17 肩の隣
晴れの日が少なくなり、朝の気温もぐっと下がった。日中の日差しに温められた煉瓦の壁が、早朝にはひんやりと露を浮かせる。
浅い眠りに目を開けると、夜明けとともに染まった空が窓の端から垣間見えた。静かに木戸をずらし、息を吸う。曇天越しに見える薄いピンクは以前口にした通りの桜色だ。まるで神様の国ね、と言ったエニマトさんの言葉を思い出す。日本にいたときには神様のことなどろくに考えたことがなかった。魔術師という家業上、一通りの知識は学んだが所詮は実感を伴わない耳学問だ。
そっと自分の頬に触れてみる。これは近頃の私の癖だ。自分の存在があやふやになったとき、頬の丸さと指先の温度が正気をつないでくれる気がした。顔に痣を作り帰った数日前、同室の女官たちは驚きながらも丁寧に手当をしてくれた。押し付けられた床の跡がついただけで、大した怪我ではなかったのだけれど、それ以上に泣き腫らした目が痛々しかったのだと思う。
ここ数日は室内でできる仕事を任されていた。訓練棟から回される大量の繕い物や、戦旗の染め抜きなどだ。すべきことはいくらでもあり、どこにいても仕事からあぶれないことはありがたい。手を動かしていると心もいくらか落ち着いた。
夕刻を過ぎた頃だった。
沈みはじめた太陽が、エビフ山の裾野を赤く縁どる夕暮れどき。いつものその光景がどこか不穏に思え、私たちは顔を見合わせた。
赤の色がどうにも濃く、どろりとして見えたのだ。それが空の色ではないと気付いたのは、赤がみるみるうちに溶け出して大地へと垂れ始めたときだった。
同時に響いた轟音は、空を、地面を、びりびりと震わせる。
「エビフの胎動です」
怯えた顔でそう言ったのは白髪の女官だった。
「子供のころに聞いたことがあります。霊山が唸り、一度熱く溶け出せば最後、あらゆる物を飲み込み焼き尽くします」
山の中腹からはもうもうと煙が上がっているのが見えた。エビフ山は活火山なのだろう。たしかに火山の噴火となれば人間の手に負えるものではない。背後にそびえる山脈は市街とのあいだに広大な川と平原を挟むが、噴火の規模によってはここも被害を免れないだろう。
只事ならぬ音と光景に、ウルクの街はにわかにざわつき始めていた。王や軍からの声明はなく、祭祀官たちだけが静かに祈りを捧げている。日が落ちるほどにマグマの色は赤く光り、まるでゆっくりと迫る冥界の火のようだった。遠景と言えるはずの山が、今宵はひどく近く見える。
夜のあいだ中続いた轟音は、朝方になりようやく収まった。
眠れぬ夜を過ごしていた私たちは、太陽の光とともにようやく安堵した。灰に烟る空からうっすらと朝日が差してみれば、川の向こうで堰き止められた溶岩が黒く固まり、おどろおどろしく平原を覆っているのが見えた。人々はみなイシュタル様のご加護だと平服し、土地神を崇め、霊山へ供物を捧げている。
山は嘘のように静けさを取り戻していたが、一度活性化した火山活動が一晩でおさまるとは到底思えなかった。年配の女官たちも経験からそれを知っているようで、しばらくは用心をするようにと私たちに強く言い含めた。寝ずに祈りを捧げた祭祀官たちが、中庭の祭壇に集まっているのが見える。
王様はどうしているのだろうか。疑問に思い顔を上げたところで、ちょうどジッグラトの上部から王の怒号が響くのが聞こえた。激しい叱咤は常日頃からのものだが、いつにも増して苛立っているように聞こえる。王様も昨夜は寝ていないのだろうか。
「王の情緒はここ数日、荒れるばかりです」
仕事にひと段落がつくころ、女官長はそうため息をついた。
「名前さまも身をもってご存じでしょう。先日も、力任せに抱かれた妾女が腕を折られています」
「腕を……?」
「時折りあるのです。故意かどうかはわかりませんが……王の膂力はそもそもにして人間の女には強すぎる。むしのいどころが悪ければ尚のこと」
私は自分の顔から、さっと血の気が引いていくのを感じた。
身をもって知るどころか──おそらく、きっかけは私にあるのだ。これは自惚れではない。言い捨てるように逃げ出したあのとき、彼が背後で怒気を滾らせていたことは知っている。そして何より、あの一件まで彼の機嫌はすこぶる良かったのだ。少女への扱いからもそれはありありと伺えた。
「後宮の女たちはみな怯えています。王の怒気に当てられ、体調を持ち崩す者も多い」
どうしたものかと考え込む女官長に、いてもたってもいられなくなった。"ただそこにある山や激流と同じ" コルトワ兵士長の言っていた言葉を思い出す。火山の噴火を呼び起こさぬよう、川の氾濫を招かぬよう、従順に振るまうのは彼女たちの防衛本能であり、生き抜くための知恵だ。
それを、己のエゴにかられ安易に乱したのは私だ。そのせいで周囲に害が及んでいる。再び聞こえた怒声とともに、何かが勢いよく叩き割られる音が続いた。
私は震える手を握りしめ、女官長に向けて口を開く。
+
「誰が貴様を呼んだか」
寝所へ踏み入った私に向けて、そう告げた王様の声はやはりいつにも増して張り詰めていた。
