11 蔵の影

 この場所で目覚めたとき、王様の姿があることは稀だ。重たい頭をゆっくりと持ち上げながら、私は室内を見渡した。伽を務めた翌朝は決まって寝起きが悪い。そのうえ昨夜は慣れない酒まで口にした。
 今朝も王様の朝は早いようで、すでに姿は見られない。明かりとりから差し込んだ太陽が天蓋の布を透かすのを見て、もう日は昇っているのだと思った。普段ならばとっくに着替え、仕事に向かっている時間である。
 ぼんやりとした意識のまま衣服を羽織りなおし、床に足をつけたところで人の気配を感じた。寝所の掃除に来ていたらしい女官と目が合った途端、彼女は小さく声を上げる。
「ご、ごめんなさい。驚かせましたか」
「……いえ、失礼をいたしました。まさかまだ、こちらにおいでとは」
 彼女は目を丸くしながら、信じられないという風に呟いた。たしかに女官はとっくに仕事に励むべき時間だが、閨に呼ばれた翌朝は暗黙の了解で朝の仕事が免除されるのだ。
「もちろんお休みいただいてかまいません。ですが……夜伽を務めた女人は、王の目覚めぬうちに床から去るのが礼儀でございます」
 彼女は遠慮がちにそう口にしてから、私の五体が満足であるか確認するよう視線を走らせた。どうやら当然の礼儀であるらしいそれを守りもせず、ぐうぐうと眠っていた私が無事なことに驚いているらしい。数度目の務めにしてようやくそのような作法を知った私は、冷や汗をかきながら慌てて帯を締めた。けれど、呼ばれて侍った側がなぜ逃げるよう去らねばならないのか、という憤りも否めない。
「──牛のようによく寝る女とは思っていたが」
 急ぎ寝所の境をくぐったところで運悪く鉢合わせた王様は、そう言って呆れたように私を見下ろした。
「いや、牛というほど豊満ではないな。やはり死にかけのネズミといったところか。あまりに深々と寝息を漏らすゆえ、さすがの我も寝台から蹴落とすことを躊躇ったぞ」
 嬉しくない類の同情とはいえ、命拾いをしたことは確かのようだ。素足の指でほんのりと熱を持つ床石を踏みしめながら、私は言い訳の言葉を探す。
「その……夜の作法というものをよく知らなくてですね」
「そのようなことは教えられずともわかろうが。端女が王より後に目を覚ましていい理由がどこにある」
「そうは言っても……」
 あのような無理を強いられて、早朝に目を覚ますことなんてとてもできない。そもそもいつ意識を手放したかさえ覚えていないのだ。気の済むまで女の腰を離さないこの男に落とされて、目覚ましもアラームもないこの時代にどう起床しろというのか。
「そのように阿呆な問いかけをするのは貴様くらいだ。そも、王の床でのうのうと深寝などするでないわ。どれだけ図太い神経をしておるのだ」
 人を並外れた無神経女のように言うが、私だってこちらに来てからしばらくのあいだは安眠できない日々が続いていた。だからこそ、深い眠りに突き落とされると箍が外れたように眠ってしまう。とくに王様の寝台はやわらかく寝心地がいいため、余計に朝が辛かった。もとから寝起きがいい方ではないのだ。
「怠惰が過ぎるぞ。我は伽に呼んでいるのであって、添い寝などは望んでおらん。妾らしく役割を弁えよ」
 都合の良すぎる男の主張に腹が立ったが、ここで口答えをして意味があるとも思えなかったため、私は会釈だけをして彼の横を通り過ぎようとした。
「……まったく不遜なことよな。鞭で打って躾けねばわからんか」
「は、離してください」
「近衛の兵士どもの中には貴様を快く思わぬ者も多くいる。機会をやれば喜んで折檻するであろうな」
 軍の男達から嫌な視線を向けられていることには、以前から気付いていた。女官や祭祀官と比べ排他的な彼らは、王の決定といえど本能で余所者を忌み嫌うのだ。
「どうか、ご容赦を」
「ならば従順にせよ。この肌は汚すに惜しい」
 陶器の表面を撫でるように、王様の指が肩に添う。彼は女を愛さないが、嗜好品なら愛でるのだ。私はもう一度お辞儀をすると、触れられた肩を手で押さえながら足早に去った。端から見れば到底許されない態度だろう。しかし王様はそれ以上何も言わず、背後から私の首を刎ねることもなかった。



