18 水の傍

 初めて見る王様の寝顔に、今更ながら確信をする。この王は人間ではない。
 眠っていれば弛緩した心身から、多少の人間臭さが滲むのだろうと思っていた。けれど実際にはまったくの逆である。眠っているあいだに現れるのが正体だとしたら、この男の正体はまさに人ならざるものだ。規則的な寝息を漏らす大きな躯体は、人知れず山奥に眠る神獣めいたおごそかさを漂わせていた。
 浮かべる様々な表情にこそ彼の人間味が宿っていたのだと気づく。頑固そうな眉間からは力が抜け、無機質さすら感じさせる造形美を纏っていた。神は完璧な器を作ったのだ。けれど、魂までそう都合良くはいかなかった。
 この寝姿を、もっと前に見ていたらこんな気持ちは抱かなかったのだろうか。王より先に目覚めるのは初めてのことだ。
 閨を後にしながら、私は軽くなった自らの髪に触れた。少年のように短くしていた中学時代を思い出す。この時代の価値観がどうかは知らないが、現代を生きる私にとって髪が短くなるくらいどうということはない。それを知りながら、王様はこの処断を斬首の代替行為としたのだろうか。彼の意図は、やはり掴めない。



 雷鳴が遠くで鳴り続けている。
 山から立ち上る轟音が、噴煙を通じ空と混ざり合う様はまさにこの世の終わりといった光景である。
「こんなときに、すみません」
 一日の終わりに訪ねたのは訓練棟の南の部屋だった。
「いえ──お上がりください」
 コルトワ兵士長は、私を見るとしばらくのあいだ隠すこともなく心苦しそうな顔をした。何があったかおおよその予想はつくのだろう。子を慰める父のような仕草で一度、私の襟足に触れると「首を冷やしてはいけない」と言って炉に火を入れてくれた。
「お忙しかったでしょうか」
「いえ。上からの指令が下らない以上、私たちも動くに動けませんので」
 一昨日の噴火に引き続き、大きな厄災の前触れがごとく荒れ始めた空と大地の有様に、宮内の人々も戦々恐々としているようだ。
「避難などは、促さないのでしょうか。次に大きな噴火が起これば、ウルクの街にまで被害が及びかねません」
 すでに厚く降り積もった火山灰が、水質や農作に影響を及ぼしている。対策をとるならば国を挙げた指示系統が必要だろう。有事の際にただ座して耐えることができないのは、私が肝の座らない現代人だからだろうか。祈り天命を待つ祭祀官たちを横目に、怖くなった私は耐え切れずこの場所を訪れていた。女官がやたらとうろついて良い時間帯ではない。けれど遮るものの何もない広い空が、雷鳴と地鳴りでわんわんと轟く様が恐ろしくてたまらないのだ。
「王はいつでも先を見通してきました。その王が何も言わないのなら、我々に実害が及ぶことはないのだろう。民は怯えながらも、そう信じています」
「ですが……」
「王は我欲のため不可解な法令を敷くことはありますが、国の栄枯に関わることにおいて間違いは犯しません。少なくとも──」
 彼は何かを言いかけて、そこで言葉を切った。
 たしかに、国を己の財産と定める王様が、易々と街の壊滅を看過するとは思えない。それともあるいは──この霊山の噴火には、何か自然災害以上の意味があるのだろうか。
 考えるだに青ざめる私の顔色を慮り、炉へ薪を足そうとした兵士長は、ふいに動きを止め顔を上げた。どうしたのかと問う前に、その顔つきが先ほどまでとはまるで変わっていることに気づく。私の前では決まって柔和な表情をしていた兵士長が、才気走った軍人の目をしている。
 素早い動作で手甲を嵌めた彼が、玄関へ足を踏み出すのと、外側から扉が開くのはほぼ同時だった。
「兵士長、お休み中に申し訳ありません」
「構わない、声が聞こえた。西の区域か?」
「そうです、エビフの唸りに住処を追われた野獣たちが、街の郊外へ……!」
 少し見ぬ間に激しくなった風雨は、報告に来た兵士の甲冑をしとどに濡らしていた。垂れ込めた暗雲が雷鳴を空の下へこもらせている。
「失礼。名前さまは宮の中へ」
 そう言って訓練場の向こうへと駆けて行った二人は、王からの指示を待たずに軍を動かす決意をしたようだった。エビフの山から下りてきた獰猛な野獣たちを相手に、民間人が太刀打ちできるとは思えない。街の周囲には建設途中の城壁が立ちはだかるが、関門を中心にして外周へ伸びる壁はまだ半周にも満たなかった。
 強さを増す雨は火山の噴煙を打ち消すがごとく激しく降り注ぎ、まるで意思を持ち霊山を諌めようとしているようだ。しかしその雷鳴と暴風雨もまた、人には制御できない脅威であることに違いはない。平原に叩きつけられる水の束は、チグリスの川を激しくうねらせはじめる。言われた通り宮内の女官室へ戻ろうとした私は、中庭の祭壇を見下ろし、祭祀官たちの数が減っていることに気づいた。
「女官長さま、彼女たちは一体どこへ」
「霊力の高い者たちは、川辺の守護に当たると聞きました」
「川辺の?」
「はい。豊穣の儀でも使われた下流の水門を開閉できるのは、高位の祭祀官らのみです」
「では、この雨のなか川へと赴いているのですか?」
 嫌な予感がした。ジッグラトから見下ろせる河原の牧草地は、裾野へ向かいなだらかな土手ができている。それは古くから定期的に川が氾濫し、肥沃なエビフの土を押し流してきた証に他ならない。水門を閉め水害を堰き止めることは必須だ。けれど川自体が氾濫すれば、集まった祭祀官ごと飲み込みかねない。
 イェトラさんの顔を思い出し、私は自分の寝台の下から魔術礼装を引っ張り出した。地下牢から戻って以来着ていなかったものだ。彼女が私を助けたのは、決して見返りを求めてのことでないと知っている。イェトラさんも、コルトワ兵士長も、その心根の優しさのまま惜しみなく周囲を慮っているだけなのだ。けれど、返せるものがあるならばやはり返したい。
 カルデア産の魔術礼装には、あと一つ消費していないリソースが蓄えられていた。

