16 廊の角
内腿についた痣が、綺麗に消え去ってからしばらくが経つ。あの晩から王様が私を呼び立てることはなくなっていた。嘆くことではないはずなのに、えもいわれぬ感傷が胸の奥に燻っている。
あの日、彼は驚くほど深く己のアイデンティティに踏み入り、語り、またそれに対する私の意見を聞き留めた。
出すぎた私の勘ぐりを、最後には浅ましいと切り捨てながらも、激昂し処断するには至らなかった。あの晩の彼は一体どのような心持ちだったのだろう。対話を赦したのはただの気まぐれだったのだろうか。
何にせよ、今となってはわかり得ぬことだ。この先それを問い直す機会はもう来ない気がした。寝所で王の内心を問い、自分こそが愛情を受けるにふさわしいと主張する女を、夜伽の相手に選ぶ王はいないのだろう。
勝手なことだと思う一方で、当然と納得する自分もいた。私と王様は未来の日本で言うところの、個人的な男女関係からはかけ離れたところにいるのだ。初めての経験をすべて捧げ、隅々まで変えられ、魂まで染め抜かれたとしても、王が飽きたと思えばそれまでなのである。
急激な虚しさが心身を襲い、私は手にしていた寝具の布々を抱え込みながら少しだけ背を丸めた。柔らかく乾いた麻布からは太陽の匂いがする。いつの時代にも身近にある、生活の匂いだ。それに慰められ、私はなんとか泣くことなく再び足を踏み出すことができた。
それだというのに──運命というのは酷なものだ。
子猫の鳴くような小さな喘ぎが、廊下の端から聞こえてくる。見てはいけない、確かめるべきではないとわかっていたのに、私の足は止まらずに次の角まで進んでしまう。
物見台へと続く廊下の境で、腰かける王の膝に乗り、か細い声を漏らしているのは見知った少女だった。あの日、水瓶を落とし自らの処女をも散らされた少女が、あの時と同じように頬を染め、目を濡らし、王様に抱かれている。
細い腰を手で支え、少女を揺する王の上で、少女もまた必死に身を擦り寄せる様を見て、私はただならぬショックを受けた。王様を求める少女の姿があまりに美しく見えたからだ。素直なその乱れぶりを、王様の目が慈しみ深く捉えている。真昼の暖かな陽だまりの中で行われるその行為は、何かしら神聖な儀式のようですらあった。
頑なに王に縋らず、口から漏れる声をみっともなく噛み殺す私とは、まるきり違っている。
私と王様がしてきたことはなんだったのだろう。神聖さからは程遠い、見苦しく生臭い交わりだ。私が悪いのだろうか。私が素直になっていれば、王様はあんな風に優しく頬に触れたのだろうか。少女の顔を撫でつけて、王様がゆっくりと顔を傾けたのを見て、ようやく私は目を伏せた。見たくなかった。私にする口付けとは、まるで違うとわかっていたからだ。
少女の口から漏れる甘い声を聞きながら、張り付いたように動けない自分の足をじっと見つめる。俯いたせいでせっかく我慢した涙がどんどん涙腺からにじみ、重力に負けそうになる。
どれだけそうしていたかはわからない。こんな覗きのようなことはしていたくないのに、動くことで気配を察せられるのが怖くて立ち竦む他ないのだ。少女の嬌声が一際高く響き、濡れた音がにわかに止まる。少しの沈黙のあとで聞こえた王様の声色に、私はまた驚いた。
「よい女になったな」
「もったいなき、お言葉です……」
穏やかな王の声と、蜜のような少女の吐息が廊下の隅で混ざり合っている。
「仕事は済んだのか」
「まだ、半ばにございます……日が傾かぬうち、もどらないと」
「よい。午後は寝ておれ。それにしても呆れたものだな。仕事を残しているのならば、ああも激しく足腰を使うでないわ」
「も、もうしわけございません。はしたのうございました……」
「ふ、咎めてはおらぬわ」
交わされる会話は睦言といえるものだ。寵愛とは本来このように授けられるのだとよくわかる。
私にもまだ仕事がある。視界がこれ以上揺らがぬうちにと、どうにか奮い立たせたつま先がそろそろ床から浮いたときだった。思わぬ言葉が耳に飛び込み、私の心臓はびくりと跳ねる。
「従順な女を誰が咎めるものか。はしたなき女は別にいる」
