10 心の底
「末の妹です」
そう言ったイェトラさんの背後から、背伸びをするようにこちらを覗いているのは歳の頃七、八と思しき少女だった。
こんにちは、と挨拶をすると利発そうな目をくるりと見開き、お辞儀を返してくれる。
「妹の、エニマトともうします。姉がおせわになっています」
はっきりと紡がれた言葉からは見た目以上の才気煥発さが窺えた。そんな彼女に大らかな笑顔を返すイェトラさんを見て、私の頬も自然とゆるむ。
「エニマトとは歳が離れていますが、産後からこちら母が病がちのため、早くに私を産んでいてよかったとよく言われるんですよ」
城下の通りは今日も賑やかに活気付き、家々の間には子どもたちの声が響き渡っている。雨期を終えたウルクの気候はからりと安定し、大地に蓄えられた水の恵みを受けながら人々は農作に、商売にと精を出していた。ジッグラトから見下ろすだけではわからない民の営みを肌身に感じ、改めてこの国の力強さに驚かされる。
「名前さまは、遠方からいらした神官なのだと聞きました」
月の暦に従い数日の暇をもらった私は、イェトラさんに連れられて彼女の実家へと遊びに来ていた。
「神官?」
「はい。北西十二区の地下牢で、一月ものあいだ死霊をしりぞけたと姉さまが」
目を輝かせる少女に、なんと返したものかと迷う。死霊を退けた力の大半はカルデア産の魔術礼装によるものだ。そして何より、死なずに済んだのは一袋の食料があったからに他ならない。
「エニマト。お口を慎みなさいな。何事にも興味を持ち問いかけるのはあなたの長所でもあるけれど、人には思い出したくない記憶というものもあるのです」
「い、いえ大丈夫です。エニマトさん、私が生き残れたのはあなたのお姉さまのお力添えの……」
そこまで言いかけたところで、それは彼女にとっても朗らかに思い出せる記憶ではないのだと思い当たる。腕に走る傷はだいぶ薄れたけれど、きっと一生消えることはないだろう。
言い淀んだ私に、賢い妹君は小さく頭を下げた。
「名前さま、失礼をいたしました」
「いえ、いいんです」
「これ、野生のメスラム草です。王宮のお庭にもあるのでしょう?」
話題を変えた彼女につられ、庭先の潅木を見る。縦横無尽に咲き誇る白い花は、王宮で見たものとはいささか印象が違うけれど、たしかによく知る香りを漂わせていた。
「メスラム、というのですか?」
「はい。神様の名前を授かった、この地にしか咲かないお花です。いろいろな色があるけれど、私は白いものが一番好き」
少女の潤んだ瞳の中に、花と空が写っている。私もこの花の香りが好きだ。散らさないようそっと触れ、匂いをかぐ。甘く切なく、胸にしみる。
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王の夜伽を務める女は、特別に沐浴を許された。祭儀部屋で薬湯に浸かり、身を清めたのち閨へと侍る。その後のことを思えば何度経験しても慣れないが、日本で生まれ育った私にとって温かなお湯に浸かれる一時は嬉しくもあった。
「貴様を呼んだのだったな」
王様は寝所へ踏み入った私を見ると、今思い出したという顔で白々しくそう言った。頭からつま先までを一通り眺め回し、金の前髪の下で目を細める。
「牢で死にかけていた頃と比べれば、大分ウルクの女らしくなったではないか」
数人の化粧師と女官により整えられる妾としての身支度を、初めに施されたときは随分と驚いたものだ。美しい麻の薄布を纏わされ、腕や首、耳元などを、精巧な宝飾で飾られる。薬湯で清めた体に数滴の香油をなじませ、頬を寄せても移らぬ程度の薄化粧を施された。解くにたやすい細い帯紐はいかにも心許なく、閨へ通されるまでの廊下ですら、すうすうとして落ち着かない。
「酒を持て」
王様の声に従い、テーブルに乗っていた酒壺を携える。
閨を覆うのは羅紗だろうか。この時代には有り得ぬほどの瀟洒な布が、天蓋となり寝台へ垂れている。騒ぐ鼓動を落ち着けようにも、ここまでくるといつだって指先が震えた。
「まだまだ痩せぎすだがな。この貧相な足腰、年端もいかぬ少女のようではないか」
口では悪しざまに言うが、その表情は愉しそうだ。王の嗜好は既に知っている。未熟な少女を散らすことに高揚を覚えるこの王にとって、私の小作りな骨格は好ましいようだった。
