12 瞼の裏

 光の中で意識を手放したときのことを思い出す。見上げた国王は黄金のようにまばゆく、陽の光にも負けない威光を放っていた。
 けれどこの人の光は優しいものだ。春の海のように凪いでいて、それでいて力強い広大さを感じさせる。私は故郷の海を思い出して急に悲しい気持ちになった。塩水が目からつたい、家族の夢を見ていたのだと思い出す。もう一度眠ってしまおうかと思ったところで、やわらかな枕に頭を預けていることを感じとり、とっさに身を起こした。私の寝台より高価な寝具、ということは、ここは王様の──。
「あまり大きく動いてはいけない」
 急に顔を上げたせいか、後頭部がぐらりと痛み目眩がした。脳震盪程度のものなのだと思う。けれどたしかに、しばらくは安静にするべきだろう。
「ご安心を、ここは宮内の休息所です。兵士たちの領域ではありません」
 倒れる直前に聞いた穏やかな声音が、すぐ横から聞こえてくる。数度まばたきをくり返し、そこにいるのが先ほど見た長身の男性であることを確かめる。身にまとう革製の防具と、年季の入ったその様子から、彼が歴戦の兵士であることが窺えた。
「兵士長のコルトワと申します。先ほどは私の部下が失礼いたしました」
 彼は深く頭を下げると、濡らした布を差し出して「もう少し当てておくといい」と言った。独特の薬の匂いがする。湿布薬のようなものだろうか。
「ありがとう、ございます」
 かすれた声が恥ずかしくて何度か咳払いをすれば、優しく目を細められ、頬のあたりが少し痒くなった。
「武器を持たぬ女性を相手に……武人としてお恥ずかしい限りです。私からよく叱っておきますゆえ、どうかご容赦を」
 歳の離れた異邦人を相手に、礼儀を尽くしてくれる彼を見て私はイェトラさんのことを思い出す。近頃は水汲みのあと決まって休憩所で顔を合わせるため、今頃心配をしているかもしれない。
「兵士長……」
「はい。清めの儀を終えた聖槍は、太陽と月を三日あてたのち蔵へと収納されます。それを見たがる子らは多い」
「怪我はないようでした」
「私もかけていく姿を見かけましたよ」
「……お仕置きを受けるのでしょうか?」
「あいにく顔までは見えなくてね。ウルクの兵士は厳格だが、子供には甘いのです」
「そうですか」
 ほっとして目を閉じる。古代の司法は苛烈だ。それが幼い子にまで適用されるのではと心配したが、どうやら杞憂のようだ。たしかに街をかけ回る子供たちは皆のびのびとして明るさに満ちている。エニマトさんの笑顔だって、利発ながらに愛らしく子供らしいものだ。
「良い国だと思います」
 自らに言い聞かせるような私の言葉に、コルトワ兵士長は少し困ったような顔をした。
「ギルガメッシュ王が即位されてから、この国はたちまちに発展しました」
 王より年長であろう兵士長は、彼のことをずっと見てきたのだろうか。兵士長という役職に任命されるほどなのだから、きっと昔から信頼が厚かったに違いない。
「王の即位は早かったのですか?」
「はい。彼は生まれたときから王であったのです。先代の王は彼が産み落とされてすぐ、速やかに退き尽きるようその命を終えました」
「生まれたときから……」
 彼のアイデンティティを知るにあたり、生い立ちというものは無視できないだろう。自我を得た瞬間からその身に責務を背負って生きるとは、一体どのような感覚なのだろうか。
 私だって物心がついたときから、将来は立派な魔術師になるようにと後継の役目を負っていた。けれど一族と国とでは規模が違う。それにウルク第一王朝の中期といえば、国同士の争いが激化を極めた戦国時代のようなものだ。民のため、国のためと日々戦争の決定権を握らされ、子が伸びやかに育つことなどできるだろうか。
 加えて──彼は王だけでなく、神としての立場をも背負っていたのだ。こちらに関しては、私などでは少しの想像もつかない。役割のため生み出された半神の王。神と人とを繋ぐ者。神を忌むようになった王様が、今日までのあいだ何を思い、何を成してきたか。それを知らずしてこれ以上、王様を理解することはできないように思う。
「ギルガメッシュ王のことを、知りたいのですか?」
 よほど思いつめた顔をしていたのか、俯く私に兵士長は驚いたような声を出した。私はそれを、豊穣の儀を知らない私に目を丸くした、イェトラさんの反応と似たものだろうと思った。
「はい。私には……あの王のことがわかりません。ギルガメッシュ王の在り方や考え方が、私には全くわからないのです。こんなことを言えば、不敬だと驚かれるかもしれませんが」
「いえ、むしろ」
 コルトワ兵士長はそう言って一度咳払いをすると、居住まいを正し私を正面から見つめた。深い赤褐色の瞳だ。高い鼻筋が指揮官としての彼の威厳を示しているようで、私はごくりと息を飲む。
「逆なのです。まさかあの王を理解しようと、真剣に悩まれる方がいようとは──」
 彼は本当に驚いているようだった。しかし、知らないことでなく知ろうとしていることに驚くとは、一体どういうことなのだろう。
「民にとって王は王です。それはただそこにある大地、霊山、激流のようなもの。魔獣の住まうエビフ山と大差ありません。理解などできようはずもないと、皆そう思っています」
