13 窓の際

 町を見下ろす後ろ姿は、まさに君臨者といったところだ。
 その晩、王様は閨の窓辺に佇んだまま長らく外を見渡していた。神に一番近い場所とされるジッグラトの最上階は、人々にとっての祭壇を兼ねている。王と神に名実とも隔たりのないこの時代において、王宮自体が一つの信仰対象であることは私にもわかる。しかし、いずれ神との別離を成し遂げるだろうギルガメッシュ王が、今その立ち位置をどう思っているのかは不明だ。
「人の王」だと兵士長は言っていた。人と呼ぶにはあまりに力を持ち過ぎたこの男を、理解しようとする人など誰もいない、とも。
 窓際から動かない王の背を、私はぼんやりと眺めながら時を過ごす。
 いつもなら早々に酒を煽り、呼んだ女に手を伸ばす王様だが、今日はそういった気分ではないらしい。何か思うところでもあるのだろうか。私に原因があるのではと不安になり始めたところで、彼はようやく振り返りこちらを見た。
 見た、といっても本当に私を見ているかどうかは怪しい。
 明るみから暗がりに、遠方から手元に、急に視線を移したときのような焦点のずれが感じられる。開いた瞳孔は闇の中にちらちらと瞬き、まるで夜空の星のようだ。遥か遠くにあるはずの強大なものが、すぐそばにあることの違和感に、こちらまでくらくらとして視点が定まらなくなる。
 王様はそのまま私に向けて手を伸ばした。慣れはしないが、もう親しんだ体だ。今さら拒むことはないけれど、身を許すのだからこちらも最低限のことは求めたい。私に触れて、抱くのならせめて──。
「み、見てください」
「……なんだと?」
「私を抱くなら、私のことをちゃんと見てください」
 無機質だった瞳に、瞬時に感情が差し込むのを見てなぜだか少しほっとする。明らかに不穏な色ではあったけれど、空の向こうにいる触れられぬ神から、地に足を付けた人に戻ったような気がしたのだ。
「呆れた烏滸がましさだな。これは夫婦の営みではない。余計な主張をするな」
「すみません。でも、王様がいつもと違うようで」
 慌ててそう付け足すと、王様は先ほどまでの静謐さを嘘のように消し去り、意地悪く、ねちっこい笑みを浮かべた。
「なんだ、恐ろしいか」
「……はい。王様の目が、まるで」
 勢いに気圧されてそう口にしたところで、慌てて口をつぐむ。けれどはぐらかすことなどはもちろん許されず、私は仕方なしに小さく言った。
「あの日の、女神のようだったから」
「──貴様」
 大きく息を吸った王様に、怒鳴られるだろうかと身構える。しかし彼は脱力するよう息を吐いて、寝台の上で片膝を組んだ。
「我とアレの関係性を知っていて、よくそのようなことを言えたものだ……薄々気付いていたが、貴様は並大抵の阿呆ではないな?」
 どうやら怒りを通り越して呆れ果てているらしい王様は、これまた人間味の極みといった顔付きで悪態をつく。私だって、言ったらまずいということくらい直前で気付いたというのに、無言の圧力で言わせたのは王様ではないか。
「つまりは破格の阿呆ということだ」
 王様はそう結ぶと、手にしかけていた酒壺を寝台の脇に置きなおし、息を吐いた。
 表情筋を大きく動かしたためか纏っていた神性は薄れかけている。乱れた前髪が額にゆるやかに張り付くのを見て、私は彼の少年時代のことを思った。朗らかに人々を思いやったという紅顔の少年王。それがどうしてこのような悪どい男になったのか。
「──この目がよく視える日には、どうにも気が冴えて眠れぬ」
 不意にそう言った王様は、星の目をまた窓の外へと向けていた。
 そこから見ているのは町の景色だろうと思っていた。彼に特別な目があることを知っていたのに、まさか日常のわずかな狭間で彼の目だけが時空を超えているなどとは思いもよらず、私はごくりと唾を飲む。
「無作為に垣間見える先の情報が、脳にもたらす負荷というものがわかるか? 並の人間なら処理しきれず、混乱して気を病むであろうよ。過程をたどらず、結果のみを受け入れられるほど人の精神は強靭でない。だが──」