 偶然か必然か、王の言葉が予言となったのはその数日後のことだった。
 水汲み場の裏手から響いた大きな物音に、手を滑らせそうになった私は慌てて水瓶を抱え直した。けれど後に続いたか細い悲鳴に、再びそれを地面へ置く。
 たしかに子どもの声だ。資材の崩れるような音のあとにそんな声が続いたとなれば、起こったことの大方の予想はつく。井戸の裏手から、いまだ足を踏み入れたことのない訓練場の広場を横切り、立ち並ぶ土蔵の間へと駆け込んだところで、ようやく音の正体を突き止めた。
 扉の横にずらりと並んだ新品の槍が数本倒れ、その横に幼い子どもがうずくまっている。
 慌て駆け寄り、声をかけた。見たところ大きな怪我はないが、驚きからか顔を真っ赤にして泣きじゃくっている。
「今、どけるからね」
 木製の柄とはいえ人の背丈よりある大槍だ。下敷きになっていたらと思うとぞっとする。
 歩きやすいよう端へ寄せ、手を引き起こしたところで蔵の向こうから人の声が聞こえた。どうやら私の他にも騒ぎを聞きつけた人たちがやって来たようだ。
「お前は、件の──」
 しかし現れた兵士たちの顔色を見て、私は瞬時に状況を悟る。
「ここで何をしている!」
 腰の剣を抜きながら間髪を入れず詰め寄る兵士に、すかさず手を上げて害意がないことを示した。人外の王でなくとも、屈強な男に武器を突きつけられればやはり恐ろしい。
「音を聞いて、駆けつけました。子供が倒してしまったようです。幸い怪我はないようで──」
「見え透いた嘘を言うな、子供などどこにいる?」
 たしかにすでに姿はないが、逃げ去る後ろ姿は彼らにだって見えていたはずだ。けれどそれを口にする者は誰一人いなかった。
「大体、お前のような未婚の娘がこの場所に足を踏み入れて良いと思うのか! ましてや槍に触れるなど……」
 兵士たちの訓練場が女人禁制だということは聞いたことがある。けれどあの状況では、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「槍に触れ、穢した責任をどう取る! 来たる戦のため清められた聖槍であるぞ!」
「申し訳ありませんでした。ですが……」
「黙れ、異国の者であるからといって知らぬ存ぜぬで済ませられることではない。仕来りの冒涜は王国への冒涜である。この後始末、どう付けるつもりか」
 激高した兵士たちにはとても話が通じず、どうしたものかと困り果てる。王様の言葉が蘇り、脳裏に最悪の事態が浮かんだ。
「処分が必要であれば、上の者に告げていただく他ありません」
「上の者だと? 貴様ごときの処罰のため上官の手を煩わせていられるか」
 彼らの望みは明らかだった。今この場で、自分たちの手で私を裁きたいのだ。剣先をぴたりと突きつけ、陽の光を遮るよう私を取り囲む兵士たちの目は嗜虐の色に満ちている。圧はだんだんと増し、鎖骨の下に刃先が食い込むのがわかった。
「……裁くと言うなら、どうか明日以降にお願いします。今宵は閨へ呼ばれています」
 暴力に陶酔しかけていた男たちの顔色が、その言葉で瞬時に変わる。
 端にいた男が同僚に剣を下げさせ、私の顔をじろりと睨んだ。
「太々しい女だ。自分が何故剣を向けられているか、わかっていないようだな」
 悪意や敵意に紛れ、確かに垣間見えるのははっきりとした怯えだ。未知の者に対する恐怖。それを隠すため、彼らはこうも熱り立っているのだ。
「ギルガメッシュ王は十全のお方だ。完璧の姿でお産まれになり、綻びというものをご存知ない。ゆえに王は、持つべき警戒心というものもお持ちでない」
「……」
「だが我々は違う。出自の知れない異国の神官を宮内に囲うなど」
 振る舞いは横暴だが、その言い分には一理あるのだと思う。檻などいらぬと豪語できるのは、王個人に人並み外れた力があるからに他ならない。私が国の転覆を企む魔術師でないという保証はないのだ。防衛を担わされた一介の兵士たちからすれば、たまったものではないだろう。
「貴様、どのような奸計をもってこの国に入り込んだ? 謁見の間で道理の通らぬ問答を繰り広げ、一度は王に裁かれたというのに、何故いまだに王宮をうろつくか!」
「……身の潔白を証明する術は、今の私にはありません。ですが私の処遇に異論があるならば、王に直接進言していただく他ない」
 王の命令が絶対であるというなら、こちらだってそれを利用させてもらう。王への絶対的な忠誠心がある限り、彼らに私を害することはできない。そしてこれは私の勘だが、行く末を見届けると言った以上、王様は他の者に私を裁かせはしないだろう。
「少女のような顔つきをして、したたかなものだ。王を誑かして何とする」
「誑かす?」
 警戒の色を蔑みに変えた男は、私の体を一瞥すると吐き捨てるようにそう言った。冷静にと努めていた心が途端に奮え、頭が冷える。生きながらえるという目的のため、国や王に心身を捧げると決めたのは私だ。けれどだからといって、他人からいわれなき中傷を受ける筋合いはない。
「私が好きであの王に侍っていると? 自らの王の悪癖すらご存知ないとは」
「何だと?」
「王の溢れさせる清も濁も、あるがまま飲み込まなければこの国で生きていけないのは私もあなたも同じのはずです。絶対者に国の隆盛を託し切り、恩恵を受けるとはそういうこと。この国の民となると決めた私の覚悟を、あなたに蔑まれるいわれはありません」
「余所者風情がウルクの民を名乗り、われら近衛の兵士と同等を気取るだと? 無礼も甚だしいぞ!」
 気色ばんだ兵士の拳が硬く握られるのがわかった。彼らの誇りや矜持がわからないように、彼らにだって私の葛藤はわからない。礼装の力を借りられない今の私に、熟練の兵士に対抗する術はない。軽率に魔術を見せることも逆効果だろう。そもそも私に彼らと争う意思はないのだ。
 殴りかかると思った兵士は私の胸ぐらを掴みあげると、勢いのまま建物の壁へと押し付けた。衝撃をうけた後頭部がくらくらとして目が眩む。あまりに軽々と私の体が浮いたことに、彼もまた驚いているようだった。体術の心得など何もない小娘なのだと実感しているはずだ。
「部隊長、そこまでにしなさい」
 不意に聞こえた穏やかな声に、目を瞬かせる。
 壁際にしゃがみ込みながら眩む目で見上げると、立ち並ぶ兵士たちの隙間から壮年の男の姿が見えた。
 声を発しようと口を開くも、喉から息が抜けるばかりでうまく言葉にならない。途端に地面が近づいて、私は仕方なく目を閉じた。

2019_04_07

 
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