15 宮の外

 遠くに響くのは、掘削機の音だ。
 ラピスラズリの鉱脈を掘り起こす青銅の杭が、石の中に深く深く打ち込まれていく。乾いた空にその音が鳴るたび、私は王様の言葉を思い出した。人間の生み出す文明と発展。彼はそれを何よりも価値のあるものだと言う。

「名前様の故郷には、どのような花が咲くのですか?」
 花のような笑顔を浮かべながら、エニマトさんは小首を傾げた。
 北三区の市街からは、裏山の地層が良く見える。河川を挟み平原の向こうに切り立つ岩肌には、乾いた音を打ち鳴らす掘削機の支柱がそびえていた。
 果てしなく、遠いところまで来てしまった。白い土や硬い潅木を見るたびに思う。
「湿潤で、水に恵まれた島国には四季折々の花が咲きます。春には桜、夏にはタチアオイ、秋にはコスモス……冬には椿の花が」
「四季? 季節が四つもあるのですね? ウルクには雨季と乾季しかありません」
「素敵だわ」と言いながら、エニマトさんは東の空へ思いを馳せている。東西に長く、高低差の激しい日本の気候を一言で説明することは難しい。数百キロに渡り乾燥地帯の平原が続く古代中東の地平を見ていると、堅実で辛抱強いウルク国民の精神性というものが理解できた。
「サクラというのは、どんな花なのでしょう?」
「薄いピンク色の……そうですね、明け方の空の端っこのようなうっすらとした紅色です。それが満開に咲き乱れると、まるでそこらに靄がかかったように別世界になるんです。人々は桜の木の下で、花を愛でたり、お酒を飲み交わしたりします」
「まるで神様の国ね。一度見てみたいわ」
「はい。エニマトさんにも見せたいです」
 話していれば聞こえは良いが、数千年先の日本においてもそこは楽園とは言い難い。王様には偉そうに人類の進化を説いてしまったが、いつの世、どんな国でも蔓延る問題はそう変わらないし、なくなることはないのだと思う。
「私は、このメスラムの花もとても好きですよ。可憐で、清廉としていて……けれど力強さがある。いつもほのかな香りで私たちを癒してくれる」
 この国に来て、はじめに私を慰めてくれた花だ。今では飲み慣れたお茶に浮く、小さな花弁を唇の先に感じた。だんだんと陽の落ちる町の遠景で、岩肌の色が移ろっていく。夕暮れというものはどこで見ても切ないが、この国で見るそれは一際胸にきた。

「少し、安心をしました」
「え?」
「ここ数日、お顔色が優れなかったので。ご体調が悪かったのでしょう」
 冷えてきた夜風にエニマトさんが部屋へ戻ったあと、イェトラさんはそう言って温かなお茶をもう一杯注いでくれた。
「体調というより……」
 数日のあいだ、考えていたことを思い返す。あれだけ絶えず悩んでいたというのに、いざ言葉にしようとすると難しい。
「イェトラさん。人と人が触れ合うことに、意味を求めるのはおかしいですか」
 注ぎ足された二つのメスラム草が、白い花弁を重ね合わせている。私はそれを見ながらもう半年ほど前になる、とある記憶を思い起こした。
「イェトラさんが私の頬に触れてくれたとき、心が温かくなりました。この国で生きていく意味を、理由を、その温かさに感じたのです」
「おかしくありませんわ。誰かと体温を分け合うとき、そこには必ずなんらかの交流が生まれます。そのために人は人に触れるのでしょう。例えそのつもりがなくとも、おのずと行き交う心と心を、堰き止めることは互いにできない。私はそう思います」
「……男性もそうでしょうか」
 彼女の言葉は誠実だった。それだけに切なさは増していく。
「王や神でも、そうであればいいのに」
 賢い彼女は私の言わんとしていることにすぐ気付いたようだ。そして自分の言葉を確かめるよう、そっと唇に指をあてた。綺麗な仕草だ。誠実な人の仕草というものはいつでも美しい。
「割りきり方が、わからないんです。神様への奉仕精神なんて私は持っていない。王様だろうとなんだろうと、私には一人の男に見える」
 神を信じるウルクの女性は、生臭い感情など伴わずとも王に身を捧げられるのだろうか。
「悔しくて、つらくなる。私の言葉はあの人にちっとも届かない。私の体は王様に消費されるためにあるわけじゃないのに。心だって……」
「浅ましい」と言い捨てられた悲しみを、いまだに受け止めきれずにいた。熟せない悲しみは怒りとなる。不当な扱いであると、数日をかけ心の内はふつふつと煮えていた。
「勝手な人です、女をなんだと思っているのか。私の故郷ではあんな振る舞いなど絶対に許されないことです。だいたい権力者がすぐに暴力に訴え、独断で民を裁くなんて──」
「名前様、いけません」
 強張った顔で私を諌めるイェトラさんを見て、言葉を止める。私が力なく口を閉じると、彼女もまた悲しそうな顔をした。
「……困らせてすみません」
 国王に対し思いのまま批判を連ねるなど、彼女にとってはそれこそが許されないことなのだろう。豊かさと繁栄の象徴である勇しき国王だ。神の血を受け継ぎ、特別な目を持つ、絶対的な為政者。彼女は王を信じ、従い、自らも鞭に打たれてなお背くことなく崇拝している。
 私は「また来ます」と言って席を立った。背後から小さく呼び止められた気がしたけれど、振り返る余裕もなく、ただ立ち去ることしかできない。彼女をこれ以上困らせたくなかったし、分かり合えない価値観の違いを浮き彫りにし、心が離れてしまうことが怖かった。
 イェトラさんは今の私にとって何よりも大切な存在なのだ。頬にぺたりと触れてみる。掘削機の音はいつの間にか鳴り止んでいた。



「王にお告げにはならなかったのですね」
 市街から王宮の敷地に入ってすぐ、声をかけてきたのはコルトワ兵士長だった。
 驚いた私は、思わず居住まいを正す。彼とはあれ以来一度も顔を合わせていなかったため、あの日限りの特別な交流であったと思っていたのだ。
「兵士ともども、裁かれる覚悟はありました。寛大なるご判断に感謝いたします」
「そんな……そのように大げさなものではありません。どうか顔を上げてください」
 深々と礼をする兵士長に、私はあわてて首を振る。
「お礼を言うのはこちらの方です。その節は、助けてくださって本当にありがとうございました」
 王があの出来事を深追いしなかったことがわかりほっとした。上官である彼が裁かれたとあれば、口を噤んだ甲斐もないというものだ。彼が施してくれた看病や、語り聞かせてくれた王の話は、今でも大切な活力として私の中に残っている。頼れる人も、情報も少ない環境の中で、彼と出会えたことは本当に幸運であった。
「王様のことは、まだ理解できそうにありません」
「……そうですか」
「教えてはくれたのです。王が何を重んじ、何を不要とするか。でも──聞けば聞くほど、なんだか遠のくばかりです」
 コルトワ兵士長は私の表情から何かを感じとったのか、それ以上追求することはなかった。ただ思いのほか明るい表情で眉を緩めると、夜の手前の、藍色の空を仰いだ。
「人にも国にも、変革期と呼ばれるものが一度ならずあります。それはもしかすると……」
「変革期、ですか?」
「いえ──。とはいえあなたに負担がかかるようではいけない。何か不便があれば、士官棟の南の角部屋へお越しください。女人も入れる敷地です」
 そう言い残し去っていった彼の背中に礼を告げ、私も空を見た。
 日が暮れれば、みな密やかに活動を終えはじめる。時間に限りがあることを、今はとてもありがたく思う。

2019_05_03


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