杯に酒を注ぎながら、王の素肌をなるべく視界に入れないよう窓へと目を逸らす。季候柄仕方のないことだが、彼はいつでも軽装だ。何も纏わない上半身は整った造形ゆえに生々しさを感じさせないが、私はすでにこの体を知っているのだ。いくら素知らぬふりをしようとしても、こうして間近にすればたくましい腕の温度を思い出してしまう。
「貴様も飲め」
「わ、私は」
王の誘いに、どうしたものかと困り果てる。酒など今までほとんど口にしたことがない。祝いの席で一舐め二舐めしたことくらいはあるが、何せ日本においてはまだ未成年だったのだ。
「私の故郷では、未成年の飲酒は禁じられていました」
「未成年だと? その歳で自己決定権の一つも持たぬのか」
「国によりますが、私の故郷では二十歳が区切りで……」
「ふん、労働者も兵隊もそう急いて確保する必要のない国か。いかに平穏かが知れるな」
彼はそう言うと、寝台の造り棚から器を一つ持ち上げて、私の前へと差し出した。
「だが貴様の国の法など知らぬ。ここでは我が法だ」
堂々と言い放たれた言葉にはもはや感心すらしそうになるが、なにも彼は冗談で言っているわけではない。王が自国の法を定めるのは当然のことである。たとえそれが一晩の戯れであっても、彼がそうと決めたのなら異を唱えることは誰にもできない。古代において権力はすべて一所に集約されている。法も裁きもまつりごとも、皆この腕一本で行われるのだ。
仕方なしに半杯ほど酒を注ぎ、おそるおそる口をつける。芳醇な麦の香りのあとに、苦さと甘さがじんわりと広がっていく。味の良し悪しは、慣れない舌ではうまく判断ができない。
「美味であろう。酒は国の豊かさを反映する」
「お、おいしいのだと思います」
「……舌までおぼこでは飲ませがいがないな」
彼は呆れたように息を吐き、自らも杯を傾けた。炊かれた香と酒の匂いが鼻の奥で入り混じり、私の思考はだんだんとぼやけていく。
「だが飲んでおけ。いつまでもそう強張られては具合が悪い」
王が私の杯を無理に傾けるため、半分は口内に、もう半分は顎をつたい胸元へと溢れ出す。必死で飲みくだしながら諌めようとしたときには、遅かった。瞬く間に押し倒され、酒の後を掬うように舌が這う。ぞくぞくと背筋を走る何かは、決して寒気ではない。むしろ燃えるような灼熱だ。喉から流れ込んだ麦酒の熱が体全体を火照らせている。
「強情だが、物覚えはよい」
見下ろす王の顔は満足げだった。幾晩かをかけて覚え込まされた女としての反応が、自然と引き出され息が上がる。腰や膝裏についた痣が完全に消え失せる前に、彼は私を閨へ呼んだ。全ての女をそのように管理しているのかどうかは知らないが、マーキングを施しては女の内側を手入れする、その熱心さと尽きぬ精力には驚きすら覚えるほどだ。英雄は色を好むというが、戦のない平時でこれなのだ。有事の後のことはあまり考えたくない。
「少しは可愛げを見せぬか」
王様はいつまでもたっても縋りつかない私をつまらんと叱りながらも、それならそれでと念入りに追い詰めた。いつまで保つか。好きにせよ。以前言われた呪いの言葉と一緒だ。胸も脚も腹も、触れられれば震える体へと変えられてしまった。女の体はすべての場所に意味があるのだと一つ一つ教えられ、酒で緩んだ神経はそのすべてを嫌というほど拾っていく。割り入られる頃にはすっかりほどけきり、思いの外すんなりと受け入れてしまった。
「細身の女でも中は変わらんな。男に合わせ健気にも形を変える」
汗ばんだ王様の手のひらが膝の裏をぐるりと掴んでいる。またここに濃い色の痣がつくのだろう。女は形を変えると言うが、そうなるまで強引に押し拡げるのは男の方だ。
「……まだ狭いが、夜が更ける頃には丁度良くなる」
こんなものが自分に馴染むのは恐ろしい。そう思っていても気づけば嘘のように変わっている。そんなことを繰り返して、私は真にこの人の物になるのだろう。その頃にはもう、心まで押し拡げられてしまうのだろうか。
想像したら恐ろしく、私は俯いたままぶるりと震えた。重なる肌が怖いほど心地いい。
落とした杯が視線の先で転げている。争いを生む金の器はこの時代にもあるのだろうか。
2019_03_31