声の指向が変わったことが、はっきりとわかった。声量も、方向も、まさに壁越しの私へと向けられている。他人に命令することを生業としているのだ。その声は私の肩のすぐ後ろにぴたりと突きつけられたようだった。
「王の睦事を窃視するとは何事か。呆れた不埒者がいたものだ」
振り向き、姿を見せないわけにはいかないだろう。あんなに重かった足取りが、ふらふらと浮き立ち王様へと引き寄せられる。恥ずかしそうに王の上から退き、衣服を整える少女をなるべく見ぬようにと、私は視線をさまよわせた。
気付かれていたことには、なんとなく気付いていた。けれどさすがに呼び止めるほど無遠慮ではないだろうと、甘くみていたのだ。
「顔を上げろ。何か申せ」
顔を上げるところまでは、命令につられなんとかできた。しかし言葉が出てこない。女を抱いた王様の目が、廊下にこもる情事の匂いが、私の五感をじりじりと炙る。これではまるでパブロフの──。
「なんだその顔は。まるで発情期の犬ではないか」
ギルガメッシュ王の唇が少女の唾液でしっとりと濡れている。はだけきったカウナケスは汗を含み、腰元にひたりと張り付いていた。
「仕方のない女よ。こちらへ来い」
お前はもう戻れ、と傍の少女に告げ、彼は呆れたようにそう言った。どうすればいいか、何を思えばいいかもわからずに、私の頭はいよいよ混乱した。彼はもう私に触れないのだろうと高を括り、そのことに憤りを覚えつつもどこかで安心していたのだ。
「聞こえぬのか? 来い。次は貴様が侍れ」
接点がなくなれば、理解することを諦めても許されるだろうと思った。そう割り切ってしまえるまで、あとわずかだったというのに。
「飢えておるのだろう。長らく呼んでいなかったからな。あれが思いの外よい働きをしたゆえ、我は今満足しているが……何、少しばかり触れてやってもよい」
「飢えてなんか、いません」
「物欲しげに覗き見ておいて何を言う」
「好きで見ていたわけじゃ……!」
「そうか。では命令だ。貴様も跨って腰を振れ」
窓の下に背を預けながら、王様は悠然とそんなことを言う。なぜそんな酷いことばかり言うのだろう。立ち竦む私の姿を王様の目が見上げている。柔らかに照る陽光が残酷に思えた。この人に抱かれるのはいつも夜だ。月光を纏う裸体すら直視せぬよう目を伏せていたというのに、こんな真昼に正気を保ったまま、自ら王様に触れるなどどうやってもできる気がしない。
「でき、ません」
「……あの娘の働きを見ていたであろうが。あれは健気なほどに従順な女だ。まこと愛いものであろう?」
問いとともに腕を引かれ、膝の上へ倒れこむ。
抵抗する私を嘲笑うよう、王様の手が優しく腰を撫でた。有無を言わさぬ力で背を囲い込みながらも、耳元にはいつになく柔らかな口付けを落とされ、先ほどの光景が嫌でも脳裏に浮かぶ。なんて悪趣味なのだろう。目に焼き付いたあの情事と、あえて同じ扱いをすることで、多くの女の一人であることを私の身に知らしめようとしているのだ。王様にとって、これはそういう遊びだ。
「やだ、いやだ……! 触らないで!」
そんな風に触れないでほしい。ついでのように抱くのなら、いっそ酷くしてほしい。王様の大きな手のひらが逃げ場をなくすよう頬を覆い、口を塞がれた拍子に、ずっと耐えていた涙がこぼれ落ちた。引き攣るような私の嗚咽を飲み込むよう、深く口付けられ息が苦しい。次々と溢れる涙が王様の指の隙間に溜まり、手首へと伝い落ちていく。あまりに胸が痛むため、私は耐えきれず王様の手の甲に爪を立てた。
たとえ逆らい、殴られ、縊られたとしても、不確かで理解の及ばぬ寵愛などというもので生殺しにされるよりはずっと良い。力の限り引っ掻いてもろくな爪痕を残せないことはわかっていたが、このままほだされ、流されることだけは嫌だった。
「……哀れな女よ」
王様は一つ舌打ちをして、それなら望むようにしてやるとばかりに私の首根っこを掴み上げた。急に変わった体勢と衝撃に目が眩む。甘やかすように抱かれていた少女とは対極の行為に、体と心の痛みが一致した気がして少しほっとした。
歪んでいると思う。けれど元から噛み合わないのなら、平気なふりをする方がよほど痛い。
王様は私の口に指を突っ込み唾液で湿らせると、それを潤滑油にして一息に背後から貫いた。痛みに身が縮み、ますます摩擦が強くなる。構わぬとばかりに突き込まれ、早く彼を受け入れられるよう自ら体を開いてしまう。先ほど失望した見苦しい性行為そのものだ。