 言い切った兵士長の口調はしっかりとしたものだ。けれどそうであるほど疑問は増して、私はつい尋ねてしまう。
「あなたも、そう思っているのですか?」
 今度こそ、彼の瞳は大きく見開かれた。ぎくりとしたような、ほっとしたような不思議な表情を浮かべながら、兵士長は息を吐く。
「長く王に仕えてきました」
 まるで昔話を語るような口調だ。その目はすでに穏やかに細められ、また優しげな色をまとっている。一瞬の動揺はきっと彼にとって珍しいものだったのだろう。
「幼き王の聡明さと寛容さは、まさに賢君の器と呼ぶにふさわしいものでした。誰もがこの少年王とともに成長を遂げる、輝かしき国の未来を夢見ずにはいられなかった」
 訥々と語られるその言葉の端々に、またも違和感を覚える。昔話と言っても、それは今なお続く物語のはずだ。
「過去の出来事……ではないでしょう。ギルガメッシュ王は今も健在です。統治の腕も相当なものとお見受けします」
「もちろんです。王の治世はいつだって素晴らしい。とりわけ先見の明においては人離れした視野をお持ちだ。誰にも思いつかぬ政策を立て、またそれを自ら成し遂げる剛腕もある。ですが……ある時から王は変貌したのです」
「変貌?」
「何が彼を変えたのかは誰にもわからない。人より秀でた存在が、人より苛烈な成長過程を辿ることはあるでしょう。ですが……その変化はあまりにも明確なものだった」
「明確、ですか」
「はい。誰であろうと礼を尽くし、周囲を慮る少年王の面差しはもはや見られません。幼き頃の王にも確かにご年齢にそぐわぬ怜悧さと、生まれながらの気迫がありました。けれど確かに和を重んじ、弱きを労わる心をお持ちであった」
 目を閉じて、王の幼少期を想像する。天に授かった眩い金髪の下で、利発な目が輝いている。けれどそれは子供らしい健やかなものでなく、今と同じ抜け目のない鋭さを持ったものだ。私には無邪気な少年としてのギルガメッシュ王の姿が想像できない。
「ご存知でしょう。長じてからの王は、宝物の剣で意にそぐわぬものを即座に処断なさる。長く仕えた家臣であれ、申し分のない戦士であれ、ときに自らに尽くす女性ですら……処すると決めた王の刃からは決して逃れられない。弱きを個体の限界とし、手を差し伸べることもなくなってしまわれた」
 私にも向けられた無数の刃。それは彼の生き方を具現化したかのような特異能力だ。以前、女官仲間に聞いたことがある。彼はあの金の輪っかの内に、この世の全てを収めているのだという。私の知る「伝説としてのギルガメッシュ王」の知識にも、たしかに蒐集家という側面はあった。けれどまさか、異能としての宝物庫を常に背後に背負っているだなんて思いもしない。
「悪癖がついたのも同時期です。女官であろうと町娘であろうと欲しければ奪い、そのまま後宮へ放り込む。それを誉れとする者も少なからずいるが、貞淑を良しとするウルクの民の多くは、まるで山賊と変わらないと不満をこぼす有様……」
 何が彼を変えたのだろう。もしくは、何故彼は変わったのだろう。自ら生き方を変えたのだとしたら、そこには明確な展望があるはずだ。あのよく見える赤い目で、彼が見据え、目指すものとは何なのか。
「きっかけなどは、なかったのですか?」
「少なくとも、私には思い当たりません。ですが私などには理解できない何らかが、きっとあったのでしょう。力を持ちすぎた王に、力を貸せる者はおりません。ましてや御心を見透かそうなど許されるはずもない。私はいつからかそう自分に言い聞かせ、保身に甘んじるようになった」
 俯き目を伏せて、彼は悔いるように言う。
「お恥ずかしいことです。王のため国を護ると言いながら、王国の何たるかさえ理解できない。王は理解の及ばぬ神などでは決してない。ギルガメッシュ王は人の王です。それは確かだというのに」
 人の王。はっきりとそう口にした兵士長に、私はどこかほっとしていた。人ならざる威光を持ち、指先一つすら動かさず剣を放つあの王を、人と言い切るこの人はきっと王を心から敬慕しているのだ。
「少しでも理解できれば、何か変わるのでしょうか」
「王を変えようなどとは、思っていません。それはあまりにも恐れ多いことです」
「でも、人が人を変えずに生きることなんて──」
 そう言いかけて、私はとっさに言葉を飲み込む。この考えは傲慢だ。いつの時代にもできることとできないことがあり、皆言われるまでもなく、それらと向き合いながら生きているのだ。軽はずみに押し付けていい理想などない。
「……すみません」
「いえ。いいのです」
 ぎゅっと握りしめていたせいで、濡れた布巾はすっかり温くなっている。
「良き人に、囲まれて生きてきたのですね」
 兵士長は私を見つめ、またゆるやかに目尻を下げた。「この国でもそうです」そう言おうとして恥ずかしくなった私は、曖昧に頷いて下を向いた。いつか返せるだろうか。考えかけて、首を振る。きっとこれは借りではない。温かな人達への感謝が疲労をやんわりと包んでいく。

2019_04_13


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