ」
「……陣を?」
「我を見くびるなよ。魔術師の素養くらい当然備えておるわ。その気になれば貴様らの技術の模倣くらい容易いことだ」
「レイシフト渡航の技術を、魔術で代替するということですか……?」
与えられた情報量の多さに目を白黒させているうちに、複数の魔法陣が私の四方を取り囲んだ。胴に浮く赤い紋様とはべつに、彼の肩に美しい花の形が浮かぶのが見えた。人類の可能性を、人の形に練り固めたような男だ。私はそれを一瞬羨ましく思い、すぐに打ち消す。
私は彼を理解できなかった。けれどいつか、私でない誰かが彼に寄り添い、無二の友となるのだろう。
「王様……私の魔術は共感と感染の魔術です」
「ああ」
「けれど、あなたに抱くこの感情は私だけのもの。他の誰かにあげたりしない」
どんなに説明をしようとも、共有をしようとも、きっと理解はされないだろう。私はこの王を神として崇め、人として哀れみ、男として憎み、そして──。
「当然だ。不相応な愛も憎しみも、一人で抱えて死ぬがよい」
さようなら、と口にする前に視界がくらみ、粒子の海へと溶けていく。
戻る未来は、その先の未来を持たないどん詰まりの世界だ。私はどれほどの希望を持ち帰れるだろう。
体がばらけるような浮遊感の中、コフィンの開く音を聞く。
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燃え盛る瓦礫の下で、少年を見ていた。
傷ついた少女の肩に手を添えて、彼は前を見据えている。講堂ではいつも眠そうにしていた黒髪の少年だ。
燃え盛る管制室の瓦礫の下で、私はただ、その少年を見つめていた。
いつかまた古代の王国へ飛ぶのだとしたら、彼は伝えてくれるだろうか。黄金の王へ、今の時代の人の言葉を。
託すように目を閉じたところで、とある言葉を思い出す。
"いずれ己で導き出せ"
彼は確かにそう言っていた。
今度はちゃんと別れの言葉を言えるだろうか。
少年の手が、こちらへ伸びる。
パ ラ ボ ラ
2019_06_08 完