 その目はじっと夜空へ向いている。長い睫毛が月の光をたっぷりと含み、隼の尾羽のように艶やかな光沢を帯びていた。
「我は慣れた。いや慣れたというより、元からそのように作られているのだ。己の能力に見合った頑強さを持たなければ生き物は自滅するのみ。そのあたり、神は中々に加減が上手かったらしい」
「加減、ですか」
「そうだ。発想は気にくわぬが、設計と造形のセンスはある。そうは思わぬか?」
 月夜を味方につけた王様は、たしかに完璧と言える形を闇の中に浮かべていた。美しいものにはそれだけで多大な説得力が宿るのだ。神がそのために彼を美しく設計したのだとしたら、目論見は充分に果たしている。
「この肉体には満足している。脆弱な人間の体では我の望むものなど何一つ手に入らぬゆえな。個体の限界に煩わされていては何も成せぬ。成すべきことも成せず、道半ばにして潰えるというのは何よりもつまらぬことだ」
 そう言った王様の言葉から感じられるのは、たしかな憤りともどかしさのようなものだ。満足していると言いながらも潜在的な不満をくすぶらせていることに、ともすれば本人すら気付いていないのかもしれない。
「だかどうにも、目の奥がちらつき煩わしい夜もある。そんな夜には女の中に身を沈め、朦朧と欲に浮かされるのがよいのだが」
 寝台の背に寄りかかったまま、彼はじっと私を見る。
「今宵の女は、煩く小言を言うときた」
「こ、小言なんて」
「では何だ。何ゆえ黙って抱かれぬ。自分を見ろなどと、本当はそんなことを言いたいのではなかろう」
「……私は」
 王様のことを知りたいのだ。自分を抱くこの男を、一人の人間として理解したいと思いっている。そうでないとあらゆることに折り合いをつけられない。王様にはわからないかもしれないけれど、私にとって人と交わるとはそれだけの意味を必要とすることなのだ。愛情がないのなら、そこを代わりのもので埋めなければならない。そして何より──置いてきたもう一つの時代のため、私は出来ることを模索しなければならない。そのために必要なのが彼との対話だ。
「何ゆえ王を誑かす」と責め立てた兵士たちのことを思い出す。今思えば、彼らの言うことはあながち外れてはいなかったのかもしれない。寝台での距離を利用して、彼の懐に入り込むならばそれはやはり企みだろう。
 けれどさすがの私にも、王様を理解したい、などということを面と向かい口にする勇気はない。
「聞きたいことがあるのです」
 代わりにそう告げ、糸口を探す。
「申してみよ。特に許す」
「先ほども言っていた、王様の成すべきこととは、一体何なのでしょう」
「……」
「王様の望みが国の繁栄なら、それはもうほとんど叶っているように思います。これ以上の何を望むのでしょう?」
 人の本質を知りたければ、尋ねるべきはその人の望みだろう。望みが強ければ強いほど、人格はそれを軸にして形成される。そして先ほどの口調から、彼が何らかの強い使命を己に課していることが窺えた。
 軽はずみに聞いていいことではないのかもしれない。けれど彼が私に呆れ果て、気を緩ませている今はまたとない機会である。私の問いに少しだけ顔を傾け、王様は少しのあいだ、何かを思案した。
 その横顔さえ、胸が痺れるほど美しい。彼の本質など探るべきではないと怯みそうになる。ただそこにある絶対的な存在を、盲目的に、無条件に、信仰しそうになる。きっとそれこそがこの国の民になるということだ。でもそれでは駄目なのだ。両立すると決めたのだから、私は私の倫理に沿って、彼に従う理由を探す。
 たとえ抱えた矛盾に心身が張り裂けそうになっても、弱音を吐くなと言ったのは他でもないこの男である。たしかにこれは、些かしんどいことだ。

2019_04_21


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