「……っ難儀なことよ、何ゆえ初めから可愛げを見せぬ」
教え込んだ反応に満足しながらも、王様は苛立ちを滲ませていた。硬い床に私の顔を押しつけ、存分に犯しているというのにちっとも満足気ではない。
「愛してもいないのに、愛でないで……そんなことをされても、そんなことをされたら」
「……」
「わたしは、ただでさえあの晩、あなたを」
うわ言のような私の呟きを、戒めるように彼は繋がりを深くした。屈み込み、耳元で低い声を出す。
「貴様よもや──我を所有したいと思っているな?」
「しょゆう……?」
違う。途切れ途切れの思考で言葉の意味を考える。王様の動きに合わせ私の背中は自然としなり、息苦しいほどの刺激が全身を襲う。
「わたしはただ、あなたとまともに、通じ合いたくて」
「それを所有欲と言うのだ! 対等な所有関係を望むなど許さぬ。王は誰にも所有などされぬ。浅ましいと言ったことを忘れたか?」
「……や、あ」
私の心を屈服させるよう激しさを増す律動に、目の奥がちかちかと揺れた。言葉からも行為からも逃げ出したいのに身じろぎができない。王様はしばらくのあいだ好き勝手に貪ると、私の腰を掴んだまま一度二度身を震わせて、いつものように精液を放った。初めて抱かれたときから遠慮もなく行われていることだ。神の血の混ざるこの男の子供を、人間の女が孕めるかどうかは知らない。
体を離し、息をつきながら王様は私の腕を引き起こした。
涙で濡れそぼる私の頬を見て、眉を寄せることも、唇を歪めることもなく、ぞっとするような無表情を貫いている。
「我に恋情を抱く女などいくらでもいる。だが、それを表に出す無礼者は後宮にはおらぬ。当然の話だ」
「……」
「王に懸想など、不敬千万。自覚し、弁え、健気に努める女とは愛らしいものよ」
この男を理解したいと思った。それは私のエゴである。これ以上えたいの知れない存在に心身を侵食されてたまるかという意地でもあった。そして、何よりも──。
「哀れなのはあなたの方です」
この後に及んで犯し尽くした女に口答えをされると思っていなかったのか、王様は目を見開き、ぴくりとこめかみを動かした。
「わかっていないのはあなたです。あなたは所有欲と言ったけれど……愛と所有は違う。人と人の関係は、王と財宝のそれとは違う。そんなことも知らないんですか」
「なんだと?」
静かな怒気が王の腹に渦巻いているのを感じる。森をなぎ倒し、水を巻き上げるほどのエネルギーのうねりだ。イシュタルに感じたものと同じ類の畏怖が、私の肩を震わせる。
「何が違う。何も変わらぬ。貴様は我の所有する女だ。そして財宝が持ち主を所有することはできぬ」
彼はそう言い切ると、私の腕をぞんざいに突き放し背を向けた。
「それだけのこと」
違う。違う違う。心の中で、私は何度も否定する。
「私はあなたを所有したいなんて思っていない。ただ──」
目を閉じて、月夜のことを思い出す。
「一瞬でも、愛おしく思った」
これは本当のことだ。本当だからこそ、言葉にするつもりなどなかったことだ。
「それだけです」
王様が言い切ったように、私もまたそう告げて背を向ける。乱された衣服を両手で手繰り寄せ、自室の廊下へとひた走る。
あの晩、彼の言葉を聞き、本心を垣間見て、彼に対しぼんやりと感じていた孤独や寂寞や大きすぎる可能性の数々が、私の中の寂しさと同化した。繋ぎすぎた肉体に引っ張られたのかもしれない。注がれ続けたものが魂にまで染みてしまったのかもしれない。
けれどそれは所有欲とは違うものだ。自分の心を差し出して、分け合うような交流をしたいと思った。一人の人として触れ合い、解り合いたいと思ったのだ。
"例えそのつもりがなくとも、行き交う心の交流を堰き止めることは、互いにできない"
イェトラさんはそう言っていた。触れ合うことの本質はそれであると。
女官室へとたどり着いた私は、皆が出払った昼間の休憩所で、声を上げて泣いた。神に見えた男が、もう人にしか見えなかった。それゆえにこうも苦しい。愛も憎しみも、神に抱くべきものではないのだ。
2019_05_06