 カウナケスと違い、短いスカートは駆けやすい。切られ短くなった髪の毛も今は都合が良かった。ぬかるんだ河原の土を踏みしめながら、私は下流の水門を目指す。
 白土の煉瓦と杉の木で組まれた大きな水門は、大雨の中で軋みながらもその門扉を閉じつつあった。
「イェトラさん!」
「……名前さま!? どうしてここに」
 川は荒れ、今にも溢れ出しそうだが、水門から連なる石造りの堤防を越えるには至っていない。
 壁に刻まれているのは魔方陣だろうか。鉱石によるモザイク柄はきっと魔術や霊力による補強装置だ。シュメールの文明は後の文献にほとんど残されておらず、魔術史を学んだ私であっても理解することは困難だった。
 祭祀官と複数の兵士たちによる水門の閉鎖作業は滞りなく進んでいるようだ。ほっと息をついて、濡れた前髪を手で退ける。
「ああ、こんなに脚を出して……女性が脚を冷やすものではありませんよ」
 その声は、風雨の中でも不思議と温かく耳に届いた。先ほど兵士長がそうしたように、私の横髪に触れながらイェトラさんは泣きそうな声を出した。彼女の長い髪もまた、たっぷりと水を含み首元へ張り付いている。いつもと変わらない深い鳶色の瞳だ。あの日、背を向け去ってから、彼女の目をきちんと見れていなかったことに気付く。角度によって琥珀のような輝きを見せるその色を、私はとても愛していた。
「さあ、もう門扉が閉まります。私たちは城へ……」
 堤防の縁で彼女がそう言って、振り向いたとき──。
 私はその背後に、信じられないものを見た。
 水面を大きく歪ませながら首をもたげたのは、何かとてつもなく大きな生き物だった。嵐により色をなくした周囲の景色に紛れるよう、鈍色の体躯をしている。
 とっさに手を伸ばした私の指先がイェトラさんの腕に触れるのと、生き物の広げた刃のような羽が彼女の胴を薙ぎ払うのは同時だった。閉じかかった水門を押し広げるよう、下流へ向けて進もうとするそれは、どうやら巨大な幻想種であるらしかった。
「水竜だ……! エビフの水源を守護する竜神がここまで下りてきたのだ!」
 兵士たちは咄嗟の事態に対応するべく、編列を組み直している。
 祭祀官はみな寄りかたまって引き下がることで難を逃れたが、最前で指揮をとっていたイェトラさんは私たちを庇うように竜の一撃を浴びていた。
 倒れ伏した彼女に駆け寄り、呼びかける。降り続く雨が血を滲ませるせいで、傷口の場所を特定することができない。
「お逃げください……竜の恐ろしさは羽や爪だけでは、ありません」
「喋らないで、膝へ寄りかかって、呼吸を楽に……」
 途端、音を立て破壊された木組みの門が、川の中へと倒れ込み辺りは津波のように水浸しになった。押し流されないよう堤防にしがみつきながら、私は背後を見渡す。奮闘する兵士たちが竜の首へ槍を向けるも、興奮し、凶悪な爪を振り乱す幻想種の前では無意味に等しい。
「彼女を頼みます」
 私はイェトラさんの体を隣にいた祭祀官へと預け、寄り集まる彼女たちの背後へ回った。
 戦闘訓練ではいつもカルデアのドクターが指示を出してくれた。実戦の経験などまるでないといった顔をした男だったが、彼の指示はいつでも的確だったのだ。けれど今は、それも遠い未来だ。頬を打つ雨をぬぐい、たなびく視界の中で前を見据える。

2019_05_26


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