怯える今宵の夜伽役に代わりこうして訪ねてはみたものの、そもそもの原因が私であるならば、この場ですぐさま処される可能性も大いにある。主義のために命をかけられないとは言ったが、かといって主義のため他を犠牲にすることもできない。このままではいつどこで人死にが出るかもわからない。
「王様──」
けれど無言で処断をせず、こうして言葉を投げてきたのだからまだ対話の余地はあるようだ。
私は部屋の中央に立つ王様のもとまで侍ると、膝をつき頭を下げた。
あなたを理解しようなど、ましてや愛そうなど、私には過ぎた欲でした。どうぞあの戯言はお忘れください。多大なる無礼をお赦しください。
そう言えばいいのだ。喉元まで用意した言葉を、吐き出そうと息を吸う。
「貴様ごときが──」
跪いた私が長い息継ぎのすえ、ようやく口を開いたのと、王様の罵声が響き渡るのは同時だった。
「貴様ごときが、我を慈しむだと? 愛おしむだと? ふざけるな!」
私が言葉を用意していた以上に、それは何日も前から彼の喉元でくすぶり続けていた言葉のように聞こえた。
傅く私の髪の毛を、王様の手がわし掴む。そのまま力任せに引き上げられ、痛みに顔を顰めた。視界の先に金の刃が映り込み──ざっくりと走った衝撃に、わけもわからず身を伏せる。
「これでも、我を愛おしいなどとのたまうか!? 自らを蹂躙する男を、どのように愛するという?」
私に跨った王様が、編まれ、束ねられた私の髪を床へ投げ捨てるのを見て、ようやく我が身に起きたことに気付く。そして考えた。どんなに難しい問いに対しても淀みなく答える王様が、あのとき私に何も言わず、あまつさえこの瞬間まで感情を押し留めた理由とは何か。私がこうして会いに来なければ、彼はこの激情を私に向けることすらなかったのだろうか。それはあまりに、王様らしからぬことだ。
「そうだ。それでいい」
本能的に震え、身を強張らせる私を見て、王様は悠然と頷いた。
「女は常に怯えていろ。我を理解しようとなどするな」
情事の最中でもないのに、彼の額は汗ばんでいる。
私はそれを意外に思う。肉体的な快楽以外で、彼が汗を滲ませることなど今までになかったことだ。どこか切羽詰まったような顔で、王様は私の首に手をかけて──そして、うっすらと笑んだ。
大人を嘲笑う少年のような、熱に浮かされた子供のような、とても危なっかしく、心もとない笑みだ。
主義に命はかけられないと思ったし、なんとしてでも生きて現代に帰ろうと思っていた。けれどその瞬間、私は仕方がないと思った。このまま彼に殺されるのだろう。何処かわからぬ場所を見据えるこの男に、何らかの高尚な意思のもと、首を捻られるのだ。
私は自然と、宙に向けて手を伸ばした。
助けを求めたのではない。どちらかというと──助けたいと思ったのだ。死の間際にして、私は自分がここまで傲慢な人間であることを初めて知った。自分を殺す男のことを、哀れに思い、慰めたいと思った。なんだかとても可哀想だ。圧倒的に孤独だ。神様などという大層な血を引かなければ、彼は産みの親を疎まずに済んだのだろうか。
王様の指が私の首に食い込み、私の指が王様の頬に触れようとしたとき──。
遠くで鳴り響いた轟音に、私たちは動きを止めた。
またあの山が蠢き出したのだ。そう気付いたときには、王様の指は私から離れていた。その一瞬、彼がはっとしたような表情を浮かべたのを私は確かに見た。白昼夢から覚めるような、迂闊とも言える素顔だ。
「……どこぞの女神が、またいらぬことをしているのであろう」
彼は音の方に顔を向けながら、ゆっくりと立ち上がる。
「何が土地神の加護か。熱心に祈る民どもの哀れなことよな」
まるで、先ほどまでの激昂などなかったかのような態度だ。むき出しにした感情の後始末をつけるよう、右手に携えていた刀剣を光の蔵へ戻すと、王様は切り落とした私の髪を踏みしめて部屋の奥へと歩んでいく。
「……今宵は抱かぬ。そこで寝ていろ」
その背中はやはり物憂げに見えた。あの晩、完璧の形をしていた王様が今はどこか欠けて見える。もう口にはしないし、望みもしないけれど、思うことだけは許してほしい。この男は完全にして、空っぽだ。美しい底なしの箱に、宝物ばかりを集めてきては詰め込んでいる。人の生み出した文明を愛で、人自体には愛をやらず、そしてそのことを寂しいとも思っていない。やせ我慢などでなく、心底から寂しさなど感じていないのだ。
でも、ならば、漂うこの焦燥はなんだろうか。
私は知識として知るギルガメッシュ王の生涯に思いを馳せ、寝台の端で目を閉じた。
彼がもしこの先、宝物以外のものを得たとして──その喜びと喪失に耐えられるのだろうか。寂しくないと言うのなら、いっそ一生泣かないでほしい。見届けられない彼の未来を思い、私はなぜだか悲しくなった。これは勝手な同情であり感傷だ。
月が山裾に傾くころ、背後で深く寝台が沈み、すぐそこに王様の気配を感じた。長く吐かれた息がうなじにあたる。
添い寝の相手など望んでいないと言っていたのに、王様はその夜、私に触れず朝を迎えた。
